五つの恋
一度、投稿した内容を再考して、一度に読めるように、ひとつの小説としました
第1の恋 届かぬ王妃へ
新アレクサンド国侯爵家の嫡男ルカが、その後の人生を狂わせる「呪い」にかかったのは、新王妃ソフィアの戴冠式の日だった。
その日、ルカは婚約者のエレノアを連れ、王宮の戴冠式に参加していた。楽隊の響きと歓呼の中、跪いたまま、伏し目がちに覗き見るように見つめた先の新しき国王の隣に立つ彼女は、この世のものとは思えないほど神々しかった。
侍従からの掛け声で拝謁の許可が出て、控えている者も一斉に立ち上がり、祝福の声を上げた。それを愉しむかのように、新王と新王女は向かいあい、軽くキスを交わした。そして、新王妃は前を向き、祝祭の魔法を放つ。空中に現れた無数の水の蝶が、陽光を反射して虹色の輝きを街に振りまいた。
新王妃の複雑に編み込まれたプラチナブロンドの髪と瞳と同じ深い蒼色のドレスを纏った彼女が、ゆっくりとほほ笑んだ。
「美しい」
祝福の音楽が演奏され舞踏会が始まった。ルカは息をすることさえ忘れていた。エレノアがダンスを促さなかったら、そこに立ち尽くし続けたかもしれない。ルカはダンスのステップ間違えてエレノアの機嫌を損ね、また、隣で踊っていた男にぶつかり、彼の周り騒然とさせた。男は怒り、エレノアは泣き崩れ、ルカとエレノアは這う這うの体で舞踏会から追い出された。
帰りのマギモービルの中でもエレノアは泣き続けていた。しかし、ルカはエレノアの機嫌をとることは無かった。新王妃ソフィアの笑顔が頭から離れず、他の誰の事も考えることができなかったのだ。それは恋という瑞々しい感情ではなく、手が届かぬ星を仰ぎ見るような、狂信的な崇拝の始まりだった。そのルカの日常の崇拝により、目に入らなくなったエレノアとの婚約は多額の慰謝料をもって静かに解消された。
それからというもの、ルカは若き侯爵として、あるいは一人の男として、執拗に王妃ソフィアの影を追った。彼に任された王宮での政務にも身が入らず、一心にソフィアの目を引き、気に入られることだけを望んだ。
彼は王宮の夜会ごとに、彼女の好む北方の希少な香油や、魔力を増幅させる伝説の蒼玉を王妃へ献上した。しかし、ソフィアがそれらに心を動かすことはなかった。
王妃の言葉はいつも簡単だった。
「ルカ卿、お心遣いに痛み入ります。ですが、陛下より様々な物を賜わっており、こうした贈り物はお気持ちだけで十分ですのでご遠慮させていただきます」
彼女は、国王から贈られた簡素な指輪や装飾品にそっと触れ、慈しむように微笑む。彼女の操る水魔法が常に澄み渡っているのは、その心に濁りがない証だった。
ソフィアの慈愛に満ちた眼差しは、常に夫である国王へと向けられていた。二人の間に流れる空気は、他者が立ち入ることを許さないほどに完成されており、ルカがどれほど贅を尽くした贈り物を用意しても、それは彼女の視界を僅かに遮る塵にすらなれなかった。
父である侯爵から日頃のうつつに愛想をつかされ、このままでは廃嫡もありうるぞと叱責を受けた。しかし、その叱責は彼のソフィアへの一途な想いを高めただけだった。彼はソフィアと過ごす夢の世界で生きていたのだ。
ある月の綺麗な夜、ルカは偶然にも王宮の奥深く、私的な噴水庭園でソフィアの姿を見かける。
彼女は独り、水鏡に映る月を見つめながら魔法を編んでいた。水流は優しく彼女の指先に絡みつき、愛を囁くような調べを奏でている。ルカはたまらず影から飛び出し、胸に秘めた想いを口にしようとした。
「王妃様、私は、貴女のためなら、この命も家名も」
だが、ソフィアはルカの方を見ることさえしなかった。彼女はただ、背後に近づく足音――国王の気配を察して、花が開くような、ルカが見たこともないほど甘い微笑みを浮かべたのだ。
「陛下、お待ちしておりました。今宵の水は、貴方に似て穏やかでございます」
ルカは、自分がそこに存在しないかのような感覚に陥った。ソフィアにとって、ルカという存在は背景の石像と同じ、無機質な風景の一部に過ぎなかった。
