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消えゆく君に捧ぐ

作者: azarea

夜、山奥の中で1人歩いていた時に出会った彼女が開口一番放ったセリフは「あなたに憑かせてください」だった。

あまりに衝撃的な出会いで、今でも鮮明に思い出すことが出来る。

突拍子もなく俺の前に現れた彼女は短く切りそろえられたショートカットの綺麗な黒髪を垂らして深々と頭を下げながらそのセリフを言い放った。

もちろん突然そんな事を言われても、当然「はい」とは言えない訳で、俺がどうしたものかと困っていると彼女は矢継ぎ早に言葉を繋げていった。

「あの、私、家事出来ますから!食費も要りませんし!お願いします!」

そもそも幽霊が家事を出来ると言うのはどういうことなのか。というか家事をするには何かしら持たなければ何も出来ないし幽霊とは物には触れられないものなのではないのか?などと考え込んで俺はますます困惑の色を深くしていったが、彼女はそんな様子に気づいたのか説明を始めた。

「えーっと、私いわゆる地縛霊というものなんですけど…地縛霊というのは現世への執着が特に強いのである程度現世に干渉することが出来るんです。特に私はその傾向があるので遂には幽霊なのに家事まで出来てしまうという事です」

そう言うとそこらに落ちていた木の枝を拾って手の上で弄びながら彼女はそう言った。

そうして二言三言会話を交わしているうちになぜだか俺の中では彼女に対して警戒心というものは無くなり、自分に取り憑かれてもいいだろう、と考え始めていた。

我ながらおかしいと思う。突然現れた幽霊に憑かせてくれと言われて少し会話をしたぐらいでそれを了承しようとしているなんて。

そんな事を考えていると彼女はすこし悲しげな表情をしながら「ダメ、ですか?」と聞いてきた。

もう俺に断る理由はなかった。

「本当ですか!ありがとうございます!」

そう言って微笑んだ彼女の顔を見ていると自然と俺の顔も緩んだ。

そんな出会いから始まった彼女との暮らしは、視界に映る色は灰色だけだった俺の世界に沢山の色を与えてくれたし、様々な思い出をくれた。今にして思えば二言三言交わした程度で彼女が自分に取り憑いてもいいと思ったのは退屈な日常から脱したかったからなのかも知れない。

