0-前
こんな事になると分かっていたら絶対にやらなかった。
煤と埃の匂いが充満する暖炉の中で菅原幹也は思い切って爪を噛んだ。途端生じた痛みに体が震えたが、そこはなんとか耐え忍ぶ。痛みに負けて噛むのを止めるわけにはいかなかった。助長された恐怖を糧にどんどん力を込めていくとミシリと音を立てて爪が割れた。
ーーちくしょうなんで痛いんだよ!!ーー
溢れた涙は渇いた口内に流れ込む。甘い様な塩っぱい様な、そして顔に付いた煤だろうか、なんだか苦い様な味もした。もう認めるざるを得なかった。
ーーーーー幹也はなんとしてでもこの状況を夢だと思いたかったのだ。
だが全ての五感は正直で、幹也に優しい嘘を付いてはくれなかった。
「……なんでだよぉ………俺が一体何したって言うんだよぉ……」
尚も止まらない涙を乱暴に腕で拭うと眉間の間に何かが当たった。
健康的に焼けた手首には髪留め用のゴムにちょこんとあしらわれた小さな白いリボンが付いていた。女子からは可愛いと評価される様なソレを、幹也は目に留めた瞬間血相を変えて鷲掴んだ。
「くそっ!! こんなのがなんだってんだ!!」
引き千切ってやる。壊すつもりで引いた腕は、しかし途中でぴたりと止まった。妙に強ばる体に一瞬リボンが何かをしたかと思ったが、これは単に幹也の理性が働いただけだった。
このゲームにはルールがある。決して破ってはいけないルールが。
幹也はその内の一つを既に破っていた。
少し前まで居た世界は蝉の声がうるさい夏の夜だった。忍び込んだ校舎の外を時折車が通り過ぎるだけで、あとはもう気にする事のない普段通りの夜だった。
だが気付くとこの覆い繁った木々に囲まれた洋館の中に居た。どうやってここに来たのかは分からない。只尋常ではない事が身に起こったのだけは分かった。
外壁と窓を激しく叩く暴風と雷雨の音を聞きながら、点々と小さく灯ったランプの明かりを頼りに廊下を進んだ。物の形が分かる程度には明るかったが、その道は決して安心出来る道ではなかった。長方形のロの字の形をした長い廊下の両端には階段がある。だがいくら降りても、逆にいくら上っても窓から見える景色はいつも同じ高さだった。
幹也は閉じ込められた。どこにも行けない、そして助けてくれる大人が誰一人いないこの迷宮に。ーーーーー無惨な姿をした女の化け物と一緒に。
幹也は暫くの間わなわなと震えた。これは決して外してはいけない。そうルール内で言われている。外せば次どんな仕打ちを受けるのかーーーーー想像もしたくない。
ぎりぎりと爪をリボンにではなくその下の手首に立てる。ただ今回は血が出るまでは我慢しなかった。忌々しげに舌を打つと手を離す。代わりにリボンが付いた方の腕を何度も何度も暖炉の壁に擦り付けた。せめてこの白だけは視界に入れたくない。電球の明かりも大陽の光もない世界で、一見無害なこの白は眩し過ぎた。
腕を擦った事で舞う煤が余計に服や体を汚すのも気にせず続けているとガチャリ、と鍵を掛けた筈のドアノブが回る音がして飛び上がる。
悲鳴を上げそうになった口を慌てて押さえて体を小さく縮こまらせると、錆びた蝶番が無理矢理開閉される音が部屋中に響き渡った。
ゴンゴンと鳴り響く鼓動と制御出来ない呼吸音が止めどなく漏れる。もしかするとこの部屋で一番物音を立てているのは幹也かもしれない。
「………ねぇ」
ごくり、と大きく喉が鳴る。震え過ぎた体が壁の煤をどんどん削ぎ落としていった。もう駄目だ、絶対バレてる、と限界まで目玉をかっ開いた。
「ねぇ、どこにかくれているのぉ」
機械を通した様なしゃがれ声。いっそ耳を捥いでしまった方が楽になれる気がするが、暖炉の中に隠れた今、聞き取りすぎるぐらいに耳をそばだてていないといざという時に対処出来ない。
