05.時間は巻き戻せない
火が爆ぜる音が近くで聞こえ、肌に暖かさを感じる。リーナが目を覚ますと、暖炉で薪が燃えていた。よくわからないまま辺りを見渡す。木の板が剥き出しの狭い部屋の壁にはランタンや着古した外套が掛けられ、低い天井には張られたワイヤーに手袋やタオルなどが無造作に干されている。部屋の角にピタリと嵌まる小さなテーブルの上にはタバコの吸い殻が残ったままの灰皿やコップが置いたままになっている。
ここ、どこ?
唯一わかることは見知らぬ場所、ということだ。寝起きで重たい頭を必死に使う。
馬車を離れた後、とにかくこの場から遠ざかろうと酷い倦怠感と闘いながら藪の中を歩き続けた。朦朧とする中、川を見つけて血だらけの手を洗ったことは何となく覚えている。そこからどのくらい時間が経ったかわからないけれど目の前に小屋を見つけて――からの記憶がない。
リーナは床ではなく壁面を背もたれとした木の長椅子の上で寝ていると気付く。落ちないよう慎重に上体を起こした途端、今までに感じたことのない痛みが全身を駆け抜け、思わず前屈みになった。おそらく魔力を全開にした反動だろうと結論づけてゆっくりと身体を動かし始めた。
着ていた外套が服を着たままの身体の上にかけられていることに気付く。濡れていた外套はすっかり乾いていた。
誰かに助けられた?
はっとして慌てて室内を見渡すと、小さな鏡が壁にぶら下がっているのが見えた。まだ痛みの残る身体で必死に立ち上がり鏡の前に歩み寄った。白くくすんだ鏡の中には赤ではなく紫の瞳があった。見慣れた顔に安堵する。
何の前触れもなくガチャリと扉が開いた。振り返ると見知らぬ男が立っていた。
「やっと起きたか」
男は咥え煙草でぼそりと低く呟く。くゆる紫煙の向こうに見える、くすんだ灰色の髪が年配の男性を思わせたが、顎のラインや口元にたるみはなく若そうだ。長い前髪のせいで目元が隠れているが、どことなく荒んだ雰囲気と左目の下にある古い傷痕が近寄りがたい印象を与えている。
寝起きだったリーナはつい「おはようございます」と返してしまった。男は無反応だったが拒否されてはいないと前向きに解釈し、気になっていたことを聞いてみることにした。
「ここの家の人ですか?」
男は壁にもたれかかり、煙を吐くついでのように口を開いた。
「禁猟期間だと滅多に人はこないし、鍵が開いたんで」
ゆっくりしゃべる男の声は穏やかだ。が、言っていることはちっとも穏やかじゃない。どうやらここの主がこないだろうと見越して勝手に入ったらしい。
「死体だと思ったら生きてたんで、とりあえずここに放り込んだ」
「それは……どうも」
さっきから言っていることが微妙に物騒だが、濡れた外套をわざわざ脱がせてくれていたところをみると良い人ではないが悪い人ではないらしい。
「死ななくて良かったな」
素っ気ないが労りを感じる男の言葉にリーナは自然と笑みがこぼれたが、続く「死んでたら身ぐるみ剥ぐとこだった」との言葉に顔が引きつるのを感じた。しかし理由はどうであれ助けられたことには間違いない。
「助けていただきありがとうございました」
礼が言えてほっと一息吐いた途端、お腹が鳴った。火の爆ぜる音では誤魔化せないほどの音量で、リーナは恥ずかしさで顔がかっと熱くなる。ちらりと男へ視線を向けると目が合った。
「朝ご飯は食べたんだけど――」
はははと笑って誤魔化し、ふと気付いた。
あ。今、何時?
顔を上げ必死に見渡すがどこにも時計らしきものがない。
「時計! 時間!」
思っていることをそのまま口にしてしまうほど焦る。頭が真っ白になりながらも鞄に懐中時計を入れていることを思い出し「鞄! どこ?!」と今度はそれを探す。
「あ、あった!」
鞄は長椅子の下に置いてあった。両膝で床を滑り込みながら鞄を開ける。20枚の術符に埋もれる冷たい金属の感触を探り当て、勢いよく取り出した。長い針は2、短い針は3を指し示していた。
「あ、え、3って、ああああぁー!!」
すでに15時を過ぎている。約束の時間は12時だ。暖かい部屋にいるはずなのに肌が粟立ち、全身から血の気が引いていった。