ダーツがチート級に上手い妹とダーツも気持ちも微妙な兄
「よしっ! 千二百点! ぱーふぇくとっ!」
小ぢんまりとしたバーで、千也が見たものは奇跡としか言えない光景だった。
ダーツ、イギリス発祥のスポーツで後にアメリカ人の手によって電子化しルールも差別化されたメンタルスポーツ。
妹である弥咲が投げるダーツ矢は、まるで磁力を持っているかのようにボードの中心、ブルズ・アイに吸い込まれていく。
それが一本きりだけではない、残りの二本も同じように吸い込まれるように入っていくのだ。何か仕掛けがあるのではないかと疑うほどに。
現在弥咲が遊んでいるルールはカウントアップ、ソフトダーツでは一人ぼっちの準備体操から友達同士の真剣勝負まで幅広い分野で用いられる競技ルールだ。ダーツ矢三本を一ラウンドとし、八ラウンドまでの合計得点を競う競技であり、弥咲はその八ラウンド全てを真ん中に当ててゲームを終えたのだ。
ダーツボードの詳しい点数は後程本文で説明するが、ボードの中心であるブルズ・アイは彼女の遊んでいるソフトダーツでは五十点と定められている。
三本入れば百五十点、それが八回で合計千二百点。賞金王に輝く世界的プロ選手でも簡単に出せる点数ではない。
千也は見たこともない妹の笑顔をただただ呆然と眺めていた。彼女の偉業を前に何も考えられずにいたのだ。
辛うじて考えられたのは、朝登校する際に見た締め切られたままのカーテンだけだった。
・・・
「それじゃ、行ってきます」
誰も居ない玄関に向かって外出の挨拶をする千也、これから学校へ向かい授業を受け、放課後には友達とじゃれ合い帰宅する、そんな平和だがどこか退屈するような日々を送っていた。こんな出だしでは、どこでも読んだことのあるような出だしだが、彼は高校生である以上致し方ない部分ではある。
強いて違いを挙げるとするならば、特別な力や能力を何も持たない、ただの優等生ということぐらいだ。
家のカギをかけ、学校へ向けて歩き出す。その一歩の後、彼は今日もカーテンが閉めっきりの部屋を眺めた、妹の弥咲の部屋である。
弥咲は人見知りが激しく内向的で、おまけに運もない。学校で質の悪いいじめを受け、教育委員会にまで報告が上がる事態にまでなったが、その成果が何も無かったのは彼女が不登校であることで示している。
一人でご飯の支度が出来るだろうか、一人で何をして過ごしているのだろうか、自殺してしまうのではないか、そう過度な心配をしながらも千也は踵を返して再び学校へと歩き出した。
こうして日々を過ごして何日が経っただろうか、少しでも気を抜けば妹をいじめから救うことが出来なかった不甲斐ない自分を責めてしまう。
やがていつもの親友と合流し、少し気が軽くなる。渋谷 光チャラチャラしててよく女の子をナンパしているが、妹のいじめ事件で教育委員会の役人を殴ってしまうほど落ちぶれてもずっとそばに居てくれる大切な親友だ。
「よっす。今日もみーちゃん来ないの?」
「来なかった、一応飯は置いといた」
「そっか、なぁ帰りによ、いい店見っけたんだ! 高校生OKのバーがあってさ! 寄っていこうぜ? な?」
そういうと、光は千也の肩を抱く。ワックスの香りが鼻孔をくすぐるが、このやり取りも慣れたものだ。
光と交友関係を築いてからはクラスの誰もかれもが千也を構わなくなった。だが千也は自分が犯した過ち、暴力事件を起こしてなお寄り添ってくれる光が居れば、友達関係については満足するような性格だった。狭く広く、それがモットーである。
「悪い、妹の世話がある。今週の日曜でどうだ?」
「仕方ねぇな。お前の大切な家族じゃ、仕方なねぇ」
やれやれと大げさにため息をつきながら離れる光。付き合いが悪いのは承知の上で誘ったのだがやはり断られるのは萎えるようだ。
そんな恩人を、千也は申し訳なく思いながら、二人は校舎へと入っていく。今日も退屈で、けど大切な一日が始まる。授業を終えて学校を後にし、光と別れて家へと戻り、いつも通り一日が終わっていく。
そのはずだった。
その日の深夜、偶々催した千也は、玄関が静かに閉まる音を耳にする。出し終えた彼は懐中電灯片手に一度玄関まで向かい電灯を点ける。すると不思議な事に弥咲の靴だけが忽然と消えていたのだ。
考えうる最悪の予感、不登校の鬱憤晴らしに援助交際、直ぐに止めなければ! 兄としての使命感を感じた千也は直ぐに身支度して戸締りをし、気持ちこそ目を炎にするほどの勢いで飛び出したかったが、長い間コミュニケーションを取っていなかった為弥咲との距離感が解らずにいた彼はこっそりと後を追う事にしたのだった。
「おにーちゃんは援助交際なんて絶対許しませんからね!」
そんな彼の誤解が、彼の日常を壊すのにさほどの時間はかからなかった。
あくまで自然に歩き妹に気づかれないようにする、意識すると逆に怪しまれるものだ。
絶対にしっぽを掴んで円光オヤジの鼻面をぶち抜いてやると息巻いていると、彼の懸念通り妹の弥咲は妖しい光に満ち溢れた繁華街の中へと消えていく。その久しぶりに見る容姿は随分と伸びた黒髪と、冬場らしい服装である白いポンチョコートを羽織っていた。
昼間は主婦の生活基盤、夜は大人の遊び場として定番のスポットとなっているのだ。予感が的中した! そう勝手に思ったらもう体が走っていた。
「おっぱいいかがっすか?」