そんな彼女との生活を、おそらく人生の中で最も幸せで、充実していたであろう期間を思い返してみようと思う。






彼女との生活の始まりの日。

山奥から家に帰り、一夜が明けた朝、まずはお互いの自己紹介から始めようという事になった。

「私の名前は加瀬伊織です。生前は大学生でした」

生前は、なんて普通の自己紹介ではあり得ない単語を並べながら彼女の自己紹介は終わった。

「はい、あなたの番です!」

微笑みながら俺に話しかける彼女を見て、とても明るくて元気な子なのだと思った。

「俺の名前は平塚良太、現在進行形で大学生だよ」

「大学生ですか、じゃあもしかして同い年かも?」

首をかしげながら彼女は続ける。綺麗に短く切りそろえられた黒髪が揺れる。

「私は永遠の20歳ですけど…」

少し遠くを見ながらそう呟いた。その目は少し寂しげであったように思う。

「ああ、なら1つ違うね。俺は21だよ。今年限りね」

「えっと、じゃあ学年の方は…」

「2年だよ」

「あ、じゃあ学年は同じなんですね!」

彼女は嬉しそうに笑った。

「そうだね…敬語じゃなくてもいいよ?」

「あの…いえ、もう敬語で慣れちゃったと言いますか。その、できれば敬語のままがいいんですが…ダメですか?」

少し申し訳なさそうに、こちらに笑いかけた。彼女は笑顔1つとっても様々な笑顔を見せてくれた。

「慣れちゃったならそのままでもいいよ、楽な方で」

「ありがとうございますっ!」

彼女の顔は、決して女優やモデルのような記憶に残るようなものでは無かったが、とても整っていて、けれど幼さを少し残していたからか可愛らしいという印象だった。

「こんな家でごめんね。出来れば君の部屋を用意したかったんだけど生憎そんなに広くなくてね」

自宅は一般的なアパートの一室で、1LDKだ。

いくら幽霊とは言っても女の子だし、そのうえ大変可愛らしい女の子である。男とずっと同じ部屋と言うのも嫌だろうし色々とまずいだろう。そう、色々と。

「いえ、いいんですよ!そもそも私はわがまま言える立場でもありませんし、こうして居させて貰ってるだけでもありがたいですし」

真剣な眼差しをこちらに向けながら彼女は続けた。

「良太さんにあの時憑かせて貰えなかったら今でもあの山奥で1人きりでしたから」

こちらに向けた眼差しに悲しげな色が見えた。

「君は…」

そう言いかけたときに彼女は俺の言葉を遮って

「伊織です。私の名前、君じゃないですよ」

今までの真剣な表情を少し崩して優しく微笑みながらそう言ったその目には先程まで映っていた悲しげな色はもう見えなくなっていた。

「…君には勝てそうにないな、伊織」

何故だか俺は彼女にはどう足掻いても勝てそうにない、そう思った一瞬だった。

「ふふ、それはどうでしょうかね」

そう言って少し誇らしげに笑った。

「さて、と。とりあえず飯でも作ろうかな」

なにせ昨日は疲れていたせいか帰りつくなりすぐに眠りについてしまったから腹が減って仕方ない。

「あ、それなら私が作りますよ。冷蔵庫の中見せてもらいますねー」

そう言って俺が立とうとしていたのを手で止め、冷蔵庫の中を覗き込みながら意外という声で言った。

「食材は結構揃ってますね…一人暮らしの男の人ってもっとこう…適当なのかと思ってました」

なおも冷蔵庫の中を見ながら続けた。

「えーと…カレーのルーありますか?」

「あるよ。そっち側の棚の二段目」

「よし…じゃあカレーを作りましょう!」

そう言ってからの彼女の行動は早かった。

手際も良く、あっという間に部屋中にカレーのいい匂いが広がった。その間俺は何をしていたかと言うと、ただひたすら料理をする彼女の後ろ姿を眺めていただけだった。

「完成です!」

得意気にカレーと白米の乗った皿を俺の前に置いて向かい側に座り、早く感想をと言わんばかりにこちらを見つめてきた。

まずは1口、口に運ぶ。

「…美味いな」

口からそんな言葉が溢れでた。

「本当ですか!やった!」

そう言いながら胸の前で小さくガッツポーズを作り喜んだ。

このカレーには特別な物は何も無かったが、何故だかとても懐かしい物を感じ、あまりの美味しさにすぐに平らげてしまった。

「ご馳走さまでした」

「お粗末様でした」

「美味しかった。何故だか昔母さんが作ってくれてたカレーを思い出したよ」

何故そう思ったのかと疑問に思いつつ彼女に視線を向けると、こちらを見ていた彼女と視線が合った。そして彼女は白く細く長い、まるでガラス細工のように透き通った指を閉じ、胸に手を当て微笑みながらこう言った。

「きっとそれは気持ちのせいです。食べてくれる人の美味しいって言葉を、笑顔を想像して作るんです!だからきっと良太さんのお母さんも良太さんが笑顔で美味しいって言ってくれるのを想像しながら作ってたんですよ!」

よく聞く言葉ではあったが不思議と彼女の言葉にすぐに納得する事が出来たと同時に何故か少し恥ずかしい気がして話題を変えることにした。

「そういえば、現世への執着が強ければ現世に干渉できるって話だったけど…伊織はそんなに何に執着してるの?」

初めから疑問には思っていたがタイミングが無くて聞けなかったこと。きっと聞かれてあまり気持ちのいい事ではないだろうが、聞かないわけにはいかなかった。

「そう、ですね…私は何に執着しているんでしょう」

先ほどまでこちらに向けられていた優しげな視線を下に落とし彼女は少し考え、そして語り始めた。

「…私、つまらない人生を送ってきたんです。自由なんてなくて自分を殺して、ただただ親の言うままに操り人形みたいに生きる、そんな人生です。そして、それが嫌で嫌で仕方なくて本当に自分を殺したんです」

