60 幼女吸血鬼の真実と純粋なお願い
アリアと二人だけの空間に、降り始めた雨は音を響かせた。
隣に座ったアリアは、まるで力が抜けたかのように、自分の方に体を寄せてきている。
ここまでか弱い彼女を、一緒に居て見たことがなかった。繋いだ手は冷たく、すぐにでも温めてあげたい。
陽はただ、アリアが話してくれるのを信じて待ち、静かに手を握るしかないのだ。今のアリアに返せる、唯一の労いだろう。
陽自身、自分が体調を崩した時にアリアが傍にずっと居てくれたからこそ、こうしてお返しをしている。それは、相手にしてもらったことを自分なりに捉え、しっかりと返すためにも。
紳士としての自分は、今の状況に合わないのは把握済みである。
雨音響き渡る中、アリアは寄りかかった姿勢を戻し、雲がかった表情でこちらを見てきた。
「……家族、いえ、私の生まれた館での出来事を……つまらない話だけども聞いてもらえるかしら」
震える声に、陽はただうなずくしかなかった。それでも、後悔の無いように、繋いだ手を離すことはしない。
聞く心を穏やかに抑え、アリアの方を見た。
その瞬間、アリアは吸血鬼の姿である、セミロングの銀髪に右サイドでまとめた髪型へと変わっている。
「私は吸血鬼の中でも……妹のステラと違って、極めて異質な忌み子である存在として生まれてきたの」
驚きの真実に、息を呑むしかなかった。
アリアは、陽が理解できないという顔をしているのを察してか、考えるように言葉を紡いでいく。
「簡単に言えば、人間の血が飲めず、他人の怪我を癒す力がある……本来あるべき姿の吸血鬼とは真逆の存在よ」
他人事のように彼女は話しているが、明らかに自分を指している自覚はあるだろう。
先ほどよりも冷えてしまった声は、過去を話したくないと見て取れるのだから。
アリアから告げられた怪我を癒す力は、実際に血を吸われた際に治っているので信憑性しかない。
しかし疑問になるのは、人間の血が飲めない、ということだろう。
疑問に思っても、今ここで聞くのはお門違いかもしれないので、後ほど聞けば良い筈だ。
今はただ、アリアの気持ちを汲み取ってあげる事が最優先である。
紳士としてではなく、陽自身の決断で。
「そんな私が若くして館の主になったのだから、他の吸血鬼から反感を買っていた」
「そんなわけ……」
「事実よ。詳しい事情は伏せるけど……親が妹を産んで早々に他界してしまったからこそ、後継ぎでなったに過ぎない、って言われるほどには酷い惨状だったもの。ただ一人のメイドを除いて、私の信用は地を這うよりも明らかよ」
今まで見てきたアリアの姿は、上部面でしか過ぎなかったのだろうか。
陽からすれば、アリアは主としてふさわしい存在だと認識している。
お嬢様として育ってきたアリアは、従者としても近しいメイドが傍で支えていてくれたからこそ、折れずにやってこられたのだろう。
多くの上に立つ者を見てきた陽だが、アリアは肝が据わっており、慕われていないのがおかしいとすら言える存在である。
淡々と冷えていくアリアの声に、感情が揺さぶられない理由は無い。
拳を握り締めずにいられず、噛みしめた口の中は鉄の味がした。
「問題はそこだけに無かったでしょうね」
「問題?」
「……私は、ステラを恐れて、館から外出できない魔法をかけていたのよ。だから、あの子には恨まれても謝りきれないのよ。貴重な時間を奪っていたもの」
アリアは多分、様々な問題を抱えているのだろう。
吸血鬼の問題である以上、人間である自分が乗りこめる立場ではないと陽は重々理解している。
乗り込めるのなら、今すぐにでもこの手で制裁を加えていただろう。
父親譲りの紳士であるのが功を奏してか、この手中には対抗できる程の火力はあるのだから。
