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のんべえ次郎吉

作者: 無息吹

 「ねえ母上、あの人なんで舌をだしてふらふらしているの」

 「しっ、見てはいけません」

 親子が足早に通り過ぎるのを見ながら、次郎吉は唾を吐いた。

 (全部聞こえているっちゅうんだよ)

 この次郎吉、千鳥足になって右へ左へふらふらしているが実は大して酔っておらず、ただ泥酔しているように見せかけていた。

 なぜ、そんなことをしているのか。

 話は十日ほど前までさかのぼる。


 その日は太陽様がかんかんに照りつける猛暑日だった。二階は和室の欄干に身を預けて、あちいあちいと言いながら扇子を仰いでいたら、なんと大通りの向こうから親父殿がやってくるではないか。

 大慌てで茶菓子や茣蓙の準備をしていると、バッと障子がひかれた。そっと見上げると、親父殿が気難しい顔を浮かべて立っていた。普段から厳格な父だが、このような顔は生まれてからこの方見たこともない。

 なんと言えばいいか困惑していると、茣蓙に座った親父殿は天地がひっくりかえるようなことを言ってのけた。

 「なに!俺に見合いの話が!?」

 「騒ぐんじゃねえ、みっともねえ」

 そう言って、親父殿はぐいっと湯呑を口に持っていった。

 「それで相手は誰なんだ」

 ついついっと裾を引っぱってくる次郎吉を鬱陶しそうに見やりながら、親父殿はぼそっと呟いた。

 「菊乃殿だ。我が家が代々お世話になっている藤堂家のご息女だ」

 そう親父殿が言い終わらぬうちに、げえっと次郎吉は蛙のような声を上げた。

 「菊乃だって!あの醜女で有名な菊乃だって言うのかい。冗談じゃねえ、見合いの話はなしだよ」

 藤堂家の箱入り娘、菊乃。彼女の名はある意味有名だった。

 曰く、干上がったカレイを絞った顔

 曰く、地獄の閻魔が哀れんだ

 挙げれば枚挙にいとまがないが、彼女は醜女の名を欲しいがままにして、おかげで裕福な藤堂家の箱入り娘にして未だ見合いの一回もしたことがないという。


 そっぽを向いた次郎吉に、そういえばと親父殿を部屋を見る。

 「随分と立派な部屋じゃねえか。わざわざ江戸まで行って身を立てるとほざいた馬鹿息子にはもったいなかったかもしれん」

 「何言ってんだよ。親父殿の伝手でえらく安くしてもらっているらしいじゃねえか」

 「そうだ。しかし、それも親子の縁あってこそ。父親の顔に泥をぬるような真似をするならば、この部屋に住めるとは思うな」

 鬼の顔で凄んできた親父殿に次郎吉は怯みながらも

 「親が子を売るのかよ」

 と言ってやった。そして、しばらく親子でにらみ合いが続いた。

 いつまで続くんだよと内心悲鳴を上げたとき、親父殿がふっと睨みを解きため息をついた。

 「結婚しろとは言わん。ただ見合いは受けてくれ。藤堂家には長年よくしてもらっているんだ」

 その言葉を待ってましたといわんばかりに飛びつこうとした次郎吉だったが、いやまてよと頭を捻る。果たして見合いはしたが結婚はしないなどということが可能なのだろうか。藤堂家からしてみれば、ようやく漕ぎつけたであろう見合いだ。棒にはふるまい。とすれば、次郎吉側から結婚はなしと言わなければなるまい。だが、親父殿のことだ。藤堂家に恥をかかせまいと、どんな難癖をつけても結婚させようとしてくるだろう。

 しばらく考え続けていたら次郎吉に妙案が浮かんだ。

 「わかったよ親父殿。見合いは受ける、ただし結婚はしねえ」

 そう言ったときの親父殿のほっとした顔に少し胸が痛んだが、もう後には引けない。

 その日から、次郎吉は妙案を実行するべくせっせと大通りに出て酔っぱらいのふりをすることにした。最初こそ、奇異な視線が集まることに羞恥心を覚えたが十日経った現在では恥じらいという感情が消え去り、ただ自分の計画がうまくいくことだけを切に願っていた。