彼女は立ち上がり窓際にゆっくりと歩み寄って窓から見える大きく輝く月に、爛々と光る街明かりに視線を投げながら続けた。

「だからきっと自由とか生とか、そういう物に憧れて執着してるんだと思います」

夏の始まりを告げるような風が月明かりと街明かりに照らされた彼女の髪を揺らし、部屋を駆けていく。

窓際に立ちながら語る彼女の背中はとても悲しげで寂しげで、そんな彼女に一抹の美しさを感じた。

「なーんて、暗くなっちゃってごめんなさい!」

こちらに振り返り、少し申し訳なさそうに微笑んだ。しかしその微笑みはとても苦痛に満ちていて、見るに堪えられ無かった。

「いや、俺も悪かったよ。こんな事を聞いて」

彼女にこんな表情をさせてしまったことに心の底から後悔していた。その時にはもう既に彼女に垣間見た一抹の美しさはもう感じられなくなっていた。

「いいえ、私もいつかこの事は話さなきゃって思ってましたから。私もいつまでも良太さんに憑いているわけにもいきませんしね」

「と、言うと」

「成仏しなきゃってことですよ」

俺は何も言えなかった。成仏なんてしなくてもいいなんて事を言える資格もなく、いっそずっと憑いていてくれてもいいなんて事も言えもせず。そもそも自分が何故成仏しなくてもいい、なんて事を考えたのかもわからなかったが。

「どれくらい、成仏にはかかりそうなの?」

そんな俺はこうして彼女といられる残りの時間を聞く事しか出来なかった。

「んー、そうですね。現世に執着がなくなるまでですから…どれくらいでしょうね」

彼女は曖昧な笑みを浮かべながらそう答えた。その時は明日かもしれないし、1年後かもしれない。もしかしたら10年、20年後かもしれない。

けれど、その時は必ず訪れる。彼女の綺麗に透き通った眼は彼女の決意を何よりも強く語っていた。






彼女との暮らしが始まって1ヵ月が過ぎた頃。

彼女がいる生活にも慣れ、季節はすっかり夏になった。

「どこかに行ってみたいですねー」

彼女はポストに入っていた旅行会社のチラシを机に突っ伏しながら見つめてそう呟いた。

窓際で煙草を吸いながらそれを聞いていた俺は、夏休み中にどこかに行こうかと考える。

この1ヵ月色々と話し合ってで彼女を成仏させるために様々な事をやろう、という事を決めた。カラオケ、街巡り、サイクリング、旅行などなど今まで自由に生きてこられなかった彼女に自由に好きなことをさせてあげたいと。

それが彼女が望んだことであり、俺が手伝うと決めたことだった。

「どこか行きたいところとかある?そんなに金はないから遠くには行けないけど」

「そうですねー、私もそんなに遠くには行かなくてもいいですね」

チラシに目を向けたまま悩む彼女を見ながら俺は太陽に照らされる町並みを見た。

梅雨など嘘だったかのようにカンカン照りの太陽の下でセミが忙しなく鳴き続け、夏休みに入った子供達が元気に遊び回っている声が聞こえる。

毎年この暑さに鬱陶しさを感じながらもなんだかんだで夏は好きだった。

そんなことを考えているとふとチラシを見つめたまま彼女が呟いた。

「良太さん、車で遠出とかどうでしょう?」

俺は1台車を持っていた。

友人に安く譲ってもらったものの、ここら一帯はバスや電車があり不便なことはなかったため頻繁に乗ることはなかったのだが、気分を変えたい時なんかは財布1つだけを持って飛び乗り、どこかへ行くなんてことをしていた。

「なるほど…いいかもね」

「でしょう!ふふ、楽しみですねー」

チラシから目を上げ、机に手をついてきらきらと目を輝かせながらにこにこと嬉しそうに微笑む。

この笑顔を見てしまったからには彼女帰ってきた時に絶対に楽しかったと言わせてあげなければ、と思う。

その為にもまずは行く場所から決めなければ。

「車で遠出ってのは決まった…けどどっちの方に行こうかな。伊織は海と山、どっちが好き?」

まずは二択で選択肢をしぼる。海へも山へもここからなら1~2時間ほど走れば行けるだろう。

「海がいいです!」

「よーし、じゃあ海の方に行こう」

「海ですよ海ー、私海に行くのは初めてなんです!」

「初めて?」

「そうなんです!生まれも育ちも内陸県で海がなかったから行ったことなかったんですよー、代わりに山の方は何度も行ってるんですけどね」

確かに内陸県なら初めて海に行くというのもわからなくはないが、やはり理由はそれだけではなかったんだろう。

「山もいい所だよね。個人的には俺は海の方が好きだけど」

海は嫌なことがあったりするとよく行く場所で、手垢がついたフレーズだが、海の大きさを見て自分自身の小ささを再認識して物事は大きく考えなければと思う、そんな場所だった。

