第5話♨七泉の湯守、誕生する
宿を建てるには、建物の図面だけでは足りない。
それはアレクシスに言わせれば当然のことだった。
「箱だけ作ってどうする」
と、彼は真顔で言う。
「宿は湯が主だ。建物は湯を生かす器でしかない」
「その“器”の方を作る職人の前で、ようもまあそういう言い方をするのう」
と、リューシェが呆れる。
「いや、でも事実だろう」
「事実でも言い方というものがある」
「おぬし、昔から正しいことを一番かわいげなく言う癖があるぞ」
「必要な時は柔らかく言う」
「湯の話になると消えるのじゃ、その柔らかさが」
山腹の仮詰所の外には、朝の白い息のような湯気が細く立っていた。
宿の設計が動き出したとはいえ、まだ基礎石すら置かれていない。だが、アレクシスの関心は既に次の段階へ移っていた。
建てる場所は決まりつつある。部屋の大まかな格も決まった。馬車寄せも厩舎も、広間も厨房も輪郭を持ち始めている。
では、その中心――七つの湯は、どう使い分けるのか。
そこが曖昧なままでは、どれほど立派な宿を建てても意味がなかった。
この日の朝、詰所の机の上には羊皮紙が七枚並べられていた。
それぞれの上には、湧き口の位置、湯量、温度、匂い、色、地面への染み込み方、日中の変化、夜明け前との違いなどが細かく書き込まれている。几帳面というより執念深い記録だ。
ベルノルトがその一枚を持ち上げ、引きつった顔で言った。
「旦那様、これは何です」
「見れば分かる」
「分かります。分かりますが、何です」
「赤湯の朝昼夕の温度変化だ」
「そこは分かっています」
「なら問題ない」
「問題は、“そこまで記録するのか”という方です」
「する」
「即答……」
アレクシスは机の上に小さな石を置き、それを湯口に見立てて配置を変えていた。
「赤湯は朝に少し熱が落ちる」
「たった一度だろう?」
と、ベルノルト。
「“たった一度”ではない。一度だ」
「同じです」
「違う。客にとっては大違いだ」
「客はそこまで気づきますか」
「気づかない者もいる」
「では」
「気づく者もいる」
「そこを拾うんですか……」
「拾う」
リューシェが机の向こうから鼻で笑う。
「おぬし、いよいよ本格的に湯の番人じみてきたのう」
「最初からそう言っている」
「最初は“宿主になる”と言うておったぞ」
「宿主にもなる」
「だが今やっておることは、帳場の計算でも食材の買い付けでもなく、湯の温度表を眺めて唸ることじゃ」
「大事だ」
「それは分かるが、顔が本気すぎる」
「主様、最近は本当にその話ばっかりです」
と、ベルノルト。
「昨日も夕食の席で、“白湯は夕方の方が肌当たりが柔らかい気がする”と三度言いました」
「二度だ」
「回数の訂正が入るのが怖いんですよ」
「正確さは大事だ」
「それ、政務の時も同じ熱量で言っていただきたかった」
アレクシスは聞こえなかったふりをして、羊皮紙の端に書き込みを加えた。
七つの湯は、それぞれ顔が違う。
見た目の色や匂いだけではなく、時間帯、天気、地熱、岩の温まり方で、わずかに性質を変える。
赤湯は鉄気が強く、古傷や冷えに向く。
白湯は柔らかく、肌あたりが穏やかだ。
青みを帯びた鉱泉は、妙に頭の奥がすっきりする。
硫黄泉は刺激が強く、入る者を選ぶ。
塩気を含んだ湯は保温に優れ、冬に真価を発揮するだろう。
清湯は癖が少なく、薬草や貸切の工夫がしやすい。
そして岩棚のぬる湯は――長く浸かるための湯だ。
それらを一つずつ、「湯」としてではなく「宿の中でどう生かすか」として定めていく必要がある。
「結局のところ」
と、アレクシスは机の前で腕を組んだ。
「客に勧める基準を先に決めておきたい」
「基準?」
と、リューシェ。
「うむ」
「どういう客に、どの湯を、どういう順番で使わせるかだ。長旅の者、貴族、湯治客、冒険者、年寄り、魔術師、怪我人……向いている湯が違う」
「宿を開く前から、もう客に湯を割り振る気満々か」
「当然だ」
「のう、ベルノルト」
「はい」
「やはりこの男、宿主というより湯守では?」
「最近ますますそう思います」
「二人で勝手に肩書きを増やすな」
「減るよりはよかろう」
「減らす話はしてない」
リューシェは記録の束を手に取り、目を通し始めた。
彼女は最初こそ、「おぬしがどこまで本気で湯に狂っておるか見てやる」と面白半分に首を突っ込んだ部分もあった。だが、湧き口を一つ一つ見て回り、湯脈の流れを読み、日ごとの差まで記録し始めた頃から、その目つきは変わっていた。
もともとリューシェは、森と水と地の流れを読むことに長けている。
魔術師としても一級だが、それ以前に長命の種族特有の感覚で、土地の“生き方”を見るのだ。
今も、白湯の記録を見たあとで小さく首を傾げる。
「主様」
「何だ」
「白湯、昨日の夕方は柔らかかったが、今朝は少しだけ石膏が勝っておる」
「……やはりそうか」
「おぬしも気づいておったか」
「肌に残る感じが違った」
「相変わらず鼻と皮膚の感覚だけは妙に鋭いのう」
「だけとは何だ」
「剣もそこそこ」
「そこそこ?」
「冗談じゃ。剣はかなりじゃ」