これは自分の為でもあるのだと、そう自分に言い聞かせて耳を澄ませた時、計った様に女が幹也を呼んだ。飛び上がった拍子に肩を暖炉の壁に打ち付ける。だがそれなりに音を立てた筈なのに女は気付かなかった。尚も幹也に声を掛け続け、容赦なく家具をなぎ倒す。その様子を感じ取りながら「もしかして」とある希望が生まれた。
ーーこいつ、まだ俺に気付いてない?ーー
これは好機だ。女は幸い暖炉と扉から離れた所の家具をなぎ倒している。今ならここから飛び出し全力で走れば逃げられるかもしれない。これまでの経験で女がそう足が速くない事は知っている。
では早速、と腰を浮かせようとしてーーーーー失敗した。幹也は完全に腰を抜かしてしまっていた。
ーー…………嘘だろ……ーー
何度も試す。だが結果は変わらない。そうこうしている内に女の気配はすぐそこまでやってきていた。
もうおしまいだ。迫り来る恐怖を前に幹也は涙を流す余裕もない。声も出ない。だが、
ーー……ごめんなさい………ごめんなさい…ーー
心の中ではいくらでも言葉が出せた。見つかるか、見つからないか。その決裁が下るまでの時間を幹也は謝罪する事に使った。ここにきて漸くこれまで犯してきた自分の罪を認める気になったのだ。
幹也は良い子ではなかった。体が大きい、力が強い、それなりに悪知恵が働く事で天狗になり弱い者を虐めた。泣いて逃げ回る奴を見ても笑うだけで罪悪感を持った事は一度もない。よく考えればゲームのルールを破ったぐらいでこんな目に遭う筈がないのだ。これは罰だ。幹也と、そしてこの洋館に飛ばされた二人の友人達への。
ーーごめんなさい、もう悪い事はしません。母さんの言う事もちゃんと聞きます。学校の奴らももう虐めません。勉強もちゃんとしますーー
走馬灯の様にこれまで会った両親や兄や親戚の叔父叔母や従姉妹や担任、そしていつもつるんでいた仲間達の顔を思い出す。
ーー全部、俺が悪かったんです。反省してます。だから……ーー
そう、反省している。こんな状況になったのはリボンのせいではない。
小学校最後の夏休みに何か凄い偉業を成し遂げたかった。それで夜の校舎に忍び込み肝試しをする事を提案をした。賛同してくれた仲間二人と五年生の頃から虐めてきた奴を引き連れ面白半分でゲームをした。決められたルールはその時から破るつもりだった。
そうすればソイツが怖じ気づいて泣くと思ったから。ついでにソイツをそのまま夜の校舎へ置き去りにしてやろうとも思っていた。
ーー……ヒロ…………ケン……ーー
ヒロは最初に捕まった。女の無惨な姿と声を聞いて腰を抜かし幹也達に助けを求めた。だが伸ばされた手は掴まなかった。逃げた先で今度はケンが捕まった。物陰に隠れて喧嘩していた時女がケンの頭を後から掴んだのだ。暴れる声を背に幹也はやっぱり逃げた。
ーー…………やだ……嫌だ……ーー
女が直ぐ近くの棚を倒した。その威力は暖炉の中の煤を舞い上げる。もう懺悔する時間は終わった。これからはもう現実に怯えるしかない。
幹也は想像する。きっとあの2人はもう殺されているだろう。さて一体どんな風に殺されたのか。ーーーーー想像して震え上がった。
ーー死にたくない、死にたくない、死にたくない!!ーー
心の中で何度も叫ぶ。自分は決して二人の様にはなりたくない。自分は生きてここからーーーーー
「あぁ、そこにいたのぉ」
全ての音が止まった。あれだけうるさかった心音も呼吸音も振動音も、外の激しい雨風の音も全てが止まった。訪れた静寂の中カサカサと頬を何かでくすぐられた。
「みぃつけた」
ぎょろり、と幹也の目玉が動く。そこには女が居た。息が掛かる程の距離で幹也の横顔を充血した目で凝視していた。
目がぱちりと合うと真っ赤な口が弧を描いた。幹也の肌をくすぐったのは女の乱れた黒髪だった。
幹也は叫んだ。あらん限りの声で。
暴れた。謝った。暴言を吐いた。泣いた。そしてまた叫んだ。
繰り返し、繰り返し、繰り返し、やがて幹也は気を失った。その後の幹也がどうなったのかはーーーーー幹也自身にも分からない。