数年後、ルカは嫡男の身分を捨て、領地の奥深くにある古城で隠居生活を送っていた。彼の部屋には、かつてソフィアに贈ろうとして突き返された、数々の至宝が埃を被って並んでいる。窓の外には、彼女の魔法を模して作らせた、決して枯れることのない魔法の噴水が常に綺麗な水を吹き上げている。ここだけ、時間が止まっているように。
王妃ソフィアは今も、王の傍らで慈愛の雨を降らせ、国を潤しているという。
今日は窓を伝う雨露を指でなぞり、そっと目を閉じる。彼にとって、世界から色彩が消えたあの日から、時は止まったままだ。届かなかった想いは、流れることのない雨の雫となり、彼のソフィアへの心を永遠に冷たい水の中に浸し続けているのだった。
第2の恋 王妃と名もなき傷兵
王都の北端にある、白亜の巨塔。そこは「ラインハルト王立療養院」と呼ばれ、戦傷病者や原因不明の病に伏す者たちが最後に辿り着く場所だった。
「顔を上げてください。もう痛みはありませんよ」
その声は、戦場の喧騒で耳を傷めた私にとって、泉のせせらぎよりも心地よく響いた。私の視線の先にいたのは、アンナ先生だった。彼女はこの病院で最も優れた治癒魔導師であり、そして――この国で最も「孤高」な女性だった。
私は国境付近の小競り合いで魔獣の毒を受け、この病院に担ぎ込まれた。意識が朦朧とする中、最初に感じたのは、凍りついた血管を溶かすような温かな光だった。目が覚めたとき、私の手を握っていたのが彼女だ。
「アンナ先生?」
「気がつきましたか。あなたの心臓に届く前に、魔力を通して毒を中和しました。もう安心です」
その声と同時に彼女の柔らかな掌から伝わる温かさになぜか涙が溢れた。
私はまだ生きている。
彼女の髪は透き通るような銀色で、その瞳は夜明け前の空のように深い青をたたえていた。アンナ先生は、患者を「診る」とき、決して身分の貴賤を問わない。泥にまみれた兵士の足も、物乞いの子の汚れも、等しくその白磁のような指先で癒していった。
しかし、院内の看護師たちが時折、畏怖を込めて囁き合うのを私は聞いた。
「アンナ様は、本来ならこんな場所にいらっしゃる方ではないのに。陛下も、よくお許しになったものだわ」
そう、彼女の正体は、この国の第三王妃、アンナ・フォン・グリム。この国最高の治癒魔力を持ち、今はその力を民の治療へと注いでいる慈悲深き国母。
ある日の午後、私の治療中にその「影」は現れた。病室の入り口に、衛兵たちの静かな敬礼とともに、一人の男が姿を見せた。彼こそがこの国の王、ラインハルト陛下だった。
アンナ先生は私の胸に手を当て、魔力を流し込んでいる最中だった。陛下はそれを邪魔せぬよう、静かに傍らに立ち、慈しむような眼差しで彼女を見守っている。
「終わりましたよ。もう、魔力の循環も正常です」
アンナ先生が顔を上げると、陛下は自然な動作で彼女の額に滲んだ汗を指先で拭った。
「お疲れ様、アンナ」
「あっ、誰かと思えば、陛下。公務の合間に、わざわざお越しくださったのですか?」
アンナ先生の表情が、一瞬で「医師」から「一人の女性」へと変わった。その親しみを込めた微笑みは、私に向けられる慈愛に満ちたものとは明らかに異なっていた。
「君が愛する民は、私が守るべき民でもある。君がここで戦っている間、私も城で戦わねばならないと思ってね。しかし、お互い息抜きは必要だよ。一緒に食事でもと思って誘いにきた」
王はアンナ先生の肩を抱き寄せ、彼女もまた信頼しきった様子でその胸に寄り添った。
「嬉しい」
彼女は王の胸元で笑いながら囁く。二人の間に流れる空気はあまりにも完璧で、不純物が入り込む隙など微塵もなかった。
その光景を横たわったまま見上げていた私は、胸の奥が焼き切れるような感覚に陥った。それは怒りではなく、ましてや王への敵意でもない。ただただ圧倒的な「差」に対する、救いようのない絶望だった。
王の言葉、その手つき、そしてそれに応えるアンナ先生の瞳と仕草。
私にとって命を救われた奇跡のような時間は、彼らにとっては日常の一部であり、分かち合われる愛の断片に過ぎないのだ。
「先生、私は」
