22 幼女吸血鬼の『だけ』で温かさを知る
「あれ? アリアさん、まだ行ってなかったんだ」
制服に着替えを終えてリビングに下りた陽は、ぱったりと出会ったアリアに驚きの声が漏れた。
アリアと一緒に過ごしているので、出会うことは絶対にあるだろう。
それでも陽は、アリアが登校していないのはフリルのリストバンドをつけた時以来なので、動揺を隠せず口に出してしまったのだ。
アリアは陽の様子に呆れたのか、フリルのリストバンドが付いた右腕をチラ見せして、そっと近づいてきた。
「聞きたいことがあって待っていた、と言ったら理解出来るかしら?」
「聞きたい事?」
アリアの問いに首を傾げるしかなかった。
普段であれば聞く聞かない以前に、お互いが自由に過ごしているのだから。
どちらかに不備があれば話し合いはするが、基本的には程々の干渉、といった感じがアリアとの生活には多い。ただし、アリアは何かと干渉してくるので、陽の紳士度がある意味増すばかりだ。
アリアは深紅の瞳で陽の姿を反射させてから、そっと息をこぼした。そして、小さく呟くように言葉を口にする。
「どうして私と一緒に学校に登校しないの、って思ったのよ」
小さなわがままに、陽はぴくりと肩を震わせた。
「下校が一緒なのは知れ渡っているのだから、登校中にあなたが私に日傘を差してもおかしくない話でしょう?」
アリアの見解は、陽自身分からなくもない。
一部の熱狂的なアリアファンを除き、学校での噂に収まりを見せたのは事実だ。
アリアがじっと見てくるので、陽は内心で焦りが湧いている。
一緒に登校しないで時間をずらしているのは、確かにこちらのエゴであり、避けたいという恐れからだ。
「……下校は一緒でも、朝から一緒だと色々疑われそうだし、あらぬ噂が立ったらアリアさんが困らない?」
周囲の目を気にしない陽であっても、アリアのことになれば気を遣うしかない。
アリアに危険が及ばないように、自分が犠牲となってでも、彼女を守るという紳士の役目を全うしたいのだから。
下心や貸し借り関係なく、ただアリアと、一緒に過ごせる関係でありたい自分のエゴだ。
「別に私は困らないわよ? 他者の価値観っていうのはね、相手を否定するためか、自身を肯定するためにしか扱えない者が多いもの」
「それ、結論的にはどっちも相手を侮辱しているよね?」
「人を食って蹴落として生きる……それが人間の人生なのでしょう?」
アリアの正論に、陽は言葉が出なくなっていた。
彼女の言う『価値観』というワードは最初に会った時もだが、どこか棘の生えた冷たい声を感じてしまい、話題を広げたいとは思わないのだ。
正直、陽の本音は、自分の居心地が悪くなる、というエゴの塊であり、自分を守るためなので何も言えない。
人は出る杭や異質な者を嫌う……共感性という名の過ちを繰り返し生きていくのだから。
陽が拳をギュッと握り締めた時、アリアは着ていたカーディガンを整えた。
「言い過ぎたわね。この話題を振った私が悪かったわ。今のあなたには、荷が重いわよね。……その殻、いずれ破れるといいわね」
陰りを見せた雰囲気に、アリアは微笑みを見せ、小さな光を差し込ませた。
日光が苦手な吸血鬼の筈なのに、まるで彼女自身が、陽の太陽だと思えるくらいの輝かしい笑みを。
「……アリアさん、どういう蛹を意味してる?」
「あなたが一番よく分かっているんじゃないかしら? 蛹から羽化した美しい蝶は、その羽がもげようと美しいものよ」
バッサリと切ってきたアリアだが、こちらの本心を見抜いているようで、陽は些か居心地が悪かった。
アリアに過去を話していないとはいえ、まるで過去を知っているかのような話し方なのだから。
陽はただ、うつむくことしか出来なかった。出来なかったというよりも、アリアを視界に収めているのが今だけは辛かったのだ。
迷ってしまった自分とは違う、自分を持っているアリアに憧れを、手を伸ばしたいと思ってしまうから。
陽が息を吐きかけた時、小さな風が肌を撫でた。
ふと前を見上げれば、アリアはコウモリの羽を顕現させ、そっと腕を広げてこちらを見てきていた。