「結構です」
ポン引き声を掛けられてもスルー。強かに歩く弥咲はそのまま角を曲がる。
一方。
「おっぱいいかがっすか?」
すっかり頭に血が上っていた千也はそのポン引きの胸倉をつかんでしまう。
「ちょ、何すんだこの野郎!」
「それはこっちのセリフだ! 俺の妹をソープかなんかに斡旋してんじゃねえだろうな?」
「人を馬鹿にすんのも大概にしろ! あんなチビ、誰が手出すかよ!」
「言う事に事欠いてチビだとぉ?」
千也が騒いだ為か、少し柄のよろしくないお兄さんたちが集まってくる。が、今は妹の事が一番だ。
ポン引きを叩きつけるように投げると、そのまま走って妹の後を追いかけようする。
「ウチのシマで暴れてタダで済むと」
だが、少し柄のよろしくないお兄さんたちがその行く手を阻んでくる。それでも怖気づく事なく千也は一人のお兄さんにストレートを食らわせ、そのまま背負い投げでまとめてゴミ捨て場へと叩きつける。
「ふぅ……急がないと」
目を回して気絶しているお兄さんたちとポン引きを尻目に、彼は妹が入っていったバーの扉を開けた。
「弥咲っ!」
一際大きな叫び声が店内に響き、それまで賑やかだった店内がしん、と静まり返る。
「っ、お、おにいちゅん?」
突然の来訪で思わず噛んでしまった弥咲、その姿はこれからセックスする為の興奮剤となる学校の制服ではなく、スポーツ選手が着る様なスポンサー名が書かれたショッキングピンクを基調としたユニフォーム。
さらに利き手である右手にはサポーターまでつけてストレッチを行っていたのだから千也も面食らってしまう。
それでも、そういうプレイなのかもしれないという誤解からずんずんと歩き店内へ入っていくと、その華奢な肩を掴む。
「大丈夫か!? 何もされていないか!?」
「何も……されてない、邪魔」
兄の心配を無碍に振り払い、店に居る客やバーテンダーに頭を下げて回る。
「も、申し訳ございません、家の兄が失礼しました」
「いや良いよ、突然大声出すから何かと思ったけど、弥咲ちゃんお兄ちゃん居たんだ」
さすがは紳士の社交場、本来は追い出される事を平然とやった人間相手でも他の客は話題にしてしまう。
「はい、あまり言わなかっただけです。マスターもごめんなさい」
「いや、良いんだ。こんなに心配している家族が居るようで、寧ろホッとしている」
マスターと呼ばれた男性は三十代半ばといったところか、服装はラフでシャツにジーパン、腰にエプロンを巻いている。
バーのマスターというとタキシードのような服装を連想しがちだが、店によってはまちまちなようだ。
何もかもが初めて尽くしの異空間に入ってしまった千也はある意味最大のピンチを迎える。財布を持ってきていないのだ。さらにぶん殴った柄のよろしくないお兄さんたちが脳裏を過る。
「マスター、チャージ込みでミルクティー、そこのクソ兄貴に」
「家族なんだからもっと労わった呼び方しなよ」
まるでマスターとの方が本物の家族なのではと錯覚してしまう自然なやり取りに呆然としていると、テーブルの上にミルクティーが置かれる。
「寒いだろう、入ってゆっくりしていくと良い、ついでに君はもう少し妹の事を知る必要がありそうだ」
マスターは薄ら笑いを浮かべ、グラスを磨き始めた。
「はぁ、いただきます」
そうするしか選択肢は無い。そう感じた千也はダッフルコートをハンガーにかけて席に座りアツアツのミルクティーを啜る。
冷えた体にしみこむ温かみがありがたかった。ここでやっと冷静になった彼はマスターの言う妹の事を知る必要があるというセリフが引っかかっていた。
だがそれは直ぐに解決することになる。
「んじゃ、カウントアップやっていいです?」
「良いよ、温まったら俺と勝負してくれ」
「いや俺が先だぞ!」
「お前レーティング低いじゃねえか!」
「レーティングで差別すんなよ!」
「じゃんけんで決めてください!」
口喧嘩でヒートアップし始めた二人を制したのは、あの不登校で引きこもりだった弥咲だった。
意外な一面に面食らっている内に、弥咲はコインスロットに百円玉硬貨を一枚投入し、機械を操作する。
その所作の一つ一つが、物の一つ一つが千也にとって意味不明だった。見えるのは蜘蛛の巣のように見える円盤、五つのボタン、そして数字の書かれた液晶ディスプレイ。
COUNT-UP GAME ON!
三台ある内の、弥咲が操作した台の画面にはそんな文面が表示された後、ゼロ点を画面が示す。
「すぅ……はぁ……よし」
軽く深呼吸し、テーブルに置いてある三本の矢を掴み構える。
その構えは華奢な弥咲のラインをさらに協調させるほど、美しい以外の言葉が見つからなかった。
矢を構え、腕を手前にパタンと倒した瞬間の事。
パシューン!
いつの間にか矢が放たれ、ボードの中心を捉えていた。
正確には中心の一部ではあるが、五十点入っているので中心に入っている事には変わりない。
パシューン!
二投目、ほぼ同位置に矢が刺さる、もうこの段階で千也は再び混乱し始めているのだが、周りの客は特に気にする事無く和気あいあいとダーツを楽しんでいる。
何なのだこれは、どうすればいいのか? とりあえずミルクティーを飲み落ち着こうと試みた時の事だった。
ドシュ!
三本目は真ん中のさらに真ん中、ダブル・ブルと呼ばれる黒い部分に矢が刺さる。
HAT TRICK!