仲睦まじい様子を前に、二人の間を遮りたい衝動で思わず呼んでしまった。しかし、振り返った王の姿に言葉が続かなかった。
アンナ先生も振り返り、いつもの優しい微笑みを私に向けた。
「ごめんなさい、安静にしていてくださいね。陛下、この方は勇敢な兵士なのですよ。国境で逃げる領民を逃がすために一人で残って戦われたのです」
王は、私に対等な人間に対するような敬意を込めた眼差しを向けて言った。
「そうですか、我が国に君のような勇敢な兵がいることを嬉しく思います。領民を助けてくれてありがとう」
その言葉の高潔さが、さらに私を惨めにした。嫉妬することさえ許されないほど、彼はアンナ先生にふさわしい男だった。
退院が決まった前夜、私は中庭のベンチで月を眺めていた。そこへ、一日の仕事を終えたアンナ先生が現れた。
私は思わず、声をかけた。
「アンナ先生、明日、退院になりました。ありがとうございました」
「あら、すっかり良くなられたのですね」
「はい、先生の治療のおかげもあって、この通りです」
と、体を動かした。
「ふふふっ。良かったわ」
アンナ先生は微笑みかける。その笑顔が眩しすぎる。しかし、触れてはいけない人として、空気の中に障壁があるかのようだった。この前の王とアンナのやりとりが想いだされて、
「先生、あなたは、陛下を、心から愛していらっしゃるのですね」
と、呟く。単刀直入すぎるもの言いに、アンナは少し驚いたようだったが、すぐに穏やかな顔で答えた。
「えっ、あっ、そうですか?あの時の陛下を見られていたのですね。お恥ずかしい限りです。
陛下は国民を愛されております。そして、その国民に為に働く私を愛して下さっております。それは、私にとってはかけがえのないものです。
私は傷ついて運ばれてきたあなたを救いたいと強く思いました。その治療により貴方は健康になり、次の新しい目標の為に退院していく。これ以上、嬉しいことはありません」
彼女の眩しい笑顔と裏腹に、私は自嘲気味に聞こえないように呟いた。
「あなたは、この国で最も幸福な方でした。私のような名もなき兵士が、入り込める場所などどこにもなかった」
私は自然に涙を流した。それを不審に思った彼女は私の顔を覗き込むように
「どこか、痛みますか?」
アンナは優しく私の頬に触れた。その手には温かさがあった。
私は何も言えず、心で呟いた。
”いいえ、あなたへ抱いた気持ちが私の心を責めるのです。計り知れないやるせなさが私のこころを揺さぶるのです。それが、涙を誘うのです”
私は裏腹な気持ちを言葉にする。
「いえ、退院前にアンナ先生に会えたことが嬉しいのです。ありがとうございました」
翌朝、私は病院を去った。
背後にそびえる療養院と、そのさらに奥にある王宮。アンナ先生は王の腕の中に帰り、私は再び泥にまみれた戦場へと戻る。
私は剣を握りしめる。
彼女が愛する王と、王が愛する彼女が、いつまでもあの白亜の塔で微笑んでいられるように。このやるせない想いを、国を守るための狂気じみた忠誠心へと変えて。
ラインハルト王立療養院の扉が閉まる。
私の胸には、決して癒えることのない、切なくも激しい「熱」が、永遠に刻み込まれた。
第3の恋 強き王妃への憧れ
春の王立魔法学院は、新入生の未熟な魔力が衝突し合う、焦げたような匂いに満ちていた。宮廷魔導師として新任されたばかりの僕、ジョナサン・シモンズは、支給された教師用の真新しい上着をはおり、隣の演習台に立つ「彼女」の横顔を盗み見た。
マチルダ上級魔導師。この国の王妃でありながら、第一魔導師団の総監を兼任する、名実ともに「炎の統制者」だ。
彼女に呪文の乱れを指摘されたことのない生徒はいない。その一方で、彼女の結界を破った者もまた誰一人いない。
「シモンズ導師」
低く、凛とした声に心臓が跳ねた。
「はいっ」
「緩いわ。ファイアボールを作った時の魔力の保持が雑になって、魔素が少し漏れている。それじゃ、最後の爆発が不完全になって威力が十分にでない。最初の魔力保持を丁寧にしてみて。
