19 幼女吸血鬼の口づけは誘惑となる
「あれ? アリアさん、まだ行ってなかったんだ?」
朝ご飯を食べ終えてから、制服に着替えを終えた陽は、制服姿で椅子に座っていたアリアに動揺を隠せないでいた。
黒いストレートヘアーに、制服の中に隠れたちらっと見える白い肌、特徴的な幼女体型で深紅の瞳を持った彼女を、見間違えるはずがないだろう。
普段であれば、アリアは被らないように考慮してか先に登校しているのもあり、この時間に会うとは思わなかったのだ。
アリアは深紅の瞳でこちらを見たまま、ゆっくりと椅子から立ち上った。その時、テーブルに置いてあった学校の鞄の後ろから何かを手に取ったようだ。
近づいてくるアリアに、思わず息を呑んでいた。
「えっと、どうしたの?」
返答もせずに、ただじっと見てくるアリアに陽は困惑するしかなかった。
お互いに遠慮をしないのはあるが、黙ったままでいるのは違うだろう。
陽としては、アリアが不快になるようなことをしてしまったのではないか、と内心では多数の考えが巡っている。
昨日はアリアの誕生日を小さくも祝っただけであり、思い当たる節が無いのだ。
それ以前に不愉快なことをしていたのなら、罰を受けるのは重々承知しているので、アリアに頭が上がらなくなる。
沈黙の空間が続いた時、アリアは陽の前に、後ろに隠していた小さな手を出してきた。また、その手には何か持っているようだ。
「あ……これは、自分が昨日プレゼントしたリストバンド」
アリアが前に出してきたのは、上下対称の控えめながらの白いフリルに、中央に赤いリボンが蝶々結びで巻かれているリストバンドだ。
ふと気づけば、アリアは凛とした様子ではあるが、謙虚の雰囲気を露わにしている。
「その、初めては白井さんに、着けてほしいの」
アリアからされた初めてのおねだりに、陽は息を呑んだ。
柔らかに見てくる深紅の瞳に反射する自分の姿は、前髪を下ろして整えているだけの、自信の無い陽の姿である。それなのに、息を呑み込んだ姿は笑みに溢れている。
陽自身、リストバンドはアリアが試しに着けたとばかり思っていたので、着けてほしいと頼まれるのは意外だった。
別にアリアは美少女なので、自分のセンスで選んだものでも着こなしてしまうだろう。
陽は驚きながらもうなずき、小さな手から包み込むように、フリルの付いたリストバンドを受け取った。
「アリアお嬢様の仰せのままに」
「あら? もっと気楽にお近づきになってよろしいのよ。私だけのどこか抜けた紳士さん」
「嬉しいお言葉をありがとう。お手を失礼します」
陽はアリアの背丈に合わせるように膝を曲げ、片膝を床につけ、アリアの右手を自分の手に優しく乗せた。
フリルのリストバンドは、アリアの細い腕を考えてフリーサイズなのでズレる心配はいらない。
陽は不器用ながらも、アリアの制服の袖をシワが付かないようにめくりつつ、露わとなった白い肌にフリルのリストバンドを通して手首より少し下に付けた。
付ける際、アリアは肌に触れられるのが慣れていなかったのか、微かに体を震わせた。
陽がゆっくりと手を離せば、アリアは笑みを浮かべた。
「アリアさん、凄く似合っているよ。お嬢様の雰囲気に存在感が増えたようで、着けているものすらも輝いて見えるよ」
「良く回る口ね……白井さんに褒められるのは悪くないわ」
貶されているのか褒められているのか理解できないが、恐らくは後者と思いたいところだろう。
陽自身、父親と比べれば確かに口下手である自覚はあるが、アリアの前ではできる限り言葉を交わしたいのだ。
たとえ、会話の無い空間を好む時が来ても、彼女の声が柔らかくも耳への癒しとなるのなら。
ふと気づけば、アリアはリストバンドをつけた腕を自分の方に寄せ、小さく微笑んでこちらを見てきていた。
目の前に居るのは吸血鬼であり、実質的な小悪魔であるのに、陽の目には天使が舞い降りたように見えている。
幼女体型でありながら、美少女であり何かとおせっかいを焼いてくるのに、嫌とは思えない存在のアリアが天使のように。
右手の甲に重ねられた左手がアリアの顔元によるだけ、フリルのリストバンドは存在を負けまいと主張しており、後光と見間違えるほどに輝いている。
陽が見惚れていれば、アリアは制服の袖を戻しつつ、リストバンドを白い肌と共に自身の中へと隠していた。
(……自分は、アリアさんに恋愛感情が湧いていない筈なのに……胸が温かくて、むず痒い)
弾む鼓動は、アリアが目の前だというのにとどまることを知らない。
陽が動揺を隠し通そうと思っていた時、不思議な光景が目に映った。
アリアはにこやかな表情を顔に浮かべ、自身の口元に右手から伸びる人差し指を近づけようとしていたのだから。
「……白井さん、これは、私からのちょっとしたご褒美よ」
「ご褒美?」
頭上にハテナが浮かびそうな程、アリアの言葉は理解できなかった。
アリアを見ていれば、伸びた細い人差し指はアリアの唇に触れている。
深紅の瞳を細めてこちらを見てくるアリアは、今だけは小悪魔のように見えた。
指先が離されれば、新たな場所を目指すように陽の元へと向かってきていた。
瞬きする間もなく、アリアの人差し指はふわりと陽の唇に触れている。
確かな熱を帯びた指先から伝わる感覚は、今の陽にとって刺激的であり、思考そのものを止めてくるようだ。
陽の唇に指を触れさせたアリアは、二人だけの秘密よ、と言わんばかりにもう片方の手でシーっとする仕草をしている。
そんな不思議な光景に、何を考えて、行動に、言葉を口にすればいいのだろうか。
紳士としての振る舞いを教育されてきたが、アリアからされた行動はどの辞典にも、辞書でも見たことがない。
アリアは満足したのか、指を離し、自身の唇に沿うように、陽の唇に触れた指先を触れてみせた。
何気ない間接キスは、陽の心を、偽りの恋のような感覚を加速させる。
今目の前にいるのはどちらかと言えば、吸血鬼と言うよりも、小悪魔であり、サキュバスと言った方が心的には気楽なのかもしれない。
「ふふ。どこか抜けた紳士さんにとって、私の口づけされた指でも刺激的だったかしら?」
「……アリアさん、絶対他の人にはやらないでくれよ。……アリアさんは美少女だし、皆の憧れの的だから、この関係がバレると騒ぎになるから」
「独占しようとしない優しさ、どこか抜けたというよりも鈍感ね。安心して、私がやるのは白井さんだけ、よ」
「いや、安心出来る要素が無いんだけど?」
「あら、もうこんな時間。白井さん、私は先に出るけど、あなたも遅れないように来るのよ」
アリアはおせっかいを一つ焼き、リビングを後にした。
ドアの閉じた音がした時、陽は身体から力が抜けるかのように、膝から崩れ落ちた。
消えない温もりに、アリアからのご褒美は、陽のキャパシティーを余裕で超えていたのだ。難なく立っていたつもりだが、アリアが去ったことで気が抜けてしまったらしい。
陽は自分の顔を隠すように、手を開いて被せた。
「……アリアさん、なんで自分だけって。それに、あんなことされたら可愛いと思わない訳が無いよ……」
籠った熱が抜けるまで、陽は落ちつかない鼓動と気持ちを整理するのだった。アリアという吸血鬼にされた、小さな口づけの意味を探るように。




