桜の木の下で
貴方は覚えていますか?
あの王城の隅っこにある小さな庭園の奥にある。
東の方角にある小さな島国にしか生息しないという木。
年に一度、僅かな期間だけ綺麗な薄桃色の花を咲かせるその木の下で。
私たちは初めて手を繋いだのですよ。
ほら、こうやって。
美しい娘が恥ずかしそうに頬を染めながら、細く白い指先で僕の手をそっと握りしめてきた。
滅多にない彼女からの接触に驚く僕を、悪戯っぽい瞳で見つめていた彼女は珍しくも弾かれた様に笑った。
思えば あの時。
彼女には既に「予感」があったのかも知れない。
クラウスの朝はまずアナスタシアが滞在している部屋を訪問する所から始まる。
「シア、おはよう」
既に優秀な侍女によって身支度を終え、此方を向いておはよう…と唇の動きだけで挨拶を返すアナスタシアの表情は年端もいかぬ子供の様に幼い。
部屋に運ばせた朝食をすませた後、小さなテーブルを挟んで座り二人で『勉強』をする。
様々な大きさの並べた絵姿を眺めながら、アナスタシアに彼女や自分の親族や城の学園生達や城の役職に就いている者の名前を紙に書かせる。
それはクラウスにとって、泣きたくなるほど切ない時間だった。
しかし、しなければならない。
それがアナスタシアにとって必要な事だから。
白い紙が羽根ペンの細い頼りない文字で埋め尽くされていく。
そのペンの持ち方も木を握るかの様な、妙な持ち方だ。
文体が途中から小文字のみになったのに、クラウスは気づかないフリをした。
彼女の友人達の途中でアナスタシアはもう続きが書けなくなった。
悲しそうに眉根を寄せた後、アナスタシアは俯いた。
今にも泣きそうな顔をしている。
「シア、これは誰?」
クラウスが指差す先を見たアナスタシアの表情が和む。
くらうすさま
「そうだ、そうだね…シア……」
何度もクラウスが肯定する。
少し得意げに笑ったアナスタシアの表情に胸が詰まった。
アナスタシアは病気だ。
現代の医学では直るのは不可能な…原因すらも解明されていない不治の病。
とは言っても死に至るような類の病ではないし 、伝染性ではないので、他人との接触も許されている。
しかし…ある意味死ぬ事よりも残酷で恐ろしい病だった。
その病の特徴といえば、記憶障害に似ている…という事だろうか?
ただ普通の記憶障害と違う点は、『記憶を忘れる』ではなく、『記憶が消えていく』という事実だ。
両手にすくった水が少しずつ漏れて乾いていくように、記憶が少しずつリセットされていく。
『忘れる』のではなく、『削除されている』のだから、失われていく記憶は取り戻しようも無いのだ。
彼女の崩壊はゆっくりと音もなく。
しかし確実に彼女の内部を食い荒らしていった。
昨日は簡単に出来ていたことが、今日はもう出来なくなっている。
帽子の被り方が分からなくなっていたり。
魔力通信機の使い方が分からなくなっていたり。
お湯が熱いものだと理解できなかったり。
二人で毎日それを確認する作業に没頭する。
それは限りない恐怖と哀しみを伴う時間。
その一つ一つが酷く滑稽で。
その一つ一つが酷く切ない。
彼女は王城でまだ生活している。
彼女の実家の侯爵家の屋敷よりも長く過ごした場所。
婚約者として与えられた部屋。
少しでも脳に刺激を与えられるようにと。
少しでも心に長く記憶を留めておけるようにと。
クラウスと医者がそれを希望し、王と王妃と彼女の家族がそれを許したからだ。
それでも、彼女の崩壊はもう誰にも止められない。
貴方は覚えていますか?
かつて、婚約者がクラウスに問いかけた事がある。
『この木の下で手を繋ぐと幸せになれるんだって』
貴方は拗ねた様に唇を尖らせてそう言っていたけれど。
本当はあれは嘘だったのでしょう?
ただ手を繋ぎたいだけなのに、そんな言い訳をしている貴方が私は好きで好きで本当に大好きで。
白状しても良いですか、クラウス様。
本当は。
はしたなくも手を繋ぎたかったのは私の方なのです。
そう言って彼女は笑った。
たおやかな白い指で、僕の手を握りしめて。
あの何気ない日常の一コマが。
もう取り戻すことの出来ない、限りなく幸福な一瞬だっただなんて知らなかった。
その幸福の真っ只中にいて、一体誰がそれが幸せだっただなんて気づくのだろうか?
