06.この時はまだ知らない
約束の時間を大幅に過ぎてはいるが、とにかく早く行かないと!
「あの、ごめんなさいっ! 約束があって――すみません、これで失礼します!」
身体の痛みも忘れて立ち上がり、鞄と外套を引ったくるように手に取った。
さきほどと変わらない姿勢で静観している男の真正面でリーナは立ち止まる。間近でみる男には顔以外にも首や腕に古い傷痕がいくつもあった。何を考えているかわかりにくい表情も相まって凄みが感じられるものの、思った通り若く同世代に見えた。
リーナはくすんだ灰色の髪の隙間から見える琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
ふと男の袖口に、まだ新しい血が付いていることに気付いた。
「あ、血が……」
リーナは男が怪我をしていると思った。身体のあちこちにある傷痕を見ていたせいかもしれない。その視線に気付いたのか、男も腕を持ち上げ袖口をちらりと見たがそれ以上は反応しなかった。
「そうだ! お礼と言っては何ですが――」
慌てているリーナは手に掛けた外套を乱暴に探り、ポケットから術符を取り出した。反対のポケットから術符が落ちたことには全く気付けなかった。
「これ、良かったら使って」
差し出したのは回復の術符だ。男は初めて少し目を見開いた。が、受け取ろうとはしない。焦るリーナは早口になる。
「ちょっと失敗しちゃったものを自分用にしているんだけど、あ、でも性能的には問題なくて、あくまで売り物としてダメっていう意味だから」
時間が気になって仕方ないリーナは、煙草を持っていない男の手を素早く取り掌に強引に押しつけた。
「いらなかったら煮るなり焼くなり好きにしていいから」
不要なら処分は任せます、と言いたかったのだが、焦っていたせいか微妙な意味合いになってしまった。
男は手にした術符を見ていたが、しばらくしてリーナに視線を合わせた。何か言われるか、と身構えたリーナに、男は「変な奴だな」と笑った。前髪で隠れがちな琥珀色の瞳が楽しそうに揺れている。
強面からの可愛い笑顔にリーナはしばし見とれていたが、いつのまにか男がこちらを見ていることに気付きはっと我に返った。
「それじゃあ、また」
まるで再会を約束する言葉を発したことに気付いたが、リーナはさほど気に留めず扉を開けた。だから男がどんな表情をしているかも知らなかった。
差し込む日の光の眩しさに顔を顰め、それでも一歩を踏み出した。
「おい」
不意に声を掛けられ、振り返ると何かがこちらに向かって投げられていた。弧を描くように放り投げられたそれを咄嗟に両手で受け取る。掌で感じる固い感触は、透明な袋に入っている乾パンだった。
「やる」
「え、いいの?」
リーナの視線に男は口の端を上げた。
「いらなかったら煮るなり焼くなり好きにすればいい」
男の言葉にリーナは思わず笑ってしまった。
「絶対食べる。お腹減ってたから」
「知ってる」
リーナは男に手を振ると、急いで藪の中を駆け出した。
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静けさを取り戻した小屋の中で、ルファイアスはふと何かが落ちていることに気付いた。拾い上げた紙は少し古いが、掌にある術符と同じだった。しかしそこに描かれた魔法陣に怪訝そうな表情になった。
上げた視線の先、明るい窓の向こうには深い森がただ広がっている。そこに彼女の面影は一つもなく、2枚の術符――回復と雷撃だけが残されていた。