多分、慣れない勤務の緊張もあると思うのだけれど、生徒に誇示することを意識し過ぎて、素早く魔法を発動して、雑になっている。もう少し、余裕を持って、丁寧に。今、一度、基本を忘れないで。授業の後、練習して大丈夫だと思ったら、私の執務室へきなさい」
魔法実習の生徒に対する模範演技終了時に、マチルダ先生は、僕の方を見ようともせず、小声で言った。厳格そのものの言葉を紡ぐ彼女の左手には、王家との絆を象徴し、強大な魔力を封じる守護の刻印が刻まれた、重厚なプラチナの指輪が静かに光っている。
厳しい。本当に、彼女は厳しい。
常に最高級の魔糸で織られた漆黒の法衣を纏い、王家の紋章が刻まれた銀の杖を携えて歩くその姿は、この国の威厳そのものだった。
でも、彼女が去った後の演習場には、不思議と魔力を正しく制御できた生徒たちの安堵が残る。
授業が終わるたび、彼女は生徒一人一人の癖や魔力の特徴を細かく書き留めていた。次の授業を少しでも良いものにしたい。ただその一心なのだ。
そして、生徒は彼女に褒められたい一心で努力する。その姿を思い出すたび、厳しい指導の裏にある優しさを僕は知る。
僕も数年前は彼女の教えられた生徒だった。
彼女はその頃の僕に魔法というものを優しく教えてくれた。
「シモンズさん、魔法の威力は魔力の大きさではありません。魔力を正しく維持し、魔素を有効に活かすことです。基本を忘れないで」
僕が魔法を発動しようとすると、彼女はそっと私の手を包み、「力を入れ過ぎないで」と耳元で囁いた。すぐ横にある彼女の横顔と、初めて感じた女性の香りに、僕の心臓は激しく高鳴った。
彼女はそれから僕の想い人になった。
久しぶりに彼女に注意を受け、繰り返す基礎練習をする放課後、人知れず僕は昔の僕を思い出していた。
ある日の放課後。
使い魔の世話を終え、魔道具の明かりだけが灯る静かな学院回廊を歩いていると、準備室の扉から青白い光が漏れているのが見えた。
ノックをして中を覗くと、そこには法衣の襟を少しだけ緩め、疲れた様子で目を閉じるマチルダ先生がいた。デスクの上には、山のような領土防衛の書類と、王家の紋章が刻まれたカップが置いてある。
「まだ、いらしたのですか」
僕が声をかけると、彼女は少しだけ驚いたように顔を上げ、気づくと法衣の襟を正し、いつもの「王妃」としての表情を作った。
「ええ、国境結界の資料を読んでいたの。まだ授業記録も終わっていなくてね。もう少し、頑張ってみるわ。
シモンズ導師こそ、こんな遅くまで何をしていたの?瞑想の時間を作って魔力を回復させないと明日の授業は持たないわよ」
「使い魔の世話で遅くなりました。まだ、若く、体力にも自信がありので、明日も大丈夫です。マチルダ先生のお役にたちたいので、少し、手伝わせてください。生徒の魔力の特徴を書き写すくらいなら僕でも」
「君の領分ではないわ」
「僕がやりたいんです。マチルダ先生の隣で、その叡智を学びたいんです」
半分は本音で、もう半分は、ただ少しでも長くこの聖域を共有していたかった。
彼女は少しの間、僕をじっと見つめていたが、やがて小さく溜息をついて、
「なら、生徒の事は私の領分だから、そこにある魔力測定装置の点検と整理をお願い」
と並ぶ教育用の魔道具機材を指差した。
窓の外では、王都の魔力で光る灯火が星のように揺れている。
狭い準備室の中に、古い機材の匂いと、彼女から微かに漂う……王宮の深奥で焚かれる最高級の香木のような、高貴な匂いが混ざり合う。それは僕のような若輩者が一生を捧げても届かない、王だけが許された安らぎの匂いだ。
隣で彼女がペンを動かす音を聞きながら、僕は魔道具を調整する自分の想いに魔力の乱れが彼女に悟られてしまわないか、そればかりを心配していた。
「シモンズ導師」
作業が一段落した頃、彼女がふいに口を開いた。
「はい」
「私はあらかた終わったけど、そちらはどう?」
「あー、もうすぐ終わります」
「そう、手伝おうか?」
「いえ、これで最後です」
「そう、思ったより早く終わって助かったわ。ありがとう」