豪華な演出にシルクハットが画面内で踊ると、そう文字が表示され、次のラウンドへと進む。
(サッカーのハットトリックは知ってるけど、このゲームにもハットトリックってあるんだな)
危うく吹き出しかけた千也はぐっと飲み干し表情一つ変えない妹の様子を伺う。
「お兄さんダーツ知らないの?」
そんな時、マスターが声をかけてきた。勿論知らないと答え、どういう競技なのか一通りの説明を受ける。
本来は持ち点数を減らす競技であり、それをゼロワンゲームと呼ぶ。矢が刺さった位置がそのまま得点として差し引かれ、最終的にゼロ点ピッタリに点を得る事が目的のゲームだそうだ。
また、蜘蛛の巣の模様にもきちんと意味があり、外側の円は数字の二倍であるダブル、内側の小さな円は三倍であるトリプルの点数が加点される。因みに中心であるブルズ・アイは赤と黒で色分けされているが、特別な事情が無ければ基本的には五十点固定である。
例えば三本投げた結果が一、ダブル二十、トリプル十三となった場合、合計点は八十点引かれる事となる。これを規定ラウンド内で繰り返してピッタリゼロにするのが目的だ。
補足的な説明として、ピッタリゼロにする事を双六と同じようにあがると言われ、またあがる為にはダブルでなければならない特殊ルール等も存在するシンプルながらも奥が深いスポーツなのである。
そうマスターの簡単だが奥の深い説明を受けている内に気づけば弥咲は最終ラウンドまで全てブルズ・アイを射抜いていた。あっけなく、あっさりと、いつもの事のように。
だがここで少し弥咲の表情が強張る。どうやらここまで真ん中に当て続けたのは初めての事らしい。その緊張は素人目から見ても明らかにわかる。
「大丈夫。なんてことない。いじめられてた頃に比べればこれぐらい」
カクテルパーティー現象だろうか?がやがやとうるさい店内でその透き通った弥咲の声が千也の耳をかすめていく。
その言葉が千也の胸にズキリと響く。守ってやれなかった事が今でも苦い記憶として残っている事だったが、目の前に居る自分の可愛い妹は想像以上に強かになっていた様子だった。
THREE IN THE BLACK!
何一つ変わらない美しい所作、投げた後の指先までもが彫刻で作られた芸術品のようなフォームで投げられた三本の矢は全て黒いブルズ・アイへと吸い込まれていった。
「よしっ! 千二百点! ぱーふぇくとっ!」
突然可愛らしい声が店内に響き渡る。その声に反応した他の客も可愛い弥咲よりも画面を見て仰天している様子であった。
「か、カウントアップ千二百マジかよ!」
「ランキング見て指押しだと思ってましたごめんなさい」
「サインください」
それまで自分の勝負でいっぱいいっぱいだった他の客たちが、自分達の真剣勝負を捨ててまで妹を祝う。
「あの、ダーツって良いスポーツなんですね」
「そうだ、どんな分野でも言える事だが、自分より凄い事をやってのけると年齢関係なく尊敬するもんだ。お前の妹がどうしてダーツを始めたか、教えてやろうか?」
「ええ、聞かせてください。きっとあいつからは聞けないと思うんで」
「嫌われてるな」
マスターは鼻で笑うと、千也の隣へと座る。
「吸って平気かな?」
煙草の事を聞かれ、千也ははいと答える。そもそも他の客が吸いに吸っている物を今更無理ですと言うのはおかしい話である。
火をつけて一服つけているのを千也はぼんやりと眺める。愛煙家が吸ってから喋るまで少し時間がかかるのは光の奴が吸っているので良く知っている。だから妹の事について聞きたいという逸る気持ちを抑える事が出来た。
その間が少し暇だった。だから彼は妹の様子を見る事にする、すると既に他の客とのゼロワンゲームが始まっており、先ほど千也が柄のよろしくないお兄さんたちをぼこぼこにしたように他の客をダーツでぼこぼこにし始める。
その姿を唖然と眺めていると、マスターはゆっくりと口を開き始めた。
「実はな、その子、偶然ウチの店に来たんだよ。夜の街を歩いてみたいっていう好奇心からナンパに絡まれて走って走ってこの店に来た。俺は一目見てその子が居場所のない子だっていうのを察した」
「っ」
また胸がズキリと痛む。家庭でさえ碌な居場所を与えてやれてない最低な自分だと責め始める千也の事を知らぬか、マスターは二本目を吸い始めながらまたゆっくりと口を開く。
「だからダーツって居場所を与えた。最初はボードにすら届かなかった。けど色んな連中が、色んな事を教えていくうちに、めきめきと成長していった。八割がたな」
「八割!? あれでですか?」
「ああ、勘違いされるんだ、人間いつもベストが出せるっていう錯覚っていうの。気持ちも実力も乱高下が激しかったよ。今はだいぶ落ち着いているみたいだけどな」
煙草で灰皿を叩き、灰を落とし続きを話す。
「そして今お前の妹はかつてない挑戦に挑もうとしている」
「挑戦……ですか?」
「あぁ、今度プロをウチの店に呼ぶ事になってな、そのプロがお前の妹の事が気になるっていうんだ」
プロが目をつけるほどの実力。想像を絶する世界に思わず生唾を飲み込んでしまう。そんな事はお構いなしにマスターは日付を告げた。
「日付は来週の日曜だ、お前も応援に来いよ、ああツンケンしてるけど、来てくれてうれしいってのが良く分かる」
マスターはそう言うと席を立ち、他の客のオーダーを受けてカクテルを作り始める。その所作は情熱的で激しかった。恐らくダーツもそういうスタイルなのかもしれない。
勝手な想像を膨らませながら、千也は再び妹の方へと向いてみると、素人目から見たら思わず引いてしまうほど上手い客を次々と薙ぎ倒していく無敗伝説を打ち立てていく妹の姿がそこにあった。
・・・