「私も山は大好きですよ。呼びかけたら必ず返してくれますし」

「やまびこだね。俺もよくやるよ」

やまびこを聞くと自分は1人じゃないと、そんな風に思えるから好きだった。

そういえば伊織に初めて会った日もやまびこが返ってくるのを楽しんでいたことを思い出した。

「楽しいですよねー、私は1人じゃない!って感じがしますし」

「伊織も同じことを考えてたのか…」

少し驚いた、まさかやまびこを自分と同じことを考えてやっている人がいるなんて思いもしなかった。

「良太さんもですか?じゃあ案外私達似たもの同士かも知れませんね」

何気なく言ったであろう似たもの同士という言葉に妙に納得して、確かにと思った。

俺もきっと彼女が現れなければ近いうちに彼女と同じ道を歩んだだろう、幽霊にまでなるかはわからないが。

「よし、善は急げだ。早速明日から出発しようか」

煙草の残り火を灰皿に押し付けながら消し、窓際から彼女が座っている机の近くに歩み寄りながら用意する物や移動のルートを考え、彼女を楽しませるための算段を立てる。

「もしかして…泊まりとかですか?」

「伊織がそれを望むなら仰せの通りに」

「えっと…じゃあテントを張ってキャンプ、なんて…」

「キャンプ道具も揃ってるしそうしようか、テントはひとつしかないけど大丈夫?」

1度友人に誘われて行った時に揃えたキャンプの道具がまさかこんな時に役に立つとは思っていなかったが、とにかくラッキーだった。今から揃えるとなると結構な出費になって少し厳しくなっただろう。

「本当ですか!?やった!」

きらきらと目を輝かせながら全身を使って喜ぶ彼女が室内に入り込んだ陽の光に照らされて神秘的な光を放っていた。






「おはようございます、良太さん」

目を開けるとエプロンをつけて台所に向かって料理を作っている彼女の姿が見えた。

「今何時?」

寝起きであまり声が出ず、彼女に声が届いたか少し不安になったが「6時30分ですよ」と答えてくれてちゃんと声が届いた事に少し安堵し、布団から起き上がりながらまた言葉を投げかける。

「しかし随分早いね、いつから起きてたの?」

「1時間前ぐらいですかね…」

1時間前というと5時30分、随分早くから起きていたのだなと思いつつ手早く着替えを済ませて彼女の横に歩み寄る。

「手伝おうか?」

「いえ、もう終わりますから大丈夫ですよ」

そう言った彼女の手元を見ると既に調理自体は終わっていて弁当箱に詰める段階に入っていた。次々に詰められていく色とりどりのおかず達を見ていると食べることが楽しみになって来た。

