第六話「不可視の体」
「ひゃあ!」
朝の六時から早々、寝室近くのトイレで情けなく叫び声をあげる。
「如何いたしました!?」
異変を察知した侍女のクケイがトイレに闖入してきた。
「……!」
クケイは目を見開いている。
「あう、見ないでください……」
氷の張られた横幅の大きな立小便器の前で、思わず股座を抑えてしゃがみこんだ。
床は濁りの少ない黒大理石。
触り心地はよくつるんとしている。
今日の身体は女の子なのに、普通に立小便してしまったのだ。
たとえ女だろうが関係ない。
目標をセンターに……。
問題はそこではない!
寝惚けてミスった。
排尿自立してから初めての出来事である。
便器の周辺や床はもちろん、ボトムスから下着まで汚してしまった。
しかも朝一番のお小水なのでなかなか終わらず止まらない。
絶賛お漏らし中なのである。
ちょっと前までおむつに垂れ流してたとはいえ、他人に排尿ミスをみられるのはくっそ恥ずかしい。
ちなみに、ティンバラスール城のトイレは、生前の世界とほとんどシステムの変わらない水洗式である。
「リョウ様、どうか落ち着いてください」
クケイは外に控えている侍女に指示する。
取り急ぎタオルを何枚か受け取ると、慌てず騒がず平然と対処。
床周りをささっと拭き取り、
「尿は終わられましたか? まずはお脱ぎください」
ボトムスと下着を脱がされて立たされる。
「あっ」
「おっと」
同時に声を上げた。
終わったかと思ってたのに、残った尿が飛び出したのだ。
少しばかり彼女に粗相してしまった。
「…………………………………………、」
言葉が見つからない。
申し訳なさで目頭が熱くなってくる。
己が自律神経と尿道括約筋を恨んだ。
クケイは素手で軽く払い、微笑む。
「問題ありません。すっきりなさいましたね」
女神か。
恥ずかしがっているのを気遣ってくれたのだ。
いつも能面みたいな顔しているのに、時たまこうやって感情を面にだす。
それが堪らなく可愛らしく、我が心の抑圧を解放するのだ。
どんなプレイだよと思いながら顔を隠しているうちに、処理は終了した。
「湯浴みをしてもっとすっきりいたしましょう」
腰にタオルを巻いた状態で、お姫様抱っこされてシャワールームまで向かった。
シャワーで全身洗い流してもらいながら、
「あの、クケイさん、このことは姉上にだけは」
「存じ上げております。ですが、御身の調査のため、お師匠様には報告いたします」
ソフィア・リコ=キリューイン。
彼女の役割は師匠だけに留まらなかった。
身の回りの世話をしてくれたり、鸞子が寝付けない時には乳母の如く添い寝してくれたり、病に罹れば名医の如く加療してくれた。
たまに所用で出かける時には、今日みたいにクケイがメインで面倒を看てくれる。
端的に言ってソフィアは有能である。
だが、パーフェクト超人と言ってもいい彼女にも、苦心するものはある。
鸞子には憂慮すべき問題は見当たらないのに、俺が問題だらけだったのだ。
虚弱体質は周知の事実だ。
生まれてこの方、姉の大体三倍の頻度で風邪だの熱だのだして寝込んでるし、原因不明の昏睡状態に陥ることもあった。
風邪はテンプレ、症状の重い喘息もある。
この半年間だけでも、人が滅多に罹らない奇病ばかりもらうので、ソフィア自身楽しそうにしてすらいた。
よくわからん病をああだこうだしてる内に、ティンバラスールの侍医たちも思いつかない方法で、結局治してしまう。
対症療法にはほぼ隙がないと言っていい。
ただ、虚弱体質の根治と、寝覚めたら転換する体質に関してだけは未だ解明されてない。
現在調査中とのことである。
せっかく転生したのだ。
ネット小説で見られる先駆者よろしく、前世の知識を駆使して無双してやろうとか甘く考えていた。
まさかそれ以前の話だとは思わなんだ。
「……師匠には正確に伝えておいてください」
兎に角、鸞子にだけは知られたくなかった。
あの娘はまだ夜尿の気があるが、普段あまり粗相しない弟が致したとあれば、鬼の首を獲ったかの如くネタにするに違いない。
徒でさえ物理的な意味で弄り倒してくるのに、これ以上名分を与えてはいかん。
バスタオルで全身拭かれながら、
「お食事のあとは診察でございます」
「はい……」
今後寝覚めた時は必ず股座を確認しようと心に決めた。
まだ三歳と六ヶ月程度。
いくら性別が換わるといえども、現状では、それ位でしか確認する方法はないのだ。
***
「魔力は内力と違って感じるのは難しい。流れをどうこう意識するより、実践していった方が早い」
この世界にいる魔術師の多くは、おそらく魔力の流れを気にせず魔法を使っている。
例えば、Lv1小火精の吐息という魔法を、食指の先で発現させてみる。
燐寸ほどの火力。
魔力が消費されているのはなんとなく自覚できても、体内のどこからどう流れてるかはわからない。
また、俺は二種類までなら同時に魔法を発現できるが、それが何故やれているのかすらわからない。
わからないまま自然に超常現象を起こしている。
どこかむず痒く堪らなかった。
「修練し続ければ、いつの日か体感で仕組みを理解できる時が来るよ。その仕組みを不可視の体という」
「少しでも感じられるようになるにはどれくらいかかるんですか?」
「一生かかってもわからない者もいるし、ちなみに私は志して二年目で、なんとなく少しは感じられたよ」
「師匠で二年だと僕はどれくらいかかるんですかね」
「ミカは始めた瞬間からその片鱗を感じたそうだよ。君もそう遠くないかもしれないね」