「なぁ」
「何」
バーが閉店時間を迎え、二人並んで帰る途中、先に口を出したのは千也の方だった。
「お前があんなにすごい奴だったなんて思わなかった、誤解してごめん」
「あんなの普通。プロはもっとすごい」
そっけなくツンケンとしているが、その心は複雑なようで、兄との距離感が測りかねている様子だった。
「お前、そのすごいのに目をつけられて戦う事になるんだってな。プレッシャーとか、感じないのか?」
「感じるよ。でも、寧ろいい機会だと思ってる」
どういう心境の変化か、素直に答える。恐らく好きな事を話題にしているから話しやすいのだろうか? 千也は勝手にそう思っていると、どうしてそう思うんだ? と再び質問を繰り返す。
「その人、星谷 雄一っていうんだ。一度戦ったことがある。あたりまえだけど惨敗だったよ。その時は今みたいに自信なんて無かったし、始めたばかりだったから。でもその人は私を見てくれた。強くなってまた戦ってくれって言ってくれた。それが私の励みになった。毎晩兄貴に内緒で外出てたの、父さんと母さんには内緒にしてね」
「解ってる。それとお願いがあるんだけど、俺にもダーツ教えてくれないか?」
「いいよ、兄貴も直ぐハマるから」
そう言って向けた顔には、カウントアップで千二百点を出した時と同じような笑顔だった。
・・・
「なんだよー、せっかく穴場だと思ってたのによーちぇー」
不貞腐れながら煙草をふかすのは親友の光、そして真冬だというのに半袖でいる千也。
目の前に居るのは今回のコーチになってくれる妹の弥咲。いつものユニフォームを着て、そっけない表情を浮かべながらストレッチをしている。今日は例のプロ、星谷 雄一がやってくる日であり、既に数人が練習に励んでいる。
千也達も特別に店に入れてもらい、練習する事になったのだ。千也に至っては矢に触ったことすらない初心者、マスターも計らってくれたのだろう。
「なぁ弥咲、ダーツってただ投げるだけだろ? なんでそこまで入念にストレッチすんだ?」
千也はずっと疑問に思っていたことを口にする。するとコーチとしての自覚からか厳しい口調の返事が返ってくる。
「兄貴たちはボールを投げる感覚で来てるでしょ、それと一緒よ。まともなスローには入念な準備が要るの。それにイップス対策もあるしね」
「あ、オレオレイップス知ってるよみーちゃん! 科学的には解明されてないけど、緊張や不安、体のコンディション異常でダーツが投げられなくなる現象の事だろ!」
「光さんの言う通り、ちょっとしたきっかけで一気にダーツが投げられなくなる。私はそれを味わってトラウマになってるの。ほら兄貴もアキレス健伸ばして」
「へいへい」
まやかしなんじゃないかと思いながらも、ストレッチに励む千也、だが現に実妹がそうやって高得点を出したのだから、今は信じる他ない。
ストレッチが終わると今度は投げ方を教わる、一方の光は先に投げてると練習を始めていた。
意外な事に、光もダーツをやっている上、弥咲の足元には及ばないがそこそこの実力を持っているというのがショックな千也だった。
「んじゃまずスタンス、立ち方ね。三種類あるけど、私はボードに対してまっすぐに肩から腕を伸ばせるサイドスタンスにしているわ」
言いながらそのサイドスタンスと言われるポーズを取らされる千也、一方の光はボードに対して真正面に立つフロントスタンスを取っている。弥咲曰くスタンスに絶対は無いらしく、毎回同じスタンスを取れるのであればある程度は何でもいいらしい。結構アバウトなようだ。
「そう、因みにスローラインは踏んでもいいけど超えちゃダメ、あと矢を落としちゃった場合も、スローラインの向こう側に落としたら投げたってカウントされるから気を付けて」
「結構厳しいな」
「直ぐ慣れる」
年頃の兄妹特有のそっけないやり取りを経て、いよいよスローイングに入る。
「今回はこのハウスダーツを使うわ。まぁ兄貴が本気でやるってならバレルを買う事をお勧めするけど、結構お高いから気を付けてよ」
「投げてから考える」
そう言いながら、弥咲はハウスダーツの重心を教えて鉛筆を握らせるように持たせると、自分の見よう見まねでいいから投げてみろといきなり無理難題を言い始める。
「いきなり教えんの放棄すんのかよ」
「違うわよ、後で説明するから投げなさい」
「解ったよ」
どこか納得いかないような表情を浮かべながらも、試しに投げてみる。
一投目は外側へと逸れていき、二投目は中心部のアウトゾーンへと弾かれ、三投目に至ってはボードにすら届いていない。
「兄貴手を放すのが遅い。遅れるほどダーツは下へ行く、覚えて」
たったの三本、しかも横から見ているだけでどうすべきかをアドバイスできるのは流石といったところか。
「因みに光さんは矢を上に向ける癖をつけてください。鉛筆持ちならだいぶ変わると思いますよ」
「そう? お」
言われた通りに投げた光は矢の起動が安定し、三本中二本がブルズ・アイへと命中した。
「それをしばらく練習してみてください」
「ありがとうみーちゃん、頼んでないのに教えてくれて」
「いえ、偶然光さんが投げる瞬間が見えたんでついでです」
ダーツの事になると人が変わったように社交性が増す、引きこもりとは思えないほど堂々とした態度に混乱しつつも、千也は気を取り直して何度か投げなおしてみる。
「よし、せっかくだし、おれみーちゃんと対戦したい!」
やっとの思いでボードに向かって矢を投げる千也を尻目に、光は弥咲に勝負を挑む。
「良いですよ、ハンデは?」
「ハンデありでオナシャス!」
「はい」
ハンデ、そういうのもあるのか、と感心しながら千也は当てるので精いっぱいの矢を投げ続ける。