アリア程の輝く宝石でも否定されてしまう吸血鬼の世界に、握り締める拳はじんわりと痛みを感じさせてくる。
「ステラの話を聞いていたのなら分かるでしょうけど……三つの条件を込みで人間界に追放されて、唯一のメイドから仕送りができなくされた時は、赤い月明かりの下で川を見る事しか出来ないくらいに自暴自棄になったわ」
あの日の夜、どうしてアリアが川を見ていたのか理解できた気がした。
考えたくもないが、アリアの様子を見るに、あの日に陽がアリアと出会っていなければ、きっと彼女の時間は止まってしまっただろう。
いくら吸血鬼が不死身で、吸血鬼の弱点が無いに等しいアリアでも、命の定めからは逃げられない筈だ。
「……え、アリアさん、羽が……」
急に現れたアリアの羽は、ボロボロだった。
今まで見てきたコウモリの羽がすべて作りものだったのは無いかと、機能していないと認識させられるほど無残な姿をしているのだから。
ゆっくりと動いている、羽の付け根から伸びる骨格だけが、今を伝えている。
「追放される前、ステラを使ってこんなことをするくらいなら、自分たちの手で両親のように仕留めればよかったのにね」
初めて、本当の意味で言葉が出なかった。
事情はアリアに聞いているだけで、全てを知らないからこそ口は出せない。
それでも陽が許せないのは、妹の手を使ってまで姉を、アリアの傷を広げたことだ。
人間も、相手が自分よりも劣っていたり勝っていたりすれば、無自覚に差別をする生き物で、アリアにされていた事と同じかもしれない。
苦しんだ表情をするアリアを見るのは、もう限界だった。
「……曖昧な存在として生まれてきた私は、あの日に絶たれておくべきだったのよ」
聞いていた陽には、冷たさも、声にある棘も、もはや届かなかった。
アリアと繋いでいた手を離した。そして、ボロボロであっても、羽化した美しい羽に手を伸ばし、綿に触れるような力で撫でていく。
確かな存在を感じつつ、ゆっくりとアリアを自然に抱き寄せた。
「し、白井、さん……」
アリアは驚いた衝撃か、くぐもった声を出し、羽が消えていた。
今胸の内にある温かさは、アリアだけから知った温かさだ。
陽はアリアを手放さないよう、更にアリアを抱き寄せていく。
アリアは嫌がるそぶりを見せず、ゆだねているようだ。
「……どう思うかはアリアの勝手だ。でも、アリアがいない世界を、自分は望んでいない」
ひと息置き、軽く震えているアリアの背を撫でた。
「一人で溜めこんで、苦しんで、暗い顔をするなよ」
「だって……」
「――こんな自分だけど、アリアが楽になれるなら、頼ってくれ」
自分に出来る限度は、今のアリアを受け止めるだけだ。
全員を受け止めるわけではない、アリアだから、陽は受け止めているに過ぎない。
アリアと過ごしてきたからこそ、アリアが居ない生活を考えることが出来る筈はないだろう。
アリアがこの世から居なくなりたいというのなら、自分が愛して、生きる理由になるだけだ。
悠久の時を生きる彼女にとっては、自分の生涯に比べれば、取るに足りない理由だろう。
それでも譲れないものがあるからこそ、心からアリアを、自然的に抱き寄せているのだ。
陽は紳士の振る舞いを抑えつつ、アリアの従者として、隣に立つ者として、静かに彼女の頭を撫でた。
「……白井、陽さん……あなただけは、どこにもいかないで」
小さな手は、服をぎゅっと握り締めてきた。
気づけば、彼女は静かに陽の胸の中で嗚咽を漏らし、長い年月で溜めこんだ雫を吐き出しているようだ。
陽はアリアを見ないように、そっと頭を撫で、隠すように包み込んでおく。
彼女の言葉が、声が続く限り。
(アリアさん、今まで一人でお疲れさま。今はもう、一人じゃないよ)
今はただ、アリアというたった一人の少女を、陽は静かに受け止めるのだった。