それは、彼女から初めてもらった小さな感謝の言葉だった。書類整理のために付けている眼鏡をかけ直した彼女の瞳が、魔石の光を反射して柔らかく揺れる。僕の心は鷲掴みされたようにきゅっと音をたてた。
「先生、好きです」
僕は口に出そうになった言葉を思わず飲み込んだ。その消化不良はやがて後悔に繋がるのかもしれない。
そんな予感がした。
「先生の帰る時間が遅くなりますね。これから早くできるように、僕、もっと精進します」
「ふふふっ。あまり気負わないで。あなたが魔力枯渇で倒れたりしたら、陛下に良く言う『最近の宮廷魔導師は熱心過ぎて帰る時間が困るわ』って愚痴も私のせいになってしまって、言えなくなるわ」
彼女はいつもの厳しい表情を崩して、ほんわり微笑む。
しかし、冗談めかして言った彼女の口から出た「陛下」という言葉が、どんな攻撃魔法よりも鋭く僕の胸を貫く。
この人は、僕を一人前の魔導師として育てようとしてくれている。それと同時に、決定的に「臣下」としての境界線を引いている。
その境界線の向こう側、王妃としての彼女の素顔に触れたいと願うのは、国家反逆にも等しい禁忌だろうか。
やがて魔道具調整が終わり、二人で準備室の扉の鍵を閉め、外に出ると、いつの間にか雨――魔力を帯びた不思議な雨が降り始めていた。
外套を忘れた僕は、王立魔法学院の玄関の軒先で立ち往生する。隣に立った彼女は、学院の先に続く街道を見つめながら少しだけ口角を上げた。
「シモンズ導師、外套は?」
「あ、忘れました。雨が上がるまでこのままここで待とうかと」
「そう。私はちょうど迎えが来たみたい。一緒に宿舎まで送ってあげたいけれど、これから晩餐に列席するから、ごめんなさいね」
王立魔法学院の門を通り抜け、玄関の前に装飾が施されたマギモービルが静かに停まった。ハザードランプ代わりに灯された魔導灯の鮮やかな緋色が、濡れた石畳を規則的に照らす。
マギモービルの扉が開き、この国の王その人が、彼女を包み込むような豪華なショールを持って降りてきた。
「お待たせしました、マチルダさん。遅くなってすいません。会議が長引いてしまいました」
その親密で力強い声と一緒に渡されたショールに身を包み、彼女の表情がふわりと綻ぶ。魔法学院でも、執務室でも一度も見せたことのない、一人の愛される妻としての顔だった。
「いえ、そんなに待つほどでは。あ、こちら新しく入ったシモンズ導師。私の指導を受けている者です」
その言葉に王が僕の方に視線を当てる。
「君がシモンズ導師か。マチルダから聞いている。期待しているよ」
その王の王らしくもない気さくな言葉に、僕は思わず、傅き、頭を垂れる。
「失礼しました。陛下、有り難きお言葉、痛み入ります」
王は太陽のような笑顔で当然のように彼女の腰を支え、雨を気にせずマギモービルへと導く。僕は傅き、伏目がちにそれを眺めている。
王から声をかけられた時、僕は精一杯の忠誠を誓って膝をつくことしかできなかった。
マギモービルが音もなく動き出し、真っ赤な魔導灯の残光が雨の向こうの街道に消えていく。雨音だけが響く静寂の中で、僕はひたすらそこに傅いていた。彼女の纏っていた高貴な匂いが、先ほど彼女と過ごした時間が、冷たい雨で押し流されていく。
「マチルダ先生」
誰もいない暗がりに、届かない呼びかけが霧散する。
明日になれば、彼女はまた凛とした「上級魔導師」として、あるいは「王妃」として、僕を厳しく指導するだろう。
僕はやがてよろよろ立ち上がり、春の雨に濡れて歩く。けれど、あのハザードランプの赤い輝きが、網膜の裏側で消えてくれない。フラフラと宿舎まで歩きながら、認められたくて繰り返した呪文を思い出し、呟く。
「ファイアボール」
基礎をやり直した成果か?目の前に綺麗な火の玉ができた。冷たい雨にも負けず、その小さな火の玉は明るく輝いている。その火の光を見ていると、自然に僕の眼からは涙が出てくる。そして、僕の感情の乱れに反応するかのように、やがてその火が消える。
暗くなった目の前に反応して、僕の心は急速に冷え、体は寂しさに覆われる。
”最初から叶わぬ恋か?”
