女将の扉が
今起きた事はなんなんだ。私が経験したのはなんなんだ。なんでこんなにこの色男の顔が近いんだ。
頭の中が混乱で一杯になっている。どうして、どうして、
この男は、こんなに切なそうな、愛おしそうな目で、私を見ているんだ。
それはおかしな事だった。私にとってはおかしすぎた。だってそうだろう。乙ハタが仕事を終わらせた後、つまり”最初の一人”を見つけ出し、無事に地球に連れ戻したら、異世界の時は巻き戻ると聞いていたのだから。時は巻き戻って、乙ハタの探索班の人員が関わった人達は、皆探索班の人を忘れる。
巻き戻った時は、その前に起きていた事を無かった事にする。
そう聞いていたのだから、あり得ないと思ったのだ。
私の目の前に居る男は、間違いなく、時が巻き戻って、私を忘れているはずの男だというのに、この男はどうして、私を覚えているのだろう。
そこがまずわけがわからなさすぎた。
私が乙ハタで聞いていた事が誤りだったのか? そんなはずが無い。誰に聞いてもそう言われた。示し合わせて嘘を言っているはずも無い。
そもそも世界が崩壊しそうなのだから、我々は動いているわけで、元凶が居なくなった後は、平和に物事を進めるために、神様という物は時くらい簡単に巻き戻す。神様なのだから。
大体、”最初の一人”が狂わせた世界を元に戻すために、乙ハタの構成員達は命をかけているわけで、その人達の事は忘れられた方がいいものなのだ。
時が巻き戻ったのだから。
時が巻き戻る前に、世界に介入した人間達を覚えているのはパラドックスという奴になるだろう。存在しない人間を覚えているなんて、土台おかしな話なのだ。
それなのに、どうして。
「世界の果てまで探しに探して……こんな所で何してる?」
キャプテン・シンは私の腰を抱いてそう囁く。頬に手を滑らせて、甘ったるい視線で私を見下ろしている。
出会った頃と身長差は変わらない。大の男と成人女性の身長差が変わるわけがない。
ただ。
「……片眼、戻らなかったんだ」
私はぽつりとそう言ってしまった。失言だったと気がついたのは、彼がにやりと笑ったからだ。
「覚えているって事は、お前は俺の千里眼というわけだな?」
「っ」
盛大に間違えた。こんな男など見た事もないし噂しか知らないと、言えば良かったのだ。とここで気付いた。キャプテン・シンという人間は有名だろう。だから女の人を斡旋する宿屋の、さえない下働きがちょっと特徴を聞いて、もしかしてと思って名前を当てる位はおかしくない。
でも、その片方の目の事を指摘するのは大きな間違いだったのだ。
失敗をした。混乱しすぎたのか、冷静な思考回路が導き出せない。
私は言葉も出ないまま、必死に呼吸を繰り返した。こんなに緊張するのは滅多に無い。混乱するのも滅多に無い。あり得ない事ばかり起きていて、まともに頭が動かない。
「お前を庇って失った目玉だ」
それすら懐かしいのだと言いたげに、キャプテン・シンが目を細めて言い出す。
「……なんの、ことやら。私は仕事の最中なんです、手を離してくださいな。仕事をさぼりたくないんです」
「こんな所で?」
「こんな所って……ここは食堂で宿屋で酒場ですよ、珍しくもなんともない」
「女を買う宿だろう? ……ああ、お前も誰かに買われた事があるのか?」
失言なんかしてませんと、しらばっくれて取り繕おうとしたのに、キャプテン・シンの鋭い隻眼はそれをゆるさないと言いたげで、私はうまい具合に取り繕えないでいる。
くそ、こんなに面倒な展開になるなんて思いもしなかった。
キャプテン・シンの手は、触れる程度の力加減で私の頬に添えられている。だが逃げ出せないと雄弁に語る手つきで、周りの誰もが私とキャプテン・シンの関係性を推測しようとしている。
この場をどうやって切り抜ければいいのか。
「……あなたが知らなくてもいい事ではありませんか? この宿のありようが全てでは」
「ふうん?」
私はあれこれをごまかそうと思って、そう言い放った。エバンズさんの宿屋の現実を、どう捉えるかなんて人次第だからだ。
しかしこれも問題の発言になったようだった。
キャプテン・シンの瞳が暗く陰る。厄介な目だ。あの時に見た、目と似ている。私の手を貫通するナイフを投げつけられた時とだ。
これはまずい。極めてまずい。私は身をよじって彼から離れようとして、その時奥からエバンズさんが騒ぎを聞きつけたようで現れたから、救いを求める視線を向けた。
本当にこれどうしたらいいの。
「面白い事が起きているという話だから、来てみたら、シン様、どうしたのです?」
「ああ、エバンズ。これはいくらだ?」
「まあ……! あなたの好みはこういった女性と?」
「俺の好みではないが、これがいい」
周りはこの発言にざわざわとざわめきだつ。エバンズさんはちょっと考えたそぶりを見せてこう言った。
「その子は一番格下の子です。ですが売れないだろうから、相場の三倍という話でその子と話がついていますの」
「ああ、支払うさ。これの部屋は?」
「屋根裏部屋です、シン様、この子で本当によろしいのですか? もっと気立てのいい美しい女性をそろえていますけれど」
「これがいいのさ。気に入った」
キャプテン・シンがエバンズさんにそういう。私に決定権が全く発生しないやりとりで、逃げ出したらその時点であらゆる方面に迷惑をかけ、ここに戻れない事を意味していた。
そのため逃げるという選択肢がない。
私は日本に戻れない状況で、宿無し金無し仕事無しの三拍子になるわけにはいかなかったのだから。