 (そうだ、次郎吉は酒癖が悪くてどうしようもない奴だぞ)

 遠くに消えていく親子を見つめてから借家に帰るとそこには疲れた顔をした親父殿が茣蓙に座っていた。

 「見合いの話は白紙だ」

 “白紙”その言葉を聞いたとき、喜びのあまり飛び上がってしまいそうになったが、必死に堪えてとぼけてみせる。

 「いったい、どうしたっていうんだい」

 「お前最近、昼間から酒を飲んではべろんべろんになって町を歩いているそうじゃないか。藤堂家にもそのことが伝わって、娘をだらしないやつにはやれんということだそうだ」

 親父殿はがっくりと肩を落としてうなだれてしまった。

 それを見てかわいそうに思った次郎吉は、親父殿に自分の計画を打ち明けた。

 「親父殿には申し訳ないと思っている。ただ、こうするしかなかったんだよ。俺が酒にだらしないどうしようもねえ奴だとわかれば、藤堂家は見合いを取りやめる。そう思って、一つ芝居を打ったんだ」

 得意げに話す次郎吉に親父殿は呆然としてしまった。

 「はぁ、思いついてもそんなこと普通できるかね。しかし、結局お前の思惑通りだ。まったく、たいしたもんだよ」

 とぼとぼと覚束ない足取りで帰る親父殿を見送った次郎吉の耳に、菊乃が殿様の息子と祝儀を上げたという話が入ったのは、それから半年あとのことだった。

 これには世の人々は仰天し殿様の庭園で行われた披露宴には大勢の民衆が押し寄せたという。その中には、次郎吉もおり彼は後日友人にこう漏らしていたそうな。

 「いやあ、白無垢の菊乃様が出てきたときは、どよめきがおこったね。噂に違えぬ醜さっぷりだったからとか、そういうのじゃねえんだ。むしろ、その逆だな。噂と大違いの別嬪だったんだよ。あれくらいになると吉原の花魁でも敵わねえと思うな。」

 熱燗をお猪口に傾ける次郎吉に友人はだったら噂はなんだったんだと聞いた。

 「菊乃様の父親が流してたんだよ。嫁に行ってほしくないあまり、色んな噂を町に流したそうだ。溺愛していたんだろ。けど、そんな折に殿様の息子が菊乃様と会いたいと言い出したそうで、おおかた閻魔が哀れんだ顔を見たくなったんだろうな。しかし父親は大慌てさ。閻魔が哀れんだ顔なんて、ただの作り話。本当は五人の貴公子を手ごまにとったかぐや姫もかくやという美しさだ。だから、俺との見合いを画策して、殿様の息子が菊乃様と会うのを阻止しようとしたわけだ。俺が菊乃様と見合いしたって、後からどうにでもできるしな。しかし、俺はのんべえ次郎吉を演じてしまった。そんな奴と見合いなんて藤堂家の評判が地に堕ちる。泣く泣く、父親は菊乃様と殿様の息子を会わせてしまった。それからのことはお前が知る通りだよ」

 一気にそこまで言い、次郎吉はくいっとお猪口をあおった。

 「しかし俺も馬鹿だよなあ。あんな美人と見合いなんて人生で最高な日になったろうさ。それに、見合いで仲良くなったら、もしかしたらということもあったかもしれない。なのに俺ときたら噂話を信じて棒に振っちまった。あぁ、噂なんて金輪際信じるものか」

 そう言って、次郎吉は茹蛸のように真っ赤になった頬を食事台につけてグウグウ眠ってしまった。

 しかし、よっぽど悔しかったのだろう。次郎吉の居酒屋通いはそれからも続き、そのたんびにべろべろに酔っぱらうものだから、ついたあだ名は“のんべえ次郎吉”。最後は腎の腑を悪くして早死にしてしまったそうだ。


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