僕は、明日から何を支えに歩けばいいのだろう。
第4の恋 恋の呪い
「不甲斐ない」
アグビスタ王国の第一王女、アルジェンタ・アグビスタは、冷たいフロアの上で己の無力を呪っていた。視界はどろりと濁り、全身の血管を焼け付くような熱が駆け巡る。いつものように食事をし、勉強をし、ダンスの練習をしていたら急に動けなくなったのだ。よく見ると体に黒い線が這っている。それが縛る様に体を覆い、自身を硬直させ、絞めつけた。
「痛い、苦しい」
彼女ははしたなくも悲鳴を上げた。
アグビスタ王国の宮廷魔術師、呪術関係者、薬学師たちが狼狽し、「もう手遅れだ」と匙を投げた声が意識の向こうで遠くに聞こえていた。隣国への治療依頼も出し尽くしたとのことだ。意識が薄れていく中、アルジェンタの視界が閉じていった。自分はもうすぐ死ぬのだと悟った。
「可哀そうに。苦しかっただろう」
低く、心地よく響く声。そこにいたのは、彼女の知らない男の声だった。男はアルジェンタが丸まっているベッドの横に膝をつくと、治療のため躊躇なく、その手で彼女のお腹に触れた。彼女は、意識が薄れる中でも、その感触だけははっきりと分かった。
(私は王女だ。な、何を……無礼な……!)
彼女は怒鳴ろうとしたが声が出ない。しかし、唇は動いた。唇を動かすと、生きていることを感じさせる強い甘さを感じた。男は彼女に話しかけていた。
「アイスクリームだよ。甘くて冷たいのが分かる?頑張ればもっと食べられるよ。頑張れるかな?」
あー、唇が濡れているのはこのせいか?男は彼女の口の中に冷たくて甘い何かを押し込んできた。その甘さが痛みを少し和らげているが、呼吸は依然として、ぜーぜーと荒く、息が上手く吸えず、苦しかった。
男の掌は彼女のお腹にあった。
「ヒール」
の呪文とともに、温かい魔力を彼女の体に注入し、お腹の中でその魔力を動かした。お腹を探るように、温かい魔力が動き、やがて動きを止め、しがみついている何かを掴み、剥ぎ取った。その強烈な痛みに彼女が思わず声を上げた。
「うっ」
その呻き声を意にも介さず、男は叫んだ。
「やった。上手くいった」
その声に併せる様にお腹の辺りからごそりと何かが抜きとられ、痛みのために丸まっていた彼女の体が反射的に伸びた。
彼女がお腹に在った物の喪失感を感じていると、やがて、痛みも苦しみも和らぎ、呼吸も楽にできるようになってきた。彼女は治療が成功したことを感じていた。
そして、男は思いもよらぬ行動に出た。
まだ、口も動かせない治療したばかりの患者にポーションを無理やり飲ませようとしたのだ。当然、彼女は咽てその大半をこぼし、それは口の周りを伝って水滴となり、零れ落ちていった。その様子に慌て、彼女の口元の水滴を布で拭きながら、治療のためにはだけた彼女の衣服を整え始めた。
彼はポーションを一匙掬い、彼女の口元に近づけたが、上手く口が動かなかった。それから、彼は意を決した様に、ポーションを口に含むと、ゆっくりと口移しでポーションを飲ませた。その液体は彼の唇から彼女の唇を通し、時間をかけて彼女の体を潤していった。干からびた体が潤いを取り戻したように、彼女の顔や肌に生気が出て来た。
