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幻が醒めてしまうまで

作者: 卯木れん

『幻が醒めてしまうまで』


微睡みの中で幾度となく幻は現れ消えていく

それは嘘だ、と誰が断定できるだろう

美しき存在を誰が否定できるだろう

同じ世界を誰が生きているだろう


文豪は落ち着いた様子でピンクのロリポップを舐める。彼は静かに言葉を紡ぐ。

「地に貼り付けられたバレリーナは、月に降り立ったこけしと交信を始めました。その月を纏っているのは串刺しの団子たちです。彼らは無重力の中、手足、呼吸、表情…なんてものはありませんけどね、一列になって、リズムを合わせて行進するのです。」


僕が彼を文豪だとなぜ知っていたか、という疑問に対して、それは僕が彼を直感的に文豪だと思ってしまったからなのだが、あえて理由を探すとすれば、どこかの本屋に彼の写真があったような気がしたからである。本屋とは近所、つまり恵比寿の駅にある5階の…。いつの間にかカフェが併設されていて驚いた。買った本をその場で読みたいのか? 家に帰ればいいのに。家に帰れない理由でもあるのか。虐待か、孤独か、孤独だろうな。僕が中学生の時に読んだ小説に、孤独と孤高の違いについて述べているものがあった。その違いは確か、孤独は誰かを欲しているのに独りぼっちな状態、孤高は自分がひとりでいることに誇りを持っている、的なニュアンスが書かれていた。結果的に一人であることに変わりはないのに。僕はひとりっ子だ。


文豪はロリポップを眺める。表情は変わらない。彼は言葉を垂れ流しにする。

「その時、白塗りのヒトガタは渦をなぞっていました。指ではなく自分自身を使って。渦の出口が見えるとヒトガタは消えてしまいました。燃え尽きてしまったのでしょうね、大気圏で。」


 僕は彼から目が離せない。なぜなら彼の髪の毛は淡い栗色で、ふわりとしていて、睫毛が長く碧い瞳をしていて、鼻筋が通っていて、顎が細く、首が長く、肩幅が狭く、鎖骨が浮き出ていて、腰も腕も腿も足首も細く、生を感じられない身体つきであったからだ。僕は生まれて初めてこんなにも美しい人間を視界に捕らえた。というより彼は本当に人間なのだろうか? 仮に僕が人間として、同じ種族だとは到底思えない。彼も僕もおおよそ世間一般のヒトの形をしていた。ということはつまり


 文豪はロリポップを噛んだ。1/4を失ったロリポップは、隕石の衝突により抉れた小惑星に姿を変えた。彼は微笑んで、ロリポップをころころと手の中で回した。一方で、元小惑星の一部は彼の口の中でゆっくりと融解されていく。彼は言葉を宙に放る。

「トゥで近づいてくるのは発条です。ぎこちない一定の間隔で遠心力に身を任せて回り続ける。斜面を直角に横切ってくるのはおでんたちです。一歩一歩を踏みしめて。スプリングはいずれ目が回ってしまったようでおでんとぶつかってしまいました。彼らは沈黙の中斜面を滑り降りていきました。」


 僕は彼がこちらを見ないことを切に願った。その美しい瞳に僕を映してほしくなかったからだ。彼の頭上では星たちが彼を照らしているし、足元には透明な海が広がっていた。僕が沖縄旅行で見た空と海そのものだ。あれは彼のために存在していたのかと思う。世の中の美しいものはまさに美しい人のために存在し、美しさの下に還っていくのだ。これが世の摂理か。僕はその輪の中から外れてしまった。というよりは、もともとその円環の中には生まれていなかったのだ。美しき文豪には彼の世界があり、凡な僕には僕の世界があるということだ。この異なる世界が今、まさにこの瞬間触れ合っている。なぜ?


 文豪は口の中にあるロリポップのかけらを吐き出した。澄んだ海の中にピンクの欠片が沈んだ。彼は透明な水に右手を入れて砂とビビットな宇宙ゴミを掴んだ。ぼたぼたと指の間から砂が零れ落ちる。

「まるで愛のようですね。」

彼はどどめ色の塊を捨てた。透き通る海はそれでも尚、美しかった。彼は左手にあった抉れた小惑星をまた舐めはじめた。口を離すと、彼は語った。

「さて、月を纏った串刺しの団子は行進の途中で、612番目の串の長男が果てしない闇の中で行方不明になりました。迷子は一番近くにあった茶と碧と赤のマーブル柄になっている星に不時着しました。」


 彼はどこに生まれてどこから来たのだろう。僕は美しき文豪を創り出したすべてに触れたいと思った。彼の見ている世界を、辿ってきた軌跡を、この目で見たい。彼は何に惹かれ何を遠ざけるのだろう。彼にとっての輝きは、熱源は、何だろう。


 文豪はロリポップを咥えながら、海の水を足で掬った。膝を伸ばして上げられた細い脚は水滴を帯び、星たちの光でキラキラと輝いていた。パシャパシャと水をとばす。

「マーブル星にはたった一人、座頭がいました。墜落した団子は座頭の身体よりもはるかに大きく、中身は空っぽでした。座頭は自らの意思で団子に倒れ込みました。心地よくなった座頭は立ち上がり、団子を踏みつけました。」

文豪は澄んだ海の上に寝転んだ。星を注がれた水屑のようだった。僕は彼の表情が見たいと思い、2歩だけ、彼に歩み寄った。彼は目を閉じていた。

「団子は変形した。球体ではない歪に変形し続けました。座頭が離れると、歪みは団子に戻りました。座頭は何度も何度も身体を団子に預けました。自分の生を受け止めてくれる無機物に、座頭は湧き上がってくる熱を感じました。両手をめいっぱい広げ、団子に全身で触れる。すると団子はみるみるうちに萎みあっという間に土塊になってしまいました。」