年に一度咲く薄桃色の花が満開になる頃。
この王国にも春がやってくる。
「今年も綺麗に咲いたな」
クラウスが話しかけるとアナスタシアも小さく頷いて応えるが、彼の言葉を理解している訳ではなく、ただ単にクラウスの言葉に反応しているだけの様である。
今のアナスタシアはクラウスの言葉の8割近くが理解できない様になっていた。
それでもクラウスはアナスタシアに話しかける。
彼女から意味のある言葉を引き出そうと、根気良く努力をする。
ぽつ、ぽつ…と単語を紡ぐ彼女は、それが自分を引き止めてくれるかの様にクラウスの手を握り締めている。
まるでそれが彼女の命綱の様に。
頼りない手の平の感触に、クラウスはそっと瞳を閉じて唇を噛んだ。
「……ぁ…」
アナスタシアが何かに気づいたように、小さく呟いて立ち止まった。
「どうした?」
「…………」
俯くアナスタシア。
問いかけるクラウス。
痛いほどの沈黙が二人の間を通り過ぎていく。
「ごめんなさい……クラウス様…」
やがて沈黙を打ち破ったアナスタシアがぽつりと言った。
「シア……?」
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
壊れた機械の様に単調に同じ単語を繰り返すアナスタシアの瞳から、ぽろりと涙が零れた。
「…貴方が………消えていく…」
噛み締めた唇の隙間から、絞りだすようにアナスタシアが言った。
冷水を浴びせられたような感覚に、クラウスの呼吸が止まりそうになった。
恐い、とアナスタシアは言った。
彼女の初めての泣き言だった。
私が私でなくなってしまう。
記憶が崩れて拡散していく。
貴方と過ごした思い出がなくなっていく。
楽しかったことも。
哀しかったことも。
人に愛された記憶も。
人を愛した記憶も。
全てが忘却の彼方へと追いやられて。
何もかも無くしたその後には、私には一体何が残っているのでしょうか?
「私は貴方の婚約者として王族に嫁ぐ者として、何事にも動じない様にと教わって参りました」
辿々しくアナスタシアが言葉を紡ぐ。
「でも…怖い……今までの記おくがぜんぶなくなるのは…わたくしはあなたをわすれたくない…こんやくしゃとしてしっかくです…」
「そんな事は無い。僕の婚約者はシア、君しか居ない」
自嘲する様に呟くアナスタシアの言葉を、クラウスはそっと否定する。
奪われていく記憶を。
自分の運命を。
アナスタシアは静かに受け入れているように見えるその内面で、激しく抵抗していたのをクラウスは知っている。
この病にかかった者の平均の倍近い期間、アナスタシアは自我を保ち続けてきたのだ。
「……僕が、いる」
小さく震えているアナスタシアの体に腕を回して抱き締めた。
「僕が、覚えてるから」
楽しかったことも。
哀しかったことも。
人に愛された記憶も。
人を愛した記憶も。
彼女の中から全てが消えて、彼女の記憶が忘却の彼方へと追いやられてしまおうとも。
何もかも無くしてしまっても、僕が全部覚えておくから。
だから大丈夫。
「君は何も失くしたりしない」
考えて 考えて 苦しみぬいて 出した結論。
彼女を捨て置くことなんて出来ない。
彼女を忘れて生きることなど考えられない。
必要としているのは、彼女のほうではなく自分のほうだ。
共に生きていきたいと願ったのは、紛れもない自分自身。
それがどんな苦痛を伴う決断だと理解していようとも。
忘れることが出来ないのなら、どんなに苦しくても彼女と共に生きる道を選ぼう。
記憶が消えてしまったのなら、また新しい記憶を二人で作り上げれば良いだけなのだから。
「シア、好きだ…貴女を愛してる…」
黄金色の柔らかい髪に顔を埋めてクラウスは囁いた。
記憶の中から僕の事を失くしてしまってもいい。
それでもいい。
ただ貴女が生きていてくれる事。
それ以上は望まない。
「…クラ……ぅ、す…さ、…」
とても難しい単語を話しているかのように考えながら。
己の言葉を確認するように、言葉を紡ぎだした彼女を愛おしいと思った。
「 だ い す き 」
貴女がそこに居てくれる事。
それ以上は望まない。
あの日からもう既に一年が過ぎようとしている。
最後の言葉を呟いた後、眠るように意識を手放した彼女が目覚めた時、クラウスの知っているアナスタシアという人物はもうどこにもいなかった。