「あと兄貴、当らないからって野球投げしたらぶっ殺すから」
「そういう物騒な言い方やめなさい!」
・・・
「よーし光っち張り切っちゃうぞ!」
「よろしくお願いします、光さん」
友達の妹とは言え、かわいい子とダーツが出来る嬉しさから張り切ってる光とは対照的に、いつも通りの冷静さで矢を握る弥咲。
最初は先行決め、機械の指示に従ってどちらが先に投げて、よりブルズ・アイに近い方が先行という少しややこしい先行権の決め方である。
機械が決めた先行は光、普段以上に慎重に構え……投げる。
「よし! これ先行貰ったっしょ」
刺さったのはインナーブルと呼ばれるブルズ・アイのさらに内側である。ほとんどの場合はこの段階で先行は光が取ったも同然の状態だったが、弥咲は特に動じる事もなく好物のコーラを飲んだ後構える。
そして、刺さった場所はセンタービット、インナーブルの真ん中にある穴の事である。
真ん中の真ん中、ど真ん中とは、ダーツの為にある言葉なのかもしれない。
「ウェーイセンター頂きましたー」
「ウェーイお願いしまーす」
「よろしくお願いします」
センタービットで先行を取られた光はテンション高く叫んだあとにあいさつと共に互いにグータッチを交わし、ゼロワンゲームが始まる。
お互いに七百一点を持った状態からスタートし、これをピッタリゼロにすれば勝ち、つまり先行有利であるが、基本的にどの競技でも先行が有利であるのは世の常なのかもしれない。
当然のようにハットトリック(三本ブルズ・アイ)でラウンドを終える。
「当たり前のようにハット出すね……」
先ほどのテンションから一変、光は苦笑いしながら自分の順番を迎える。
ブルズ・アイ、シングル六、ブルズ・アイの合計百六点
LOW TON
機械の駆動音と共に演出が入り、その後弥咲へと順番が変わる。
ROUND 2
画面にはそう表示されているが、やる事は変わらない。
矢を投げ、点を減らし、次へ進む。
兎に角ストイックなスポーツであり、繊細な一面も持ち合わせている。光の一投目を思い出してほしい、あのシングル六はブルズ・アイの丁度真横に入っていたのだ。
もしそのシングル六が数ミリズレてブルズ・アイに入っていたら、弥咲の後を追う事が出来たのである。
スローラインから数ミリのズレが、ボードという結果で数センチのズレを産む。他のスポーツに引けを取らないほどのシビアさを誇っているのである。
一方、矢がボードに刺さり始めてはいるが、ボードの半分から上へと当てる事が出来ずモヤモヤした感情を抱えていた。
放すのが遅いと、矢は下へ向く。千也はある事に気づく。
(そうか、だったら手を放すタイミングを速めればいいのか?)
と、さっそく彼は気づいた事を試してみたが、結果はボードに届かず、寧ろ最初に投げた一本目より飛距離が短いという残念な結果になってしまった。
「……なぜだ」
「兄貴が考えてることは投げ方見てわかったわ。でもそれはちょっと違うかな。せっかく形になってきたのを自分で崩しちゃってる」
いつの間にか光が瞬殺されており、別の客との対戦を約束しつつあった弥咲は、悩む兄に対してそうアドバイスする。
「そういう場合は肘を少し上げて、刺さるときの力加減で投げてみ」
言われつつ、構えさせられ、肘と手を弥咲によって動かされる。
その状態をキープしつつ、弥咲が手を放したのをきっかけにスローイングする。
すると、一番狙いたかったトリプル二十にこそ外れてしまったが、上部を捉える事に成功した。
「ね、狙う個所に応じて応用するの。でも投げ方は変えない。兄貴飲み込み早いじゃん」
「おう、これでもスポーツは得意でね」
「でも、あまり狙い過ぎない方がいいよ、それじゃ私、お客さん待たせてるから」
最後に意味深な言葉を残し、弥咲は他の客の元へと行ってしまう。狙い過ぎない方がいい? その言葉の意味はまだこの時の千也は理解できていなかった。
「狙いすぎるなって……狙わなきゃ、当てられないじゃん」
ぶーたれながら再びスローイングする。ハウスダーツの為不安定な飛びでハラハラさせられるが、どうにか内側シングル一を捉えることが出来た。
だが彼が狙っているのは二十、やはり納得がいかないようで、矢を三本抜いてから他の客へ台を譲る。
「意味解んねーよ、狙いすぎるなって……」
「どうだ、矛盾だらけの世界は」
煙草を咥えたマスターが、悩みながらカウンター席に座る千也を見て声をかける。
千也は五百円玉を取り出すと、それをマスターへ手渡しコーラを注文する。
「狙えば狙うほど、狙った位置から離れ、意識すればするほど望まぬ結果を産む。ダーツとはそういう捻くれたスポーツだ」
「捻くれ過ぎて着いていけないよ」
出されたコーラについているストローでグラスの液体を啜っていると、いつの間にか時計は午後の七時を指していた。
星谷 雄一というプロ選手がやってくると言われる時間だ。
すると、店の空気が一瞬凍りつく。バーの扉が開かれ、鋭い目つきに整えられた髭の男性が入店してきた。
衣服は羽織っていたダウンコートを脱ぎハンガーを掛けると、弥咲が着ているのと同じ様々なスポンサーロゴの入ったユニフォームを身に着けていた。
しかし、ショッキングピンクを基調とした弥咲とは違い、黒を基調とし、弥咲よりもスポンサー数を持っているのかユニフォームに入りきらないほどのメーカーロゴが羅列されていた。
それは王者の証、強者の証、そして壮絶な人生経験を積んで来た者の証でもあった。
勝利の美酒に酔う日も在れば、砂利を噛みしめる思いをした日々もあったであろうその風貌は、近づくどころか見る事さえ躊躇ってしまう。
しかし、彼を呼んだマスターは臆する事無く声をかけ、準備を進める。