「美味しそうだな」

意識せずふとそんな言葉が口から零れ出てきたその瞬間は初めて彼女はこちらを振り向いて嬉しそうに微笑みながら「自信作です」と言った。

「よしっ、出来た!」

そう言って手馴れた様子で手早く弁当箱を風呂敷で包む。

「私は準備できてますからあとは良太さんだけですよ」

「俺も着替えたし荷物は昨日用意してあるしあとは車に積み込んで出発するだけだよ」

「なら早速出発しましょう!善は急げですよ!」

目を輝かせながらぱたぱたとドアに向かって走っていく彼女を微笑ましく思いながら荷物を抱えて外へと出る。

「このアパート駐車場なくて少し離れたところに停めてるんだよね」

鍵を締めて階段を下りながら話す。

「道理で。今まで車のことは話でしか聞いたことありませんでしたしね」

「買い物行くのにも電車とかバスもあるからわざわざ車で行く必要も無いしね」

そう言いつつアパートから少し離れた駐車場に歩いて向かい、ほどなく到着した。

「これだよ。これが俺の車。友達から安く譲ってもらった物なんだけどね」

そういうと伊織は目をキラキラと輝かせて近寄ってくる。

「これオープンカーってやつですよね!?うわー、初めて見ました!良太さん!今度オープンにしてどこか行きましょう!」

依然目を輝かせなながら車の周りをぐるりと回ってこちらに笑いかける。

まさか車だけでこんなに喜んでくれるとは思っていなかったが、伊織が喜んでくれるならそのリクエストにこちらも喜んで答えなければならない。

「了解。じゃあその時は山の方に行こうか」

そう言いつつ荷物を詰め込む。オープンカーというものは得てして荷物があまり乗らないものなのだがそこは気合でなんとかする。

「2人乗りの車ってやっぱり荷物があんまり乗らないんですねー…」

伊織がちゃんと荷物は全部載るのかと心配そうに後ろから覗き込んでくる。

「そうだねー。でも工夫さえすれば結構沢山荷物も積めるよー…っと。ほらね?」

そう言ってトランクへと全ての道具を詰め込んでから手を広げて見せる。

それを見た伊織は、おお、と感嘆の声を漏らしながら小さく胸の前で拍手をする。

「よし!それじゃ行こうか」

「はいっ!」

そう言って俺と彼女は意気揚々と車に乗り込み、初めてのキャンプへと出発した。


そうしてしばらく走るうち視界が開け、目の前に青い大きな海が広がった。

「ほら、海だよ」

俺はそう呟いたが、隣からは何の反応も得られなかった。

先程まではしゃいでいたが打って変わって静かになった彼女の様子が少し気になり横目で彼女を見ると、彼女は目を閉じていた。

目を閉じて静かに遠くから聞こえる波の音を、潮の香りを楽しんでいるようだった。

そんな彼女を邪魔しては悪いと思い、運転に集中することにした。

潮の香りを感じながらここを前に走ったのはいつだったかと考える。

しかしいくら考えても思い出せない。彼女が来てからの1ヶ月は充実していてたからとりあえず海まで走る、なんてことはしなかったなと。

そんなことを考えているうちこのまま彼女にずっといて欲しい、なんてことが少し頭をよぎった。叶わない事だとわかっていながら。

そんなことを頭から追いやるために頭を少し振り、深呼吸をする。

「とても気持ちいいですね…これが海、なんですね…」

彼女がふとそう呟いた。

「もっと近くまで行けばもっと気持ちいいと思うよ」

そんな言葉が口に出た。

「じゃあ、行ってみましょう!」

彼女が体を乗り出してそう言った。

「よし!じゃあ行こう!」

俺はしっかりとハンドルを握り直して自らの行く先をまた見直した。


しばらく走ってから近くの駐車場に車を止め、遂に海へとやって来た。

「これが砂浜ですか…」

履いていた靴を脱いで裸足になった彼女が地面を踏みしめながら興味深そうに呟く。

「どこかの海には歩いた時に音の鳴る鳴き砂なんてものもあるみたいだよ」

「へー…ここの砂では鳴らないんですかね?」

そう言いながら何度も足踏みする。

その様子を見て自分も何度も足踏みをしてみる。

「うーん…鳴らないみたいだね」

「きっと何か鳴る砂と鳴らない砂で違いがあるんでしょうね…」

そんなことを言いながら1歩1歩と海の方へと近づいていく。ゆっくりと、踏みしめるように。しかし段々とその歩調は速くなっていく。

「遂に海ですよ良太さん!」

彼女は笑顔でそう言いながらこちらを振り返る。海と彼女、その2つはとても美しくカメラを持ってきていないことを心底悔やんだ。

「あんまりはしゃぐと転ぶよ」

そんなことを言いながらも自分も海に向かって走り出していた。

「そう言いながら良太さんも走ってるじゃないですか!」

笑いながら彼女に指摘される。仕方ないだろう、こんなに目の前で楽しそうにされたら自分まで楽しみたくなってしまうというものだ。きっと彼女には人一倍物事を楽しむ才能があるんだろう、笑顔を見てそう思った。