ゆっくりと彼女が目を開けると、目の前に見知らぬ男が居た。
その目覚めたのに驚いたのか、男は彼女から反射的に離れた。
「貴方は誰?」
彼女が見つめた先の男は口を開いた。
「僕は貴方の治療をしたラインハルトと言う者です。怪しい者ではないと言ってもこの状況では十分怪しいと感じられると思いますが、貴方を救おうと治療をしておりました。上手く治療できたと思います」
と、彼は回りくどい言い訳をした。その言葉に素直に彼女は反応した。
「私は苦しくて死んでしまったのかと思った」
彼は言った。
「貴方は大変な経験をなさいました。でも、大丈夫です。その苦しみの原因である呪いの元を僕が取り除きました」
「呪い?私を苦しめたのは呪いだったの?私が誰に恨まれることをしたのかしら」
彼女の自然に出た言葉に、
「僕には分かりかねます」
彼は困ったように答えた。
「でも、そんな中でも私は夢の中で冷たくて甘い物を食べていた。それをもっと食べたいと望んだの。それが生きる力になったのかもしれない」
「いえ、それが夢ではありません。僕が貴方に食べさせたアイスクリームと言うものです。夢ではない証拠に食べてみますか?」
「えー、食べてみたいわ」
「そうですか?」
彼は何処からかカップに入ったアイスクリームを取り出し、スプーンで1匙掬うと彼女の口に近づけると、彼女はパクリと食いついた。
「冷たくて甘い。夢の中で味わったモノと同じ」
「だから夢ではなかったのですが。もう少し、食べますか?」
「えー、いただくわ」
「寝たままじゃ食べにくいので、起き上がれますか?」
「多分、大丈夫です」
彼女は起き上がろうとしたが、上手く起きられず、彼の手伝いが必要だった。ようやく起き上がると、彼はアイスクリームとスプーンを渡して来た。
彼女は、当然のようにそれを食べ始め、あらかた食べつくすと、今更気づいたように、
「ところで、ここは何処?」
と、言った。
呪いの治療を終えたアルジェンタを待っていたのは、豪華な部屋と献身的な看護師だった。その甲斐もあり、鏡に映る彼女は以前にも増して艶やかになった。また、リハビリ用に彼女にあつらえられた風の魔法陣が書かれたドレスは軽く動きやすかった。
しかし、彼女のファーストキスを奪ったあのラインハルトはあれ以来現れなかった。聞くと、あの男は少しも偉ぶらないが、カタリニア王国の王であると言う。ときおりアイスクリームの甘さを思い出すたび、自然と彼の顔が浮かんだ。そして、不意に唇へ触れた温もりまで蘇り、頬が熱くなった。
「いかがですか?アルジェンタ様」
扉が開き、そこには簡素な服を着た男が立っていた。ラインハルトだった。手には体力を回復するポーションを持っていた。王は、まだ、アルジェンタの様子を心配していたのだ。それは、義務なのか、好意なのか?