「本日はありがとうございます、しかも二度目。快諾してくれたのはやはり……」
「ええ、弥咲さんの存在です。彼女は絶対に強くなる。僕以上に……」
そういいながら、弥咲の方を見る。その弥咲からはプロのオーラを感じてか少し顔が強張っていた。
「それではみなさん、本日はプロ来店イベントへお越しいただきありがとうございます。終電組優先で整理券配ってくんでサクサク進めていきましょうその前にサイン会ですかね」
マスターは弥咲と違い接客業の態度でその場を取り仕切る。古くからの付き合いの客曰く様々なプロとつながりを持っているらしいという噂があると千也は聞かされ驚愕する。
「……マジかよ、ヤバいクラスがそんなに!?」
ライオンを連想するようなオーラを前に、すっかり呆然としてしまう千也と光、その様はライオンに追い詰められた哀れな獲物。
だがその獲物達の中でも燦然と反撃する機会を伺う窮鼠がいた。弥咲である。
(ヤバい……アガってきた)
弥咲はサイン会を経て握手をした後、今日はよろしくお願いします、と一声かけ、こちらこそ、と雄一は返事を出す。
その瞬間、ピンクの炎と赤い炎がぶつかり合ったような錯覚が千也には見える。
一方の光は、憧れていたプロからしてもらったサインにすっかりご満悦だった。
「これはもう一生モンの宝だ!」
「俺も一応貰っとくか」
「馬鹿! そんなヌルい覚悟でサイン貰おうとすんじゃねぇ! みーちゃんと握手した瞬間お前変な顔してたぞ! 相応の覚悟をキメろ!」
炎がぶつかり合う瞬間を捉えていた千也は自分の表情などこれっぽっちも気にしていなかった。だが光にそこまで言われるとなると相当動揺していたのだろう。
やがてサイン会は滞りなく終了し、いよいよメインイベントであるプロとの試合が始まる。
先行もゲームも全て参加者が決める形でスタートする。当たり前というのは変な話かもしれないが、雄一は賞金王に輝くほどの精密な命中精度を誇っているのだ。彼をあえて不利にすることでフェアを保とうという趣旨である。
賞金王と闘って負けた事を名誉にする者も居れば、これを機に自分を見つめなおす者も出てくるだろう。勿論弥咲は後者である。
・・・
ゲームは終電組から始まる事となった。あまり遅くなると電車に乗れず帰れなくなってしまうからという現実味のある事情から優先させてもらった結果である。
だがそんな心配は杞憂になるほど、雄一は強かった。ハンデありのゼロワンゲームも、ルールを後述するクリケットゲームも全て十ラウンド以内に終わってしまうのだ。
普通は十ラウンド以上かかり、勝敗は決するもの。これがプロとアマ以下の絶対的な差である。
そしてとうとう弥咲の番が回ってくる。
「ゲームはクリケットで」
「ハンデは?」
「無し」
そのそっけない返事に会場はどよめく。ホームとはいえプロ相手にノーハンデで喧嘩を売るのだ、どよめかないはずがない。
STANDARD CRICKET GAME ON!
モニターに表記された後、千也が見たこともないような表示が現れる。
上から二十~十五、そしてブルズ・アイ。これだけの情報では、ダーツを始めたばかりの千也にはさっぱりである。
すると、横で見ていた光が千也にルールを説明し始めた。
これは特定の領域を用いた陣取り合戦であり、陣を取得した上で高い点数を獲得した者が勝者となる先行絶対有利なゲームである。
陣の取得方法は単純で、同じ場所に三本命中させれば、ラウンド数問わず自陣に出来、更に命中させる事で加点することになる。
加点を取るか、相手を妨害するか、戦術を練りながらゼロワンゲームのような平常心で投げなければならない上級者向けのゲームと言えよう。
因みに何故先行が絶対有利なのか、好きな陣を狙え、そのまま加点も出来るからである。ダブルに命中すれば二本命中した事になり、トリプルに至ってはそのまま陣地として取得する事が出来るだけでなく、陣地にしていればそのまま三倍の点数が入るのだ。
この場合、弥咲が狙うべきはトリプル二十を二回、トリプル十九が碇石であろう。人によってはそのまま加点を行う場合も在るが十九は後攻が二十とまともに戦える唯一の陣地なので、そこを抑えて精神的なプレッシャーを与えるという狙いもあるのだ。
先行をもらった弥咲、周囲が固唾を飲んで見守る中、彼女はセットアップを図る。
構え、引き、飛ばすように投げる。女性の憧れである美の縮図がそこに存在していた。
放たれた一本目はトリプル二十を捉え、彼女の陣地となる。もし陣地獲得となった場合、手番が回ったプレイヤーはその陣地へ三本入れる事でその陣地を無効にすることが出来、これをカットまたはクローズと呼ぶ。
クローズされた陣地からは一切の点数が取れなくなる為、どのタイミングでこのカットを行うかが重要になってくる。
だが最初の一投目で、高得点の二十を陣地にした弥咲にはまだ二本も矢が残されている。大抵のプレイヤーは委縮してしまう状況だ。
更に弥咲はダメ出しにともう一本トリプル二十を入れ六十点獲得。さらに十九のトリプルを取り、手番を負える。
画面には陣を取った証である円に×マークがついたマークが三つ並ぶ、これをナインマークアワードと呼ぶ。
「絶好調じゃん、プロはこれ以上なのか?」
「お前みーちゃん応援してんのわかるけど、プロ馬鹿に出来る立場か? 見てなよ、必ずどこかで先行と後攻が逆転する」
灰皿へ吸殻をつぶしながら、光は真剣な眼差しで試合を見守る。
プロの手番。大会とは違う雰囲気と、やはり女の子が相手とあってやる気が出たのか、いきなり弥咲の陣地を潰しにかかり、さらに十九も潰し、現状高得点を狙える十八も抑える。
WHITE HORSE!
