宿屋の扉が
食堂のあれこれそれはとにかく、色々なカルチャーショックの連続と言っても過言では無かった。
そもそも衛生観念の違いが大きいだろう。
日本の食品衛生法の偉大さを改めて感じる事が大きかったのだ。
日本では日常的に手を洗ってから消毒して、食中毒その他の予防に努めるわけであるが、異世界水道事情はそうはいってられない。
下手すりゃ水が汚いとか、洗われた生野菜でお腹を壊しかねないとかそんなのがあるわけだ。
私は数回腹を壊しそうになった。刹那の直感で、サラダは食っちゃいけないと気付いた結果、そう言った危機を回避してばかりである。
培った野生の勘が非常にありがたい作用をしているといっても間違いにはならないだろう。
食堂の皆様は、何故私がサラダを食べないのかと不思議そうではあるものの、そもそも生野菜のサラダという物は鮮度が命、上級身分の人が温室で丁寧に育てた自慢の物を、人々に見せつける意味合いのある食べ物らしく、よく
「お前貧乏人だったんだな」
「煮込んだ物しか口に出来ないとか、本当にかなり……その……恵まれない生活だったんだな」
と食堂の先輩方に言われてばかりである。
そんな中でも、私はこの異世界から日本に帰るための手段を探しているのだが……これはなかなか難航する物だった。
乙ハタの探索班は、探知機ありきで異世界に飛んでいるので、探知機を作動させれば帰還が出来る。
だがその最初の条件である探知機を持っていない私は、一体どんな方法を使えば帰れるか不明なわけだ。
帰りたい、ものすごく。だってここで生活しても、日本の私の口座にお金は振り込まれないし、残業手当もつかないし、そのほか福利厚生はない。
おわかりだろうか、私の気持ちが。福利厚生は大事。そして日常生活が安心して過ごせる生活も大事。
……私は下働きの女の子部屋の一角をエバンズさんの好意で与えてもらって、同じ部屋に複数の女性が暮らすという生活であるわけだが……一人部屋の方が安心できる。プライバシーってもんがここにはない。前回の”パイ恋”世界でもらった、小さな小さな一人部屋の方が気持ち的に楽なのだ。
ここでは簡単に寝床の周りに、薄い、防音性の欠片も、遮光性の欠片も無い、カーテン一枚で私生活が区切られていて、日本のプライベートとかプライバシーとかが当たり前な人間にはきついものがある。
隣の女の子の生理事情なんて知りたくなかったし、……もっと言うと同室の女の子が、男を連れてコトに及んでいる時は無の表情をして真っ暗な天井を睨むわけだ。
いや、他の同室の女の子達にとって、それくらい何でも無いのだろう。
確か日本の江戸時代の遊郭、吉原だって、隣のついたての向こうの女郎のあんな声やこんな声で、自分の客が盛り上がるなんて話があったそうだから、この世界ではありふれているに違いなさそうだった。でなければ女の子達の平然とした調子が、おかしな事になる。
そもそもこの宿屋は女の子を斡旋するお宿で、私がその斡旋される女の子じゃ無いのは、私が貧相で規格外だからである。
皆大変にグラマラスボディでうらやましい。いや、小回りのきく身体は私が一番だから、うらやましがらなくてもいいかもしれない。
乙ハタ探索班は、行動力があってなんぼ、胸と尻が大きいから有利なわけではない。
……日本の掃除機みたいな言い訳だな。
そう思いながらも、私は何日かに一度は、同室の女の子達のそういう声を聞き、かなりの寝不足に陥っていた。
繊細なのではない。現代日本で生活して、そう言った声が日常的に聞こえる条件というのはあまりない。私が聞き慣れなくてつらいわけじゃ無い。皆つらいに違いない事なのである。私はその夜も、隣の女の子の艶っぽい声と、滾った男の声とぎっしぎし言う隣や向かいのベッドのきしむ音で、眠れない夜を過ごしていたのである。
いい加減にしろと切れられないのは、私が一番下っ端だからだ。こういう世界は年功序列も大きいが、上下関係もとっても厳しい。つまり先輩にたてついて生き延びる事は、なしなし尽くしの私には悪い手なのである。
「……」
眠たい。私は一睡もせず翌朝も眠たい目をこすって起き上がり、部屋の皆が顔を洗うための水を用意する係でもあるので、水瓶に井戸から水をくんで屋根裏部屋に上がっていく。とても重たい仕事だが、一番の下っ端がやる作業だ。
男性とそういう事をしてお金を稼がない以上、こんな下っ端の身分は永遠に続くに違いない。筋力が欲しい、マッスルパワー。筋肉は私を裏切らない。日本に戻ったらプロテインとかで筋肉を増やしたい物だ。プロテインだけでもだめだが、タンパク質が足りないのはよろしくないわけである。
私はえっちらおっちらと重たい水瓶を抱えて屋根裏部屋に上がり、皆の洗面器に水を入れていく……のだが……
そのたびに、男と同衾する同室の女の子達を見る羽目になる。心がすさみそうな光景だ。こんなのを見るのが日常になりたくない。
大事なところは上掛けで隠されているわけだが、それでも……見たい物じゃない。
しかし仕事は仕事なので、全員の洗面器に水を入れて、それから私は洗面器その他すら所持していないので、井戸に戻って顔を洗って髪の毛を梳いて、適当に縛り上げて身支度を調えなければならない。戸惑うかもしれないが、洗面器とかって自前なんだそうな。つまり自分で買い求めなければ手に入れられない道具で、備え付けじゃない。
私の寝床は数枚の布を木枠に乗せて、上掛けも一番ぼろなのは、皆のお下がり、要らない物を集めさせてもらった結果なのだ。あるだけまし。
