第八話「軽功」
グェムリッド宮殿練兵室。
使用人たちが朝礼をしたり、武術の修練に励んだりする武道場である。
歴史ある聖堂だったが、何年か前に新聖堂が建てられたのをきっかけに、多目的ホール的役割を担うようになったそうだ。
本棟の近くに建てられていて、間口二〇メートル、奥行三十五メートル。
天井は一〇メートルほど。
出入口上にある立派な紫色のバラ窓と、天井から吊るされた豪奢なシャンデリアは、『私は聖堂なんです』と言わんばかりに、存在感を放っている。
「今日から雲散翔舞勢を教えよう」
「ウンサンショウブゼイ?」
「私が編み出した軽功だよ。君は魔法が優秀だから覚えておいて損はない。戦うにしても逃げるにしてもね」
軽功。
内力を利用し素早く走って飛んだり跳ねたりするやつだ。
生前カンフー映画や漫画で見たことがある。
極めると水の上を走れたり、舞○術みたいに自由に空も飛べたりすると、この世界の専門書に書いてあった。
魔法にも体を強化して早く走ったり空を飛ぶ魔法もある。
とはいえ、肉体強化魔法、変身魔法、飛行魔法、どれもLv4以上で軒並み習得難度が高く現実的ではない。
「まずは基礎歩法の第一段、三十二路遊歩と爬走在地まで――」
三十二路遊歩は八監派独自の易占、占いを元にした歩法で、小回りが利くようになる。
爬走在地は、身体の要所要所に内力を送り、走力を向上させる歩法だ。
一ヶ月かけてなんとかこの第一段を習得した。
今までとは比べ物にならない位俊敏に動けるようにはなった。
あくまで一瞬。
息が切れるまで全力で動くと、喘息の発作で呼吸困難になってしまう。
まだ、その俊敏な動きを長時間保つことができない。
次の段に行くためには、莫大な体力と内力が要るらしく絶望的に向いてなかった。
姉は同時期に始めたのに既に第二段に入って、壁を蹴って走ったりしているというのに。
「リョウーみてみてー」
「姉上、危ないですよ」
シャンデリアに足を引っ掛け逆さになり、サーカスのブランコ紛いなことやっていた。
白いおみ足に傷がついてしまいそうだ。
でもちょっと羨ましい。
ああいうことができたらいいのにな。
「第一段を覚えただけでも魔術師としては十分だよ」
魔術師は位置取りと移動が大切だ。
しかし世間で活躍している魔術師は、位置取りは上手にやれても、得てして移動を苦手にしている。
集団戦で後衛に慣れ過ぎているのだ。
そのため息を切らさない範囲で移動しながら魔法を行使できれば、そこらの中級者ならタイマンで圧倒できるとのこと。
「はぁ、姉上には勝てる気がしないですね……」
「魔術師なのだから、無理に武芸者に勝とうとしなくてもいいのだよ」
「そんなものなんですか」
「魔術師の本来の仕事は集団戦の援護や回復だからね。リョウ君は中級者だし、使える魔法も多い。もうそこらのパーティに放り込んでも十分仕事はできるだろう」
「武芸者相手にもタイマンで勝ちたいですよ」
「タイ……? 決闘のことか、それにはもっと魔法を磨かないとね。高Lvの破壊魔法を複数覚えて、軽功も最低第三段に到達するくらいでないと」
「うう、精進します……」
このクソみたいな体質治らないかなぁ。
なんて、ぼやいても治るわけもなく、自由に動き回る鸞子を見ながら嘆息した。
***
ティンバラスール城本殿、夜も更けたヒミカの書斎。
「うちの子たちはどんな感じかしら?」
「二人とも素晴らしい逸材だね。ランは活発でありながら淑やかさを理解するだけの賢さを備えている。きっと素晴らしい淑女になる。リョウは貴族の子弟にありがちな傲慢さは見られず、誰に教わらずとも物事の道理をわきまえ見極めている。君と似た天才だ、教えられることも多いよ」