ドクン、と心臓が跳ねる。
助けてもらったお礼を言わなきゃ。礼儀も知らない世間知らずの可愛くない王女だと思われてしまう。
”ありがとうございました”
たった十文字にも満たない言葉が、喉の奥にこびりついて離れない。
呪いは解けた。けれど、アルジェンタの心には「恋」という魔法でも解けない厄介な呪いがかかってしまったようだった。
彼女はこのままの生活が続くことを神に祈った。
けれど、その願いが叶わないことを、この時の彼女はまだ知らなかった。
第5の恋 恋の魔法使い
「ありえない……」
カミーユの唇から漏れたのは、驚愕と、ある種の絶望だった。
かつて「組織の論理は肌に合わない」と言い残して国を去ったアウレリウス。その彼が今、魔法障壁を前にして放った『ファイアボール』は、彼女の知るそれとは根底から異なっていた。
儀式的な詠唱も、幾何学的な魔法陣の展開もない。ただ、一瞬の閃光と、極限まで削ぎ落とされた魔力の波動。それは伝統と権威を背負う魔法相大臣としてのカミーユを、一瞬で置き去りにする「未来」の姿だった。
「久しぶりだね、カミーユ大臣。……いや、その顔を見ると、あまり歓迎されていないようだ」
皮肉げに笑うアウレリウスに、彼女はプライドをかなぐり捨てて詰め寄った。
「どういうことなの、アウレリウス。その……術式は。一体、何を得たというの」
「この国の賢者に教わったのさ。君も紹介しようか? もっとも、君のような魔法国の秀才『閣下』には、彼の理論は耐えられないかもしれないがね」
アウレリウスに導かれ、カタリニア王国の玉座に座っていたのは、ラインハルトだった。カミーユは外交官としての礼儀すら忘れ、王に問いかけた。
「アウレリウスに新しい魔法を教えたのは、あなたですね? 私にも……大臣としてではなく、一人の魔導師として、貴方本人からその理を教えてください」
側近たちの非難を制し、ラインハルトは困ったように、けれど穏やかに微笑んだ。
「執務もあるので急に言われても困りますが……。分かりました。時間をとりましょう」
控えの間で待つ間、カミーユの胸は高鳴っていた。それは未知の深淵に触れる恐怖ではなく、真理を追い求める純粋な知的好奇心。食事を待つ子犬のような瞳で彼を待つ彼女の前に、やがてラインハルトが現れた。
「僕の考える魔法は、空気中の『魔素』を使います。魔力とは、いわば魔素を包む『袋』に過ぎないんです」
ラインハルトの言葉は、魔法国の常識を根底から覆すものだった。魔力を練り、ぶつける。それが魔法の全てだと信じてきた彼女にとって、それは天動説が地動説へと変わるほどの衝撃だった。
「分からん。全く、分からないわ」
理論だけでは追いつけない。悲しそうに首を振る彼女に、ラインハルトは提案した。
「ならば、体験した方が早いでしょう。『クリーン』の魔法をかけます。手順を確認しながら行いますから、感じてみてください」
ラインハルトの手が、カミーユの背に添えられる。
「まず、僕の魔力で君を覆います。感じますか?」
「感じる」
「次に、その隙間に魔素を充填します。何かがまとわりつく感じがしませんか?」
「よく、分からないけれど、何かが、層になっているような」
「そうです、それが魔素です。クリーン」
閃光。身体を通り抜ける清涼な衝撃。
「もう一度。もう一度、お願い」
彼女は懇願した。真理に触れたいという渇望と、それ以上に、彼が放つ魔力の温もりの中にいたいという無意識の欲求が混ざり合っていく。
「分かった、分かったわ!」
ついにその理を掴んだカミーユは、震える手で呪文を紡いだ。
「天地の理にそって――ファイアボール!」
放たれた業火は、かつての彼女のものより数十倍の密度を持ちながら、術者への負担は驚くほど少ない。虚脱感がない。効率の次元が違う。それに凄い威力だ。
「どうでしょうか?」
思わず、カミーユがラインハルトに問いかけた。
「お見事です。やはりカミーユさんには、素晴らしい才能がある」
ラインハルトの賞賛に、カミーユの目から涙が溢れた。
長年、伝統という重圧の中で、どこかで行き詰まりを感じていた孤独な研究。その暗闇に、彼は最高の光を与えてくれた。
涙が乾く頃、彼女の瞳には、さきほどの魔法よりも熱く、消えない火が灯っていた。それは、ラインハルトが意図せずかけてしまった、最強の呪い。
魔法の真理を求めて扉を叩いた魔導師は、いつしかその扉の主から目を離せなくなっていた。
幾度となく重ねた魔力。
幾度となく交わされた問答。
そのひとつひとつが、気づかぬうちに彼女の心へ術式を刻み続けていた。
やがて完成したのは、『恋』という、二度と解けない魔法だった。