「な、なにあれ」
「ホワイトホースだ、陣地になっていない場所のトリプルを別々に抑えるアワード。個別のターゲットを狙うっていうのはそれなりの技術が要るってことだ、雄一プロはこんな窮地でも余裕で戦っている」
光の言う通り、雄一は試合前にテキーラを六ショットも飲んでいるのに一ラウンド目はこの結果である。さらに七ショット目を飲み干し、カットライムを笑顔で齧る。
これがプロの、王者の余裕というものなのだろうか。千也はあまりにも人間離れした所業にただただボードを見つめる事しか出来ずにいた。
しかし、闘志の炎を燃やし続ける女の子が居た。弥咲は陣地をクローズされても臆する事無く今度はやり返しと言わんばかりの勢いで十八を狙いに行く。
が……二本しか入らない痛恨のミス、このミスが後に悪夢となり弥咲へと襲い掛かってくる。
まるで人類が歩行するように、生物が呼吸するように、雄一から放たれた矢は十八トリプルを三本全て捉え、点数を逆転させる。
THREE IN THE BED!
現在第二ラウンド時点での得点、弥咲は六十点、雄一は百六十二、一本のミスであっさりと先手と後手が入れ替わる。
絶望的な点差の中、弥咲は躍起になって果敢に反撃を試みる。
トリプル十七二回、シングル十八クローズ。
このビッグラウンド、加点を加えつつ雄一の陣をカットするという異常事態に会場は熱気と興奮のるつぼと化すが、弥咲だけは氷河期の真っ只中に取り残されていた。
百十一対百六十二、クリケットのルールが理解出来た読者ならば次にプロが狙う場所がどこだかは想像が着くだろう。
トリプル十六、トリプル十七、トリプル十五。
「おぉ~今日調子いいぞ俺! いつもこんなんだったらいいんだけどな! はっはっは」
八ショット目のテキーラを飲み、カットライムを齧って上機嫌に言う雄一。プロの名は伊達ではない。
その時、呆然としていた、もう勝つ見込みがないとふさぎ込んでいた千也は、妹も自分と同じようにくじけてしまっているのではないかとその様子を見る。
しかし、この期に及んで未だ勝つ気でいる妹に、思わず自分の心に喝を入れてしまう。それと同時に素人ながら千也はある事に気づいた。
そう、ブルズ・アイがまだ残っている。十六と十五も抑えられ、十七からは加点不可、だが十六、十五共にブルズ・アイの点数には届かないのだ。
まずシングルの点数、二十五点も取れる、これはゲーム後半で取るシングルの点数にしては最高で、ここを如何に当て続けるかが勝利へのカギとなる。
ではなぜ最初からこのブルズ・アイを取らないのか、それは単純にトリプル二十の方が点数が高いからである。上から順に処理するようにゲームは進行していくのだ。
「大丈夫だよ兄貴、いや、お兄ちゃん!」
順番が弥咲へと回ってきた時、突然弥咲は兄貴と呼んでいたのを幼稚園生の頃に読んでいたお兄ちゃん呼びへと変わっていた。
「い、いきなりどうしたんだよ」
呼び方が突然変わった事に驚いた千也を尻目に、弥咲は今まで兄に抱えていた気持ちを短く吐露する。
「お兄ちゃんが私を守ろうとしてくれた事のお礼、この三本に託すよ!」
周囲にとっては意味不明な発言を経てセットアップへと移った為辺りに緊張が走る。
この状況で勝つにはブルズ・アイを狙い続け、かつ相手が外すのを祈るしかない。
そんな誰もが諦めるような状況で、彼女は構え、投げた。
ダブルブル、ダブルブル、ダブルブル。
THREE IN THE BLACK!
ここにきて七十五点の加点、三ラウンド目で見せた弥咲の想いは途切れない。
ここで勝って、いじめから守ってくれた兄に素直になってお礼を言うんだ!
その想いが三本の矢に乗り、全て漆黒の瞳に吸い込まれていく。これにはさすがの雄一も動揺する。
「やばっ、普通なら誰もが諦めるこの状況でこれか! やっぱ俺の見込んだ通り、強くなったな!そうこなくちゃ!」
弥咲のプレーを称賛するとともに自らを奮い立たせ、自分の手番に備える。だが、ここに来てプロは致命的な失敗を犯している。
それは気分の高揚。ダーツはメンタルスポーツ故常に感情が一定でなければ失敗するリスクが常に存在する。一定に出来ず投げる事が出来なくなり引退する選手もいるほどだ。
そしてその高揚は狙ったはずのトリプル十六を外し、シングルの十六へと刺さる。
残り二本はトリプルへと刺さるが、この一本が弥咲に反撃のチャンスを与える事となる。
三ラウンド現在、弥咲は百八十五、雄一は二百七十四。弥咲不利の綱渡りな攻防の中で迎えた四ラウンド目、ついにゲームが動き出す。
構え、投げた先はブルズ・アイではなく十六トリプル。見事命中させクローズさせる。これで取れる最高点は弥咲五十点、雄一は四十五点と三点も減らされてしまった。
この三点が後に大きな影響を与える事となる。
「ふぅ……」
まだやる事は残っている、このまま泥沼のブル対十五対決へ持ち込み精神を疲弊させる。
プロ相手に心理戦を挑む弥咲、いじめを受け続けた彼女、時にカッターナイフを突きつけられ命の危機に瀕した経験がここで彼女に奇跡を起こす。
ダブルブル、二回。
プロの試合でも滅多にあり得ないインナーブルへの打ち込みにギャラリーは大きく沸き、光は呆然とする千也にグータッチを繰り返す。
しかし、先手後手がひっくり返っただけでゲームが終わったわけではない。ここからが本当の地獄である。
さすがの雄一も硬い表情を見せ、真剣な表情で標的である十五を狙う。
現在の弥咲の点数は二百八十五点、この状況でゲームを終わらせるためには、十五一回とブルズ・アイをシングル・ダブルと三回入れて逃げ切る必要がある。
そんな事、正気の沙汰ではない、だが修羅場を潜り抜けてきたプロの意地はこんな小さな少女に砕かれるほど脆くは無い。
トリプル十五、現在総合計点三百十九、逆転である。
あとはシングルブル、ダブルブルかダブルブル二回入れれば雄一の勝ちである。
(こんなに白熱した試合になるとは……)
プロ人生を経て、経験したことのない試合に、思わず熱くなる自分を抑え構える。
何時も居れている、何時でも入れられるブルが妙に狭く小さく感じる、だが彼は迷わずに投げた。
パシューン!
