10.君の名は
「やっぱり。あなたたち、知り合いだったのね」
恩人との関係をどう説明すればいいか悩む。とりあえずリーナは椅子から降りて、男に向き直った。
「リーナ=クレスと言います。あの時は本当にありがとうございました。乾パン美味しかったです」
「……気にすんな」
恩人は面倒臭そうにそれだけ言うと煙草を吸い出した。無造作にまくられた袖から刺青が覗く。
「あの。お名前を教えて欲し――」
言い終わる前に男が尋ねてきた。
「何で?」
まさかの質問に頭が真っ白になる。
「……な、んで?」
特に意図はない。ただ、知りたかっただけだ。
固まってしまったリーナを助けるように女主人が口を開く。
「減るモノじゃあるまいし。言えば良いじゃない、名前くらい」
「面倒」
「確かにあんたの名前は言いにくいし面倒だけど」
言いにくく面倒な名前らしい男は、それでも表情を変えず煙を吐き出すだけだったが、続く「彼女、ここで働いてもらうから」との一言には、さすがに驚いたのか咥えた煙草を落としそうになっていた。
女主人からこれまでの経緯をざっくり聞いた後、恩人は諦めた様子で名乗った。
ルファイアス=ゼルバイダ。
今時珍しい古風な響きの名に、リーナは母親を思い出した。
「知り合いは大抵ルーファスって呼んでいるわ」
「ルファイアス=ゼルバイダさん。ルーファスさん、ルーファスさん、ルファ――」
リーナは顔と名前を一致させようとして無意識に声に出していたらしく、気が付いたときには名前を連呼されていた本人がまじまじとこちらを見ていた。
「あ、ごめん、ルヒャイ――ルーファスさん。……すみません、噛みました」
いろいろと謝りっぱなしのリーナに、ルファイアスは吹き出した。
「練習しても噛むんだな」
「そのようで」
初めて会った日にも感じたが、顔の古傷とやさぐれた表情のせいで近寄りがたいのに笑うと可愛くなる。
再び女主人が厨房に声をかけた。
「ゼオ」
呼ばれて姿を見せたのはあの山のような禿頭の大男だった。再び手には山のようなオムライスを持っていた。
「待たせたな」
山のようなオムライスを今度はルファイアスの目の前に置いた。
「サンキュ」
ルファイアスが食べ始めたのを見届けた後、ゼオはリーナの前にある皿に視線を移した。
「どうだった?」
「とても美味しかったです。ご馳走様でした」
「そいつは良かった」
立派な口髭と顎髭がわさわさ揺れる。
「おかわりできるぞ?」
胃がはち切れそうなリーナは慌てて断った。
「この人はゼオ=ノートルド。コック兼用心棒よ」
女主人の紹介にゼオは笑顔のまま大きな手を差出し、リーナもそれに応える。今度は声に出さないよう気を付けながら、頭の中で名前と顔を一致させた。
「ゼオさんの名前は練習しなくていいの?」
「いいの。もう覚えたから」
含み笑いのルファイアスには真顔で切り返した。
「俺はただの料理人だ。用心棒なんて見た目だけだ」
温かい掌からは優しさと力強さが伝わってくる。
「乾パンつくったの、このおっさんだから」
ルファイアスの一言に、リーナはお礼と乾パンの美味しさを伝え、ゼオは作り方のコツまで教えてくれた。
「盛り上がっているところ悪いけど、話を戻していい?」
咳払いの後、女主人は引き出しから取り出した術符をカウンターの上、リーナの目の前に置いた。
上部が破られているそれはあの日、恩人にあげた回復の術符だった。そしてその恩人、ルファイアスがここに来た時点で嫌な予感がしていた。
術符はそれが売り物でなくとも必ず製作者の名を入れなくてはならない。銘のない術符は違法であり、製作者や販売者はもちろん使用者も罰せられる。ルファイアスに渡した術符にもリーナ=クレスの銘が入っている。
「ルーファスが持っていたこの術符は、あなたが作ったものね」
ごまかす意味はないのでリーナは素直に頷いた。
先日、ゼオが誤って指を斬ってしまい、居合わせたルファイアスがリーナからもらった回復の術符を使ったところ、すぐに傷が塞がったという。
「おかげで助かったよ。ありがとな」
うっすらと傷痕の残る指の平を見せ屈託のない笑顔のゼオに対し、リーナは複雑な笑顔しかできない。
「この術符は、今試用したこちらのFランクの術符より上――Bランクか、それ以上だと思う」
女主人の的確な分析にリーナは驚いた。自分用に持っている術符は全て魔力調整に失敗してFランク以上になってしまい、売ることができないものばかりだ。あの回復の術符なら、瀕死の女性の傷は治せなくても、指の切り傷くらいならすぐに塞がる。
「だから気になったのよね」
女主人はそう言って煙管を咥えた。リーナはこの後何を聞かれるのかと緊張しながら次の言葉を待った。この場を凌ぐために適当な嘘を言ったところで、この鋭い女主人にすぐ看破されてしまう。
女主人は目が合うと何故か眉をひそめた。
「ん? 何?」
「何って……」
追求されると思い構えていたリーナは拍子抜けした。
「それだけ、ですか」
「そうよ。それだけ。それとも――」
紫煙の向こうの、女主人の右目が僅かに細くなる。
「何か言わなきゃいけないことでもあるのかしら?」
不意を突かれリーナは息を呑んだ。藪から出かけた蛇を刺激しないようリーナはそれ以上聞かないことにした。女主人は察したのか、紫煙が消えた後の表情はもう戻っていた。
「あなたが何者でも構わないのよ。ここはそういうところだから」
何者でも構わない。不意に言われたその言葉にリーナは鼻の奥がツンとして慌てて俯いた。
「人となりはここでの働きで見定めさせてもらうわ」
なるべく他人とは関わらないように生きてきた。誰かと深く関われば、自分の性格上、面倒なことになるのはわかっている。それもここは王都だ。この3人のこともまだよくわからない。けれどこの人たちなら、少しは大丈夫かも、とリーナは思った。
「遅くなったけど、私はセーラム=ウォルフ。情報屋兼ここの主をやっているわ。よろしくね」
隻眼の女主人、セーラムが右手を差し出す。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
リーナは緊張と不安と少しの期待を抱えてその手を取った。そしてすぐにルファイアスを見た。
「もう覚えたから!」
「……何も言ってねえだろ」




