その2
「鍋、吹いてたから火消しといたよ」
「ああ!」
慌ててボンジュは庭に走る。ネオは心配した。
ボンジュが染めの火加減を失念するなんて、今迄無かった。
ふと、視線をボンジュの座っていた先に移す。椅子に掛かった、一枚の布があった。
近付くと、布は窓からの光を反射し、シャラリと煌めいた。多少くすんでいるが、この生地が普段使いの物では無いと、幼いネオでも分かった。
後ろが透けて見える程の薄い生地だ。それを縁取るように、複雑な刺繍が施されている。
糸は今染めている色に似て淡い黄色のような色だが、何だか糸自体がきらきらしていて、黄金をまぶしたような金色に見えた。ネオは今までこんな糸を見た事がなかったし、模様だっていつもボンジュが刺している、動植物の刺繍とは違う。太さや長さの違うラインが絡み合い、円や多角形のサインが組み込まれている。初めて見るその不思議な模様に、何故か目が離せない。
ネオは指で刺繍をなぞった。滑らかな糸が重なった、立体的な感触。ゆっくりと手を動かしてみる。
―――…
「ん?」
ネオの指が止まる。
丁度模様の真ん中辺り、何だか、熱を感じたような気がした。指先の模様をじっと見つめる。半円のカーブに沿って、九本のラインが放射状に伸びている。
これはまるで…
「…お日様みたいだ」
もっとよく見ようと、顔を近づけたその時。
「ネオ、あれ全部お前が…」
振り返ると、ボンジュが戻ってきていた。
「ばあちゃん、これなに?」
ネオは薄い布を指差して聞いた。
「いつもの刺繍と全然違う… 初めて見る模様だよ。この糸、ばあちゃんが作ってるのと同じだよね?」
「よく分かったねぇ。糸の感じも違うのに… これはあたしの花嫁衣装の一部さ。これで頭を飾るのよ」
「へえぇ」
まじまじと布を見るネオ。ボンジュは驚いた様子で呟く。
「男の子なのに変な子ねぇ。染色の始末だって、いつの間に覚えたの」
教えていない糸の染色。手筈通り糸を晒し、干し竿に掛けたのはネオだ。一度に全部は揚げず、鍋の中にはちゃんと濃い色に染めるための糸が残されていた。
ボンジュの糸染めは、この家の収入源のひとつだ。月に一度、村へやってくる行商人に買い取ってもらう。忙しい家事の合間を縫って染め、頻繁にやってはいない。大体ネオのいない時に作業していた筈だ。そして今日は年が明けた、雪割り月の初染めの日。
「それより、ねえ、これ。ばあちゃんが作ったの?」
「ああ、花嫁衣装を縫うのは習わしでね」
「ふうん。でもこの間の花嫁さん、花冠しかしてなかったよ」
つい先日、村の教会で式を挙げた初々しい新婦を思い出し、ネオは尋る。
「そうだね、ここじゃそんなこと…」
はっ、と何かを思い出したかのように言葉を飲み込んだボンジュ。ネオから布をそっと取り上げると、箪笥に終いながら言う。
「もうすぐに夕暮れだよ。早めに片付けちまいたい。お前、手伝ってくれるかい?」
ネオは初めてボンジュから染色の手伝いを頼まれたことに喜んで、庭に走って行った。
糸は一晩、夜風で乾かす。日暮れまでに糸を揚げなければならない。さっきまで明るかった太陽は西の空に傾き、日差しが僅わずかに金色を帯びている。暦の上では春になったとはいえ、まだまだ寒さが残る雪割り月。日が落ちるのも中々に早い。
「この色、何ていうの?」
風にそよぐ、段々に濃く染まった糸を、ネオは指で揺らす。
「淡黄…あたしの一番好きな色さ」
雲に姿を半分隠した夕陽が、全てのものを黄昏に染める。一日の終わりの光を浴びる糸たちはきらきらと揺めき、さっき見た不思議な刺繍の糸のように綺麗だと、ネオは思った。