いつの間にか僕の足下には海が広がり、脳天の先には無数の星々が瞬いていた。つまり彼の世界に、僕は足を踏み入れていたのだ。いやもしかしたら、彼を目にした時からじわじわと侵食されていたのかもしれない。僕はこの時ただ不安を感じた。僕が、こんなにも美しいこの世界を壊してはしまわないか、怪我してはしまわないか、だって僕は美の円環には存在していなかったのに。


文豪は話を続けた。

「暫くして、座頭の横には一反の白い布が現れました。座頭は布の先に刀をつけ、空を泳がせました。すると白の龍が頭上で踊り出しました。座頭は団子から吸い取った生命を布に与えたのです。独りではなくなった座頭は嬉しくなり、一日中龍と共に踊りました。踊り疲れると、座頭は龍と友愛の抱擁を交わしました。すると龍もまた、ただの布切れになりました。」


彼は起き上がった。全身から水がしたたっていた。栗色の髪をかきあげる姿、水滴、この瞬間を永遠にするには僕が大きな水槽をつくって、この世界をまるごと閉じ込めるしかない。彼は小さくなったロリポップで空中に描いた。文字か絵か、僕には分からなかったが、刹那、星空は灰になった。黒の粒子が文豪の周りを舞い、僕のところまで流れてくる。

「座頭は ひとり になった。空想の中の龍と踊り、夜は団子に包まれて眠りました。孤独を認識すると途端に辺りが暗い靄であることに気づいたのです。時の鐘が鳴る。何度も、座頭を責め立てるように鳴る。座頭は気が狂ったように衣服を剥ぎ取りました。そのまま皮膚までも削ぎ落とせたらどんなに楽だったでしょう。」


水と灰が混じり、美しき文豪は黒に染まった。足元の海にも灰は溶けて黒になっていく。夢のような世界は暗闇に包まれた。それでも僕が彼の姿を認識できたのは、彼の碧色の瞳だけが光っていたからだ。この色を僕はどこかで見たことがある。けれど再現はできない。きっと今体験していることも、僕の心象も、この時が終わったとして余すところなく書き残すことも語ることもできない。彼の物語は、彼が思い描いたことを隅々まで言葉を尽くして表現しているのだろうか。

「座頭の遥か上空では機械の翅が唸っています。何体も居るようで座頭は怯えました。なぜなら、奴らに喰われると思ったからでした。焼かれ、肉はおろか骨の髄までしゃぶられてしまうのです。座頭は轟音の中、霞に呑み込まれていきました。」


カラカラとロリポップが歯に当たる音がする。口から離し目の前に持ってくると文豪はロリポップに光を灯した。マッチ棒みたいに。燃えているわけではないが、その光は柔らかなピンク色だった。碧とピンク。この闇に浮かんでいるのはそれだけだった。僕には、目で見えないものの存在を確信できない。今僕はこの暗闇に立っているけれど、それは僕の感覚だけであって、もしかしたら僕の両脚は地を踏みしめてはいないかもしれない。灰の溶けた海をつたって僕の脚も灰になってしまったかもしれない。そう思ったら急に怖くなって、僕はその場で足踏みをした。するとぴちゃぴちゃと水音がした。ぬかるんだ泥を踏んでいる足には冷たさを感じた。手を握る、血が通っている。文豪に奪われていた感覚が、僕のところに戻ってきたのだ。彼は話の続きを語りだした。

「気がつくと座頭は碧に囲まれていました。虫、鳥の鳴き声、水の流れる音、木々の爽やかな香り、大地の柔らかな感触。それは座頭が持ち合わせていなかった何かを補ってくれているようでした。暫くして耳を澄ますと、羽音が聴こえました。それは人と同じくらいの大きさをした蜻蛉で、カラカラと啼きながら木々の間を飛び回っていました。座頭は白い龍と機械の翅達を同時に思い浮かべて、安楽と恐怖の間で揺れていました。」


 僕は風が抜けるのを感じた。風は意思をもって自由に動けるようで、僕の左腕を後ろに引っ張った。小さな飛沫をあげてその場に座り込んだ。すると目の前は真っ白になった。僕と文豪を包んでいた闇も泥もなくなり、ただどこまでも白い空間。そこにいるのはロリポップを咥えた文豪と僕の二人だけ。

「二律背反の感情を同時に起こしてしまった座頭は,、阿呆になった。全てを投げ出して、ただ身体の叫びに従って踊り狂いました。もう碧は無くなり、真っ赤に染った場所に来ていたけれど、気づかないフリをして、阿呆を演じ続けました。」


 僕はまた文豪に目を奪われてしまった。白がよく似合う。彼は上を向いた。彼の焦点はもっと遠いどこかだったかもしれない。その横顔に見惚れていたので定かではない。虚ろな瞳はどうしても僕を惹きつけた。

「なぜ座頭は阿呆になったのでしょうね」

文豪は口を開いた。僕に尋ねているのか? 僕は声を出せずにただ彼を見つめていた。彼は棒だけになったロリポップに目線を落として

「それは私と、あなたと同じ理由ですよ」

と、静かな余韻を残すように答えた。


文豪はロリポップの残骸から手を放し、重力に引っ張られ棒が落下する。僕の視界が揺れた。

「幻はまた現れます。幻ですから」

文豪は僕の方に向こうとした。ほぼ反射的に、僕は目を逸らした。微かに彼は笑ったように思った。

「所詮、幻ですが。」


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