04.嫌な記憶ほど消えない
リーナは幻霧の術符を使うか迷った。これを使えばすぐ隣にいる人すら判別できなくなるほどの濃い霧が一時的に発生する。二人には自分の瞳を見られることはないだろう。けれど欠点は自分も視界が奪われることだ。傷は治すことができるかもしれないが、狭い幌の中で横たわる女性や座席をよけて立ち去るのは難しい。もたもたしていると誰かがやってくる可能性もある。持っていた幻霧の術符はポケットにしまい、外套のフードを深く被り直した。
御者がどこへ助けを求めに行ったかはわからないが、とにかく人が来るまでに済ませなくてはならない。焦る気持ちに、自然と外套の上からネックレスに触れていた。昔からの癖だが、おかげで落ち着くことができた。
横たわる女性は左胸のすぐ下にタオルが宛がわれていた。リーナは赤い液体をたっぷり含んだそれを取り除く。重たく、ぬるりとした生温かい感触が手に伝わる。
「傷を塞ぐからもう少し頑張って」
女性に顔を近づけて声をかけた。反応はないがきっとこの声は聞こえている。顔を上げると不安そうにこちらを見つめる少年と目が合った。さっきまでは表情がなかったが、今は僅かではあるが感情がある。リーナは元気づけるよう笑顔をつくって頷く。少年は唇をきゅっと結び、小さく頷いた。
女性の服の、破れた隙間から大きい傷が見える。血はドクドクと溢れてくる。傷口に触れないよう慎重に両手を翳すとリーナは集中するため俯いて目を閉じた。意識や感覚を身体の中心に集約する。外の雨や風の音、人の気配がぷつりと消えた。
何かが沸騰して勢いよく身体中を巡っていき、皮膚の下で膨れあがっていく。そしてそれはあっという間に自分の許容を超え、身体という入れ物を内側から壊していくように感じる。20年近く前と変わらぬ不快感にリーナは顔を顰めて耐える。
指の先までぎゅうぎゅうに詰め込まれていく感覚を確認して目を開ける。フードを被っているので顔は老婦人や子供には見えていないはずだ。
呪文を唱えず回復魔術を発動させた。すぐに女性の傷にそえたリーナの手が光を発する。それは段々と強さを増し、幌の中を真っ白な世界に変えた。老婦人と少年の小さな悲鳴が聞こえる。
しばらくして全てを飲み込んだ強い光はリーナの手に集約されてふっと消えた。すぐに強い疲労感に襲われた。まるで全力で長い間走り続けたように心臓が強く速く鼓動している。息を吸うのも吐くのも苦しい。座っていることですら辛く、横になりたい衝動を必死に堪える。
「……大丈夫?」
老婦人の気遣いには頷くだけで精一杯だ。前はまだ子供だった。24歳になった今なら昔より楽になるかもと思っていたが、その認識が甘かったことをリーナは痛感した。
「傷は、塞がったから、あとは、体温が、下がらないよう、温めて」
リーナは荒い息の合間に必要最低限のことを伝える。
「え、もう塞がったの?!」
老婦人は塞がった傷とリーナを交互に見ている。代わりに少年が幌の奥に積んである毛布を取りに行った。女性の頬や唇には赤みが戻っており、呼吸音もしっかりしている。
もう大丈夫だろう。リーナは立ち上がろうとしたが足に力が入らず、血の手形を馬車の床に付ける。すばやく肩をつかんで支えてくれた老婦人がフードの中を覗き込んできた。リーナが気付いたときにはすでに、心配そうな表情は驚きに変わっていた。
「目が赤――」
言うと同時に介抱の手も離れていく。赤い瞳を見られたことに気付き、リーナは反射的に顔を背けた。
昔の記憶が蘇り、浴びせられた声が聞こえてくる。
『こっちを見るな化け物! あっち行け!』
『やだ、気持ち悪い。あれ病気じゃない? うつったら嫌だわ』
不気味なものを見るような視線。恐怖と蔑みの混ざった声音。忘れたくて目をぎゅっと瞑る。
気を付けていたのにまたやってしまった。もうここにいられない。早くここから逃げなくては。
力を振り絞り立ち上がろうとしたが、腕を強く掴まれた。ぎょっとして振り向くとそれは老婦人だった。
「あなたのことは名前も知らない。見たこともない。だから誰に何を聞かれても言えない」
真顔のそれは宣誓のようだった。リーナは何度も瞬きをして老婦人を見つめる。老婦人は「何でそんなに意外そうな顔をしているの?」と笑い、リーナの背中をバシバシ叩く。正直、今の状態では叩かれた衝撃で呼吸が止まってしまいそうだったが、不思議と嫌ではなかった。
「だって内緒にしておくんでしょ? だから通りすがりの見知らぬ男に助けて貰ったとか言っておくわ」
老婦人は笑顔で大きく頷いている。
「襲われて動揺していた70過ぎのおばあさんと子供の言うことだから、多少辻褄が合わなくても、覚えてないと言っておけば納得するでしょ」
この場を取り繕う嘘かもしれない。問い詰められれば、時間が経てば誰かにしゃべってしまうかもしれない。でも今は老婦人の誠意を感じていた。
遠くから掛ける馬の蹄の音と人の呼びかける声が聞こえてきた。御者が呼んだ助けかもしれない。ここにいては説明がつかなくなる。
「さぁ、早く」
老婦人に促され、リーナは気力を振り絞って立ち上がる。ふと少年がこちらを見上げていた。赤い瞳を真っ直ぐに見つめている。
「お母さんを助けてくれて、ありがとうございました」
少年の健気さと純粋さに、自然と笑顔になっていた。
「どういたしまして。お母さんを、大切にね」
少年は力強く頷いた。
老婦人に介助されながら足を進める。
「……ありがとう。無理を言ってごめんなさい」
自分でも無茶振りだとは思っていたんだな、とリーナは老婦人への認識を新たにする。確かに、きっかけは老婦人の無茶振りだったが、やったことについてはリーナが自分で決めたことで誰のせいでもない。鼻声で詫びる老婦人にリーナは首を横に振った。
「死ぬまで誰にも言わないけれど、死ぬまであなたのことは忘れないわ」
幌馬車を降りるまで支えてくれた老婦人へリーナはフードを被ったまま一礼すると、ふらつきながらも道を外れて藪の中に分け入った。