シングルの音、これで残された道は細く険しいダブルブルのみとなった。
それでも彼は迷わずに投げた。
パシューン!
無常に響くシングルの音、失敗、プロ人生で歩んできた挫折を、まさかこんな場末のダーツバーで味わう羽目になるとは思わなかった。
だがまだ未来はある。同じ綱渡りをしている弥咲が逆転しなければ意味がない。
そして回ってくる弥咲の手番。ここで弥咲は何かが吹っ切れたように微笑み始めた。
「ありがとう、お兄ちゃん……」
小声で、誰にも聞こえないようなわずかな声でそう言った弥咲は、まるで千也が居たから勝てたとでも言うような勢いで矢を投げ放つ。
ドシュ! とダブルの音が二回響き点数を逆転、残りの一本をトリプル十五トライへと費やすつもりらしい。
(来るなら来い! 覚悟は出来ている!)
その状況を切腹する覚悟でもあるような、真剣な表情で見つめる雄一。
逆にここで決めなければ彼女の敗北は確定する状況、しかし弥咲は躊躇いなく投げ、トリプルへと命中させ、十五のエリアをクローズさせる。
ゲームは弥咲が勝ち取ったのである。
……
「ありがとうございました」
弥咲は余韻に浸る事なく雄一にお辞儀と握手をする、バーは熱気と興奮に包まれ、その場に居た人間のみにだけ語り継がれる伝説となった。
矢を三本投げるだけ、これをスポーツと言い張れるのかと言えば疑問に思う人間もいるかもしれない。しかし身体を動かしている以上スポーツである。ただ精神面に影響されやすくそちらに比重が置かれているというだけの話だ。
そんなシンプルなスポーツに救われた少女は、憧れていた、リターンマッチを望んでいた相手を見事打倒したのだ。その感動はどのスポーツにも変わりない感動をもたらしてくれる。
「此方こそ、新しい経験をありがとう。次は無差別級の舞台に」
「ええ、是非」
すっかり二人の世界になってしまった為、それを眺める事しかできなくなっていた千也、だがそれでよかった。
あれだけ人を嫌がっていた妹が、あれだけの大事を成し遂げたのだ。兄としてその成長に涙を抑える事が出来なかった。
マスターはそんな彼を暖かい目で見守り、ただ小さく、これからも大事にしろよと口にした。
……
数年後、高校を卒業した千也は医大を目指し、整体医師としての資格を取得していた。因みにダーツも上達し、妹や彼より早く始めていた光よりは下だがそこそこの成績を誇っている。
現在は整体医師として働きながら妹専属の整体医師として、彼女のダーツで強張った体を解す事に専念していた。
そして今日、高校を中退してまでダーツの道を走った妹の新たな挑戦が始まる。男女無差別級のダーツ大会が開かれるのだ。そこには全世界覇者となった星谷 雄一も参加が決定しており、宣伝ポスターも彼がセンターを飾っている。
「それじゃあお兄ちゃん、マスター、光さん。行ってくる」
控室でストレッチしていた弥咲は自分の出番が来たと知らせを受けるとそう簡単にあいさつし、控室を後にしようとする。
「弥咲!」
その彼女を千也は大声で引き留めた。どうしたの? ときょとんとした表情で振り向く。
「頑張って、あの時のような試合見せてくれ!」
「うん、任せて、お兄ちゃん!」
すっかり打ち解けた二人のグルーピングされた絆、その絆はたとえどんな状況でも同じ場所へ命中させることが出来るだろう。
ダーツには人を打ち解けやすくする魔法があるのだが、その殆どの人間がそれに気づかない。一声かける勇気があれば、後は投げるだけで意識するような事は何もないからだ。
はじめまして水です。ノリと勢いだけで書いたダーツ小説、いかがでしたでしょうか?
個人的にはダーツのルールが解っている方が読んで、マジチートと草をはやしていただければそれでいいやというつもりで書いたので難しい部分もあると思いますが、ここまで読んで楽しんでいただければ幸いです。
この小説には、実業之日本社「ゲームに勝つ! ダーツ絶対上達」の内容を一部引用しています、もしよろしければこの本を読んで参考にしてみてください。
もしこの小説や、上記の専門書が切っ掛けでダーツに興味を持っていただければ幸いです。
それでは最後に謝辞を、皆様の貴重なお時間を私の小説に使っていただきありがとうございます。また機会があればコミケなどで発行している「魔法師シリーズ」や別作品でお会いしましょう、さようなら。