ソフィアは一呼吸置くと、
「……あの体の弱ささえなければ、後世に名を残す為政者か、魔術師になるだろう」
含みのある言い方。
ヒミカはハッとして、
「平凡で……いいのよ。あの人みたいにならなくたっていいの」
「ここの先生方は名医揃いだから、無茶しなければ大丈夫だよ。それに特殊な体質は大人になれば自然と治まることはよくあるし、今は無理でも、十五を過ぎてまだ苦しむようなら施すべき術は持ち合わせてる」
「もしかして不可視の体を?」
「うん。本人が自覚できるようになれば好ましいが、こればかりは焦らない方がいい」
ソフィアは龍鯉にある種の危うさを感じていた。
知識や技術の吸収が思いのほか早かったのだ。
何も考慮せずに教えていたら、ヒミカを超す速度で魔法を習得し魔道に傾倒していくことは間違いない。
武術だって体が健康なら鸞子より先に進んでいた可能性は大きい。
一見、早熟であることはこの上なく良いことのように思える。
しかしソフィアはその早熟さがある種の危うさとなり、龍鯉に致命的な何かを与えてしまわないかと留意していた。
何より龍鯉には強さに対して貪欲だった。
まだ手をつけるべきでない禁術や魔術をあり余る才能に任せて習得し、寿命を縮めてしまうようなことはよくない。
早熟さは時に災いを招くことがある。
ゆえに敢えて、魔法に関しては一つ一つ完璧に習得する癖と、人に教えられるくらい冗長な知識を教え込んだのだ。
「ソフィがそういうなら信じるわ。それはそうと最近クケイの様子がおかしいのだけれど」
「私の趣味を代わりにこなしてもらっているのだよ」
「趣味ってイーラムが受けた領民からの陳情でしょ!? あんな小さい子にやらせて大丈夫なの?」
「彼女なら大丈夫だよ」
「たとえ意図があってのことだとしても、もし壊すようなことがあれば、あなたでも容赦しないわよ」
「おや、もう愛着が湧いたのかい?」
「犬猫じゃないのよ!」
ヒミカが声を荒らげると、書斎に重々しい魔力の奔流が広がる。
ソフィアはクケイに、ティンバラスール城での立ち振る舞いについて身の程を弁えるよう、常々教育してきた。
ヒミカが免賤を提案しても、正当性のない免賤は無用な争いを招くと断った。
すべては彼女の今後を慮ってのことだ。
わかってはいても、クケイに対する厳しい指導を目の当たりにする度ヒミカは歯がゆさを感じていた。
しばしの沈黙の後、ソフィアは霧のように書斎に漂う魔力を食指で遊ばせながら、
「……以前私が紹介した部分転移術はどうだった?」
「超遠距離だと安定しないし、みんな直に会って確かめ合う方が安心するみたいね」
「それじゃ今もミカ自身が側室たちを送り迎えしてるのかい?」
「そうよ、アレは気持ちを盛り上げるためのアイテムとしてはいいのだけれど、やはり直に会うほうがいいわ。あの人は何かの拍子に壊れやしないか怖がってたわね」
「術者である君が望まない限り、壊れても大事には至らないよ。怪我ならちゃんと治してあげると伝えておいてくれ」
「もしそうなったら、怪我したままのほうがいいかもしれないわね」
「彼が聞いたら震えあがりそうだ。君の空間転移術はどこの国でも禁術で重罪だし、古に交わされたウルガトの契約の抜け穴をついた術式だから、扱いには十分気を付けるんだよ」
「ええ、わかってるわ。いろいろ制約も多くてちゃんと良日を選んでる(まったく、敵わないわね)」
相手が怒っていても意に介せず飄々と話題を変えてくる。
ヒミカは苦笑し、大きく嘆息したのだった。