「母上や師匠は天才なんですか?」
「私は途方もない年月を経て今に到達したにすぎない。私を凡夫とするなら、彼女は『神に愛された天才』と形容されるに相応しいだろう」
歳は訊かなかった。
この麗しく若々しい見た目で一〇〇歳ですとか言われても信じられないし。
謙遜する癖に、ソフィアは少なくとも五種類別々の魔法を行使できたりする。
「手癖みたいなものさ」
ベテランスリ師みたいなことを言いながら、右手の指先から、火・水・風・光・闇属性と思われる魔法を発現させた。
「手癖って、五種類ということは五個別々に魔法を組み立ててるんですよね? そんなの頭が追い付かない」
「経験を積むことだ。無意識に組み立て行使できる時がくる。五種類と言わず、ほら、十種類だっていけるようになるよ」
右手を遊ばせながら、今度は左手の指先から、
土・木・金・氷・電属性と思われる魔法を発現させる。
すごい。
俺もその域までいけるのかな。
いや、その域まで達して、いずれはこの人を超えてやる。
そして女の子達に囲まれてウハウハな……。
こんな安直な野望を抱いた。
***
この世界では魔法や武術の使い手となれば社会生活でイニシアチブがとれる。
それはやはり使い手が貴重だからだ。
魔法を行使する者は魔術師ないし魔法使いと呼ばれる。
もしかして『魔法使いのおじさん』、とか呼ばれている人もいるんだろうか。
事実だとしても絶対に呼ばれたくないな。
「魔術師に四つのランクがあるんだ。
Lv1から2の魔法を使える者は初級者、
Lv3の魔法を使える者は中級者、
L4から5の魔法を使える者は上級者、
Lv6以上の魔法を使える者は最上級者。
Lv6からはたとえLv10の魔法を使えようとも最上級者という」
「母上も最上級者なんですよね?」
「そうだね。ミカは六歳で最上級者になった」
六歳で最上級者、そのペースでいけるなら望ましいが。
「リョウ君は才能があるのだから焦る必要はない。まだLv2までしか使えないから初級者なわけだけど、そう遠くない内に上級者位にはなれる」
「ほんとですか!?」
「最上級者である私が保障するよ」
最上級者になれると明言しないのは、Lv6以上ともなれば習得難度が高いからだろう。
魔術師に対し武術の使い手は、伝位が自称や他称に用いられている。
よく使われている等級は下から初伝、中伝、上伝、奥伝、皆伝、極伝。
○○派○○剣法皆伝とか、
○○流○○槍法中伝といった感じ。
流派によってはもっと細分化されていたり、呼び方が違っていることもある。
武術家の伝位は、魔術師のランクと同様に戦闘する際の実力の指標であり、社会的地位を表す。
ちなみに冒険者や戦士などの流派を持たない者でも、便宜的に実力を伝位で評価する。
主観ないし世間における相対評価だ。
これが社会的評価となり、流派で免許されるものとは別に、真の強さの基準として機能しているようだ。
そのため自称と社会的評価の伝位が乖離することもある。
「えーっと、魔術師は二つ名を持っていることが実力者の証になるんでしたっけ。師匠は確か神医……?」
「私は己を医者だとは思ってないから、その二つ名で呼ばれるのはあまり好ましくないのだよ」
純粋な魔術師としての二つ名は、中級者以上の実力者が呼ばれているケースが多い。
自称するのは自由だが必要性が低く、魔術師ギルドの慣習もあるらしい。
武術家や名士は二つ名に慣習はない。
稼業名として強弱関係なく自称したり、活躍や特徴に応じて呼ばれたりするのだ。
「かっこいいじゃないですか、神医だなんて」
「私は助けた者より殺めた者の方が多い。医を志す者が持つべき哲学と倫理観をこれっぽっちも持ち合わせてないのに、どうして医者を名乗られると思う?」
神医ソフィア。
魔法や武術だけでなく、医術にも長けていることからそう呼ばれるようになったそうだ。
世界を渡り歩くうちに想像できないほどの経験をしてきたのだろう。
「師匠は他者からの評価は気にしなさそうですけど」
「ふ……そうだね」
「……師匠が誰かを殺めるときは、誰かを助けようとしたときなんじゃありませんか?」
彼女の手の甲を触れてみる。
「心配してくれるのかい? ありがとう、君は優しいね」
頭を撫でられた。
ソフィアは答えに困る問いかけを定期的にしてくる。
きっと鸞子にはしていない。
情操教育の一環なのだろうか。
「そう言えば師匠は夕泉家の客分なのに、なんで侍女が着るような服を?」
ソフィアはティンバラスール城に来てから、道袍を脱いでいる。
「着てみたかったのだよ。似合ってないかい?」
と、手を広げて見せる。
前髪ぱっつん、お尻にまで伸びた黒髪が特徴的で、微笑みを絶やさないその表情と佇まいは瀟洒かつ清楚である。
風呂へ入れてもらう時に彼女の肉体美を毎日拝んでいるので、メイド服の上からでも透視するかの如く想像できる。
胸もデカければ尻はキュッとしていて、くびれる位に肉のついたお腹は、鍛え上げられた腹筋を上手に隠している。
体のバランスは健康的で悪くない。
一つ気になるのは、彼女は背が高いので他の侍女が小さく見えてしまう所。
「すこぶる似合ってますけど……」
「そうか、ありがとう」
ごしごしと頬を揉まれた。
メイド服を着ているとはいえ、彼女に対しては誰しも最敬礼。
たまに城に来訪してくる家臣どころか、母でさえ明らかに師匠に敬意を抱いている。
尊敬する姉の如く接してるのは傍からでもわかるくらいだ。
それだけ彼女は世間で尊敬されているのだ。