そうして散々波打ち際ではしゃいだ彼女と俺は疲れ果てて砂浜に座り込んでいた。日はとっくに傾き、もうすぐ海に沈んで行くだろうという時間だった。

「…楽しかったです」

彼女が目を閉じ、海の音や香りを噛み締めながらそう呟く。

「それはよかった。でも、今日はこれで終わりじゃないんだよ」

そう言って彼女の方に手を差し出す。

「夜はこれからだよ。テントを立てて、火を起こしてキャンプを楽しもう」

彼女は疲れを浮かべていた目をまたキラキラと輝かせ、俺の手を取らずに立ち上がってみせた。

「夜は長いですよ!」

彼女はそう言ってまた車の方へと走り出した。どうやら彼女の元気は底なしのようだ。


車に乗り込み、またしばらく走ると海辺のキャンプ地へと辿り着いた。友人から教えてもらったこの場所はどうやら穴場のようで自分達以外には誰一人としていなかった。

「海も見えていい所ですねー」

「夜は星もよく見えるらしいよ」

「星!いいですね!」

手早くキャンプ道具をトランクから降ろし、適当なあたりに設営を始める。

「そういえば伊織はキャンプはやったことある?山の方には行ってたらしいけど」

「ありますよー、夏はキャンプに行くのが我が家の恒例でしたから」

そう言いながらテキパキとテントを張る。どうやらかのキャンプにおいては俺よりも彼女の方が頼りになるらしい。

「さすがに手際がいいな」

感嘆しながら彼女の作業を眺める。本当は俺がやらないといけないことだが、彼女が楽しそうに鼻歌なんて歌いながらやるものだから手を出すまいと思ってしまった。

「でしょう?」

ふふんと鼻を鳴らし自慢げに笑う。そうしている間にも作業は決して止めず、結局設営の大半を彼女に任せてしまった。

「ごめんね、設営やらせちゃって」

「いいですか良太さん、これもキャンプの楽しみの1つなんですよ?」

指を立てながら彼女はキャンプについての講義を始めた。

「自分達でテントを立てて、ご飯を作って、火を囲んで夜を過ごす…これぞキャンプの醍醐味です!」

「なるほど」

「更に道具にもこだわるともっと楽しいですよ!コーヒーを淹れたりできますし!」

「それはいいな…」

「でもやっぱり一番は…」

少し間を置いて、俺の横に座り空を眺めながらあくまで自然に言った。

「一緒にいて楽しい人とキャンプをする事です。その点、私は今とても楽しいです!」

やはり、勝てない。真正面からこんなことを言われてしまっては少し恥ずかしいと思ってしまう。

だから、同じ事を言い返すことにした。

「その点は俺もそうだな。この上なく楽しいよ」

しかし彼女は嬉しそうに笑うだけ。やっぱり、勝てそうにない。


陽は落ちてしまい、夜も更けて月や星が爛々と輝く。

月明かりに照らされた彼女は、また一段と神秘的に輝いていた。

「良太さん」

彼女の声は、いつもより透き通っている。空気が澄んでいるからだろうか、それとも。

「どうしたの」

「ありがとうございます」

彼女は空を見上げながら続ける。それに倣って俺もまた空を見上げる。

「お礼を言いたいのはこっちだよ」

「じゃあお互い様、ですね」

彼女は静かに微笑む。俺は、声が震えていないか心配になる。

「私、幸せです。沢山想い出を作れました。他の誰でもなく、あなたと一緒に」

この先彼女に何があるか、それがわかってしまう。続きを、聞きたくない。でもそうすることはできない。俺は最期まで彼女に付き合おうと決めたんだから。

「カラオケも行きましたね。サイクリングもしましたね。バイキングなんかも行きましたし…」

そう言いながら指折り数える彼女の声はどこまでも真っ直ぐで、声を出したなら震えているだろう自分とは大違いだ。

「沢山、沢山。死ぬ前には出来なかったことが出来ました」

ああ、そんな事を言わないでくれ。まだ君はやっていないことが沢山ある。君とやりたいことが沢山ある。だから…

「最期に、私が大好きだったキャンプも出来ました」

最期なんて、言わないでくれ。

「良太さんは、楽しかったですか?」

「…楽しかった。とても楽しかった」

これからもこんな時間が続けばいい、そんな言葉を飲み込んで。