「……アリアさん?」
「白井陽、今日は特別に、私を抱きしめることを許すわ」
「……は?」
アリアの言っていることを理解できなかった。
確かに陽は、アリアを抱きしめてみたい、と心の片隅で何度か思ったことはあっただろう。
しかし陽の頭に思い浮かぶのはハテナマーク、ただ一択だ。
アリアから唐突な誘いもそうだが、この誘惑に乗ったら紳士ではなく、自分という存在が甘えたい欲が強いのかもしれないのだから。
アリアの前では今更かもしれないが、これでも陽は大分そっぽを向いている状態に近い。
アリアを吸血鬼や女性として意識することをしないで、アリアというたった一人の少女として意識してきたのだから。
じっと見てくるアリアに、陽は目を逸らしたかった。
「その、アリアさん、自分を大事にした方が――」
「馬鹿なの? あなただけにして、あなた以外に許すことなんてしないわよ」
「いやっ、だから、言葉よ!」
何度も聞き逃してきたが、流石の陽も今だけは声をあげた。
あなただけ、という小悪魔のような誘惑は、陽の心を何回も射抜くように飛んできていたのだ。
今それをすべて受け入れれば、陽は後戻りできなくなると思っている。
人間の変化で、相手を数十秒抱きしめればストレスが軽減されるという抑止欲効果があるのも知っている。しかし、付き合っていない、過去の影響で恋愛感情も沸くことが出来ない、一緒に住んでいる関係だからと抱きしめてもいいのだろうか。
自制心が無ければ、陽は真っ先に、何も考えずに抱きしめていただろう。
陽が息を吐けば、アリアは小さな手でこちらを囲うように近づいてきた。
「ごめんなさい。言い方が悪かったわね」
「いや、自分もごめん。急に声をあげて」
「仕方ないわよ。その、白井さんにはお世話になっているから、その……少しばかりのご褒美よ。これで楽になる気持ち、救われる気持ちがあれば、って思ったのよ」
陽は、息を呑んだ。
勘違いしていたが、これはアリアなりの労わりだったのかもしれない。
下心があったのは、間違いなく自分だ。
陽は息を整え、アリアを真剣に見た。
「アリアさん、少しだけ、良いかな……」
「ええ、どうぞ」
陽はアリアを上から抱きしめるように腕を伸ばし、ゆっくりと包み込むように腕を回した。
(……女の子って、こんなにも柔らかくて、温かいんだ)
アリアの体に回した腕は、小さな体にある確かな柔らかさに、母性のような温かさを感じさせてきた。
抱きしめるという動作その一つだけで、陽の心は安らかな世界に誘われているようだった。
アリアは求めるように、小さな手を伸ばし、背中を優しく撫でてきている。
数分した後、陽は回していた腕を離した。
陽も満足しているのだが、アリアがまんざらでもない笑みを浮かべているのを見るに、アリアの方が一番ご褒美だったようだ。
「ふふ、満足したかしら?」
「……ご褒美以上のご褒美過ぎて、自分にはもったいないくらいだよ」
「満足したのなら何よりよ。……人を愛する、っていうのはどういう事なのかしらね」
アリアの問いに、陽は表情にわずかながら陰りを見せた。
「……自分も知らないや」
顔は笑っているのに、陽の心は泣いている。
知らないと首を振った陽に、アリアは小さな笑顔を浮かべた。
「白井さん、私は満足したから先に行くけど、遅れちゃ駄目よ?」
「心配しなくても大丈夫だよ」
「……あ、そうそう。そこに包み袋を置いてあるから、持っていくといいわ。それじゃあ、お先に」
「アリアさん、いってらっしゃい」
アリアを見届けた後、陽はリビングに戻ってきた。
そしてアリアに言われた、テーブルに置いてあった包み袋に目をやった。
準備をする為に持ち上げた時、白い紙が下に置いてあるのが見える。
白い紙を手に取り、折りたたまれていた紙を開いた。
「……新妻? アリアさんが……妻……頭冷やすか」
アリアは手作りのお弁当を準備してくれたらしく、陽は笑みをこぼさずにはいられなかった。
小さな幸福一つに胸躍る気持ちは、幸せの形を意味しているのだろう。