幸いと言うべきか、ノミとシラミとダニよけの魔法は、お客さんを部屋でとる子も多いから、定期的に一緒にかけてもらえるので、そこで悩まなくて済む。あれは本当に精神的負担になるから、その事だけでも感謝したくなる。
……夜中にかゆみで目が覚めて、かきむしって皮膚がただれて……なんてこんな世界では悪夢以外の何でも無い。ステロイドはないのだ。
私はそう言った仕事の後に、食堂の火をつけて薪を用意し、食堂の掃除や生ゴミの始末をして、それからトイレのくみ取りを行う。
一番の下っ端は、一番汚れてくさい仕事をする。それはどこだって同じというわけだった。
今日も一日、忙しくて大変で、質素なご飯すら絶品の晩餐になる一日になる。
生きていられるからまし。怪我も病気も無くて最高。そう思っていなければやってられない一日が、過ぎていくはずだったのだ。
なんだか宿の近くの通りがバタバタしている。なんだろうと、芋の皮むき野菜の皮むき、あく取りに泥落としに鳥の羽をむしって内臓を取り出す……という仕事に追われていたのだが、食堂の先輩達が興奮気味に言っていた。
「総督の視察だ」
「今回はこの周辺の視察か」
「エバンズさんはうちが一番そういう宿の中で、上に支払っている金額が多いから、うちに絶対に来るって言ってた」
「やだ、総督が来るのにお化粧してない! 私お化粧してきていい?」
「あんた、仕事終わってないでしょ」
「えーん。あ、そうだ、マチ! あんた化粧しないよね! 昼休み交代して!」
先輩達がそう言っていた時に、給仕の女の先輩が、私にそう言ってきた。昼休みの交代は普通にある。限定の買い物に行きたい子とかが、昼の休憩の交代とかをするのは日常だ。
私は誰からも交代を頼まれるので、その日も素直に頷いた。
「いいですよ、私はそこの時計の針が頂点になったらだったんで」
「あと二分じゃん! お化粧できる! 一番綺麗な顔で総督に会えば、見初めてもらえるかも!」
声をかけてきた給仕の女の子が言うので、私は食堂の厨房に声を発した。
「料理長! 給仕のマレッテさんと昼休み交代します! マレッテさんいつから?」
「二時間後!」
「私二時間後に休憩に入りますね!」
「その間に魚とエビの下処理全部終わらせろよ!!」
「はい!」
エビの背わたをとるのは面倒なんだよな、と思いつつ、私は返事をして、その後も仕事を続けていた。
通りのざわめきは大きくなって、総督閣下が近付いてきている事を証明している。女の人の黄色い声がすごい。一体どれだけの色男なのだろう。
興味はあるが近付かないのが無難だ。この世界の事が何にもわからない以上、目立つマネは避けたい。
私は厨房でひたすら、エビと魚と鳥の処理を行い続けていたわけだが……ここで給仕のマレッテさんが、私と休憩を交代したために、人が足りなくなる問題が発生したのだ。
そのため。
「おい、マチ! お前パンと酒なら運べるだろう!! 手伝いに行け! もう魚もエビも終わったのを見たぞ!」
「え、ええ!!」
私は今すぐに給仕の女の子の制服である、ふりっふりエプロンを着て給仕をしろと、食堂の総括から言われたのだ。
「行ってこい!!」
「そこまで終わってりゃ大丈夫だ!」
「似合わないフリフリエプロンで頑張れよ!」
「そ、そんなあ」
この年でフリフリエプロンで、ノリノリで給仕が出来るわけ無いだろ……と思いつつも、皆さん私の年齢をわかってないので、しぶしぶ、ふりっふりエプロンを着用し、私は夕方になりつつある時間に、食堂の方に出て行ったのだった。
食堂は戦場で、厨房が戦場なのだからそりゃそうだ、と言う流れである。
給仕の女の子を気に入って、隣の席に座らせる人も多いわけで、そりゃ人間は足りない。実は皆ここでおいしいものをおごってもらう。夕飯を食べるというわけだ。
私は誰からも声をかけられないとわかっているので、せっせせっせと、どこのテーブルにも絶対に切らせない、パンと注文されたお酒を運んでいた。
チラリと見えた、一番女の子達が興味を引こうと頑張っているテーブルは、女の子達の影に隠れて、座っているだろう男性が見えない。
だが、そこが今日一番の上客に違いなかった。雰囲気からして多分金持ち。
見ない振り見ないふり。私はそこの席に回すパンとお酒は、群がる女の子に声をかけて、運んでもらい、その他を運んでいたのだが。
ふとした瞬間のあと、がたん、という音が響いたのだ。食堂は酒場も一緒くただから、酔っ払った人達の騒ぎ声でもうるさい位なのに、その音はびっくりするくらいに響いた。
そして、それまで火花を散らし、しのぎを削っていた女の子達の声が一斉に止まって、それから。
「……おい」
「邪魔! 私はこのパンを、そっちのパンを切らしたテーブルに運んで、それからこのお酒が冷えている間に向こうのテーブルに……」
「ずいぶんとまあ、のこのこと現れたなぁ?」
私は肩をつかまれて、振り向きざまに大声で文句を言い……相手の顔を認識して固まった。
うそ、なんで、いや、なんでだ!?
「え、ま、ちょ……」
私が固まって現状を認識できないで居ると、その肩を掴んでいた男が動いて……周りは大きくどよめいた。
その男の動きのせいで、こっちこちに固まった私から唇を離して、その男は切なげに目を細めてこう言った。
「探したぜ、世界の果てまで」
「きゃ、キャプテン・シン……」
女の子達が意識してもらうために、熾烈な争いをしていた相手は、何故か私を覚えているキャプテン・シンだったのだ。