「なら、良かったです。私も楽しかったです。でもそれ以上に、幸せでした。あなたに憑けて本当に良かった」

彼女の体から月明かりが漏れる。彼女の影が薄くなる。

「あなたは自分の事をつまらない人間だと思っているかもしれません。でも、それは違います」

彼女は改めて俺の方を見ながら、また微笑んだ。

「私という1人の女の子をこんなに幸せに出来たんです。もっと自信を持ってください」

彼女は、小さく胸の前でガッツポーズを作る。俺はその手を取ろうとするが、届かない。

「他の人なんてどうでもいい。俺は、君の事が…」

そう言いかけたところで、人差し指を口元に立てられ遮られる。

「良太さんはこれからを生きる人です。そんな人がこれからの人生を私みたいな死んだ人に捧げるなんて、ダメです」

人差し指で天を指し、彼女は続ける。

「でも、もしあそこで会ってまだ私の事を覚えていてくれたなら…また、沢山想い出を作りましょう」

忘れる訳がない。忘れられる訳がない。でも、そんなことは口には出さない。

「良太さん、これからの人生を楽しんでください。そして向こうで会った時に、その話をしてくださいね」

一段と彼女の影が薄くなる。

「だから、先に行って待ってますね」

俺は、どんな顔をしているだろう。笑えているといいのだが。

「私も、あなたの事が好きです」

その言葉を最期に、彼女は消えた。

残されたのは静寂。

けれど、彼女と過ごした記憶は決して消えることはない。

だからこそ、彼女に一言だけ言いたかった。

「最後に言い逃げなんて、残される方の身にもなってくれ」

どこかで、申し訳なさそうに彼女が笑っている気がした。






正直に言って彼女と過ごしたあの日々の記憶も多くは残っていない。はっきりと残っているのは出会いの日と別れの日。いや、はっきり言うなら出会いの日も別れの日もあまりはっきりとは覚えていない。記憶がはっきりしているのは幾ばくかの時間だけだ。あとはちぐはぐで曖昧で飛ばし飛ばしな記憶ばかり。全く酷い話だ。あんなに忘れたくないと、そう思っていたのに。忘れる事を恐れていたのに何故だか今となってはむしろよかったとすら思える。忘れた分だけ新しくたくさんの思い出が出来たから。

俺も、もう随分長く生きた。

彼女との別れの夜から色々な事があった。

嬉しい事も悲しい事も、時に死にたくなってしまうような事も。

けれど、生きてきた。何があってもこんなところで死ぬもんかと思って生きてきた。

それは、彼女の為だった。

彼女は決して人生を謳歌したとはいえなかった。だから、代わりに俺が人生というものの酸いも甘いも経験して彼女に話そうと思っていたから。これは自己満足かもしれない。でも、いいんだ。彼女が笑ってくれるような話を1つでも持っていければ、それで。

俺も、もう長くはないだろう。

彼女にようやくまた会える。

彼女は待っていてくれただろうか。






目を覚ますとそこは山の中だった。

決してそんなに高くはなくそこらにあるような山だったが俺には見覚えのある山で、見覚えがあるような夜だった。

「少し、待たせたかな」

ぽつりとそう呟く。

それに応えるように後ろからこちらに歩み寄る音が聞こえる。振り返る事はない。振り返るまでもない。

「いいえ。むしろ早く来すぎたら追い返してましたよ」

聞き覚えのある声。透き通るような綺麗な声。

「久しぶりです、良太さん」

「…ああ、久しぶり」

こちらに笑いかける彼女を見て、俺の人生はこの時の為にあったのだと改めて思う。

「伊織、話したいことが沢山あるんだ」

「私も、聞きたいことが沢山あるんです」

2人でそう言い合って少し笑って、空を見上げる。

綺麗な月夜だ。見覚えがある月夜だ。

この月が沈んで、また昇って。それを何度も何度も繰り返す。俺たち2人も何度もそれを見てきた。そして、最期の時は月夜のまま止まっていた。だからこれからまた繰り返す。止まっていた2人の時は動き出し、次は止まることなく永遠に続く。2人の世界はまた、廻りはじめる。

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