それは最初から覚悟していた事だが、やはり実際にそうなってしまうとクラウスにはかなり堪えた。
それでも初めて見る者を親と慕うように、アナスタシアはクラウスに懐いた。
王宮専門の医師に預けられたものの、アナスタシアは食事もとらずクラウスを恋しがって泣いていたらしい。
程なくして、アナスタシアはクラウスの元へと戻ってきた。
しばらく公務や学園を休んでいたクラウスも、今は再び活動を再開している。
アナスタシアの状態が大分落ち着いてきて、数日の間ならクラウスが居なくても我慢できるようになったのだ。
クラウスが長い期間、公務で国を空ける事はまだ無いが、それもおそらく遠い日ではないだろう。
そう…アナスタシアの発達は非常に目覚しく目を見張るものがあった。
この一年間でアナスタシアは相手の言葉を理解し、自らの意志で言葉を発し、己の考えで計画を構築出来る程に成長していた。
知能は10歳前後程度か。
魔術の訓練も既に始めている。
今の彼女は訓練の一つ一つをクリアしていくのが、楽しくて仕方がないらしい。
アナスタシ王宮に留めておくには理由がある。
勿論、クラウスをアナスタシアの側に置いておくのも。
彼女の魔力値は当然というか、普通の貴族の持つそれよりも随分と高かった。
この世界では魔力の高さは知力の高さの現れである。
育成さえ間違わなければ確実に、国民の模範たる王族の優秀な妃になるべき存在。
そんな彼女を王族が手放す訳は無かった
何が起ころうとも季節は巡る。
慟哭の春を過ぎ。
絶望した夏を過ぎ。
歓喜に涙した秋を過ぎ。
ただ穏やかに過ぎた冬を超え。
年に一度咲く薄桃色の花が満開になる頃。
この王国にも春がやってくる。
「今年も綺麗に咲いたな」
クラウスが話しかけるとアナスタシアが小さく頷いて応えるが、それを理解している訳ではないだろう。
彼女がこの薄桃色の花を見るのはこれが『初めて』の筈なのだから。
「クラウスさま?」
「何?」
「とても綺麗……ですね」
アナスタシアは舞い落ちる薄桃色の花弁を見上げながらそう言って笑った。
その無邪気な表情で嬉しそうに笑うアナスタシアの姿に、あの日の彼女の泣き顔が重なって見えた。
この木の下で貴女は貴女を喪った。
この木の下で僕は貴女を喪った。
あの日の記憶は、今は随分と遠い日の出来事の様に思えるのだけれども。
それでも。
時々僕は考える。
この木の下で俯いて。
『だいすき』と。
泣きながら僕に告げてくれた愛しい貴女は今は何処へ。
あの日の貴女は一体何処へ消えてしまったのだろうかと。
ふと我に返ると、アナスタシアが不安そうな表情でこちらを見ていた。
「シア…何でもないよ」
黄金色の頭をふわりと撫でると、アナスタシアがおずおずとクラウスの上着のの裾を軽く握り締めた。
「どうした?」
「クラウス様、手を……繋ぎましょう…?」
クラウスが軽く首を傾げて彼女に問いかけると、アナスタシアは小さな声で言った。
クラウスの心臓が一瞬 止まったあと、早鐘のように打ち出す。
「……どうし、て…?」
「この木の下で手を繋ぐと幸せになれるのですって」
「誰に聞いたかは、忘れてしまったけれど」
掠れた声で問いかけるクラウスに、アナスタシアは拗ねた様に唇を尖らせてそう言った。
彼女の姿が涙で滲んだ。
クラウスの瞳から抑えることが出来ない涙が零れ落ちる。
否、我慢する気もなかった。
クラウスは彼女に見られないように、アナスタシアの体を引き寄せて強く抱き締める。
いつか愛しい婚約者が彼に問いかけた事がある。
貴方は覚えていますか?
その顔に悪戯っぽい笑みを浮かべて。
ああ、勿論。
勿論、シア。
決して忘れたりするものか。
シア…僕は。
貴女も。
何も失っちゃいない。
それは確信だった。
「ああ、そうだな。シア、手を繋ごう」
ただ手を繋ぎたいだけなのに、そんな言い訳をしている彼女が愛しくて愛しくて本当に大好きで。
アナスタシアの白い手がクラウスを求めて空を漂う。
クラウスはその手をしっかりと握り締めた。
シア。
いつか僕は貴女に白状しよう。
本当は。
この薄桃色の花が美しい異国の木の下で。
貴女と手を繋ぎたかったのは僕の方なんだって。
王族の判断としては間違ってるよな〜とかのツッコミは無しの方向でお願いします!何卒!何卒!
クラウス様魔王化エンドとどっち書くか悩んだ挙げ句、やっぱハピエンよね!とコッチにしました。