「かなり、で済ませるな」
「湯の話の邪魔をするな」
ベルノルトが記録板を抱えたまま、ひどく疲れた顔をした。
「すみません、聞いてもいいですか」
「何じゃ」
「今の会話、普通の人間には分からないんですが」
「安心せい。わしにも半分くらいしか分からん」
と、バルドが戸口から言った。
いつのまにか来ている。
「猟師殿、来てたんですか」
「来ておった。こやつらの湯談義を聞いとると、妙に腹が減るのう」
「腹が?」
「“いい湯”の話ばかりしおって、飯の話みたいな顔をするからじゃ」
「否定できん」
と、アレクシス。
「湯は食事に近いところがある」
「ないと思います!」
と、ベルノルト。
「いや、わりとあるぞ」
と、バルド。
「良い湯に入った後の顔は、良い汁物を飲んだ後の顔に似る」
「この猟師、思ったより分かっておるのう」
と、リューシェ。
「主様、仲間が増えたぞ」
「湯狂いの輪を広げるな」
その日の調査は、七つの湯を回るところから始まった。
まず赤湯。
岩肌に赤茶が沈着し、流れた跡が褐色に筋を引いている。朝の冷えた空気の中でも、そこだけ熱を持って見えるような湯だ。
アレクシスは湯口の縁へしゃがみ込み、木匙で湯をすくって温度を測った。もちろん魔道具などではなく、手首と指先と経験でだ。
「昨日より半度ほど落ちている」
「そこまで分かるものか?」
と、バルド。
「大体だ」
「大体で半度を言うな」
「朝は地表が冷える。湯量は変わっていない」
「鉄気は安定しておる」
と、リューシェが岩へ触れながら言う。
「湧き筋が深い。これは急には死なぬ」
「宿での役割は?」
と、ベルノルトが記録板を構える。
「古傷、冷え、重労働の疲れに向く。最初に勧める湯として強い」
「では“赤湯=老兵、湯治客向け”と」
「雑にまとめるな」
「えっ」
「老兵でも熱に弱い者はいる。初回は短く。長旅の貴族にも向く場合がある」
「書くこと増えました」
「増やせ」
「はい……」
次は白湯。
淡く濁る、柔らかな湯だ。朝日はまだ斜めで、湯面が乳色に鈍く光る。
リューシェはここで長く黙った。指先を湯へ浸け、目を閉じる。
「どうだ」
と、アレクシス。
「優しいの」
「そうだな」
「優しい、で済ませてよいものか」
「では?」
「肌を守る湯じゃ。刺激が少ない。乾いた皮膚、日差しにやられた肌、旅塵で荒れた顔。そういうものをなだめる」
「……貴族の女どもが好みそうだな」
と、バルド。
「女ども、ではなく客だ」
と、アレクシス。
「おぬし、そこは妙に真面目だな」
「宿主だからな」
「もう宿主の顔しとるわい」
ベルノルトが書きつけながら呟く。
「白湯……女性客向け……」
「女性客向け、だけにするな」
と、リューシェ。
「肌は男にもある」
「ありますけど」
「年寄りも子どもも使いやすい。湯治にも、上等な湯浴みにも向く。そういう湯じゃ」
「分類が難しいですね」
「だから面白い」
と、アレクシスが真顔で言う。
「そういうことを言う時、本当に楽しそうですね……」
青みのある鉱泉では、二人とも少し様子が変わった。
この湯だけは、見た目の面白さ以上に、何か別の働きがあると二人とも感じている。
リューシェが岩の割れ目へ掌を当て、低く言った。
「主様」
「何だ」
「これ、魔の巡りに触っておる」
「ああ」
「やはり分かるか」
「頭が軽くなる感じがある」
「魔術師が好みそうじゃな」
「だが一般客に“魔力回復の湯”などと言いふらすな」
「面倒が増えるからか?」
「増える」
「正直じゃのう」
ベルノルトが首をかしげる。
「では、これはどう扱うんです」
「静かな湯殿にする」
と、アレクシス。
「広くは取らない」
「なぜ」
「うるさい客を入れたくない」
「分かりやすすぎる理由ですね」
「実際そうだろう」
「否定はしません」
「考えごとをしたい客、魔術師、旅の書記官、長く馬車に揺られて頭が重い者。そういう者向けじゃな」
と、リューシェ。
「そして、主様自身がたまに籠もる」
「否定しない」
「早い」
硫黄泉では、最初から全員の反応が一致した。
「きついな」
と、バルド。
「強いですね」
と、ベルノルト。
「強いのう」
と、リューシェ。
「ああ、強い」
と、アレクシス。
匂いも温度も刺激も明確だ。好む客はいるだろうが、雑に扱えば嫌われる。
「これは“名物”にするには向いておるが、最初に放り込む湯ではない」
と、リューシェ。
「熱に慣れぬ者を入れれば嫌がるじゃろ」
「同感だ」
と、アレクシス。
「順番を間違えるな。赤か白を先にして、身体を慣らしてからだ」
「宿の札に注意書きを出した方がいいですか?」
と、ベルノルト。
「出す」
「簡潔にな」
と、リューシェ。
「“長湯するな”の一言でもよい」
「書ける」
「なぜその顔でやる気になるんです」
「大事だからだ」
「最近それしか聞いてない気がします」
塩気を含んだ湯では、アレクシスが珍しく長い時間黙った。
湯から上がった後もしばらく身体が冷えにくい。山の風が当たっても、内側の熱が残る。これは冬の価値が高い。
「冬客の切り札になる」
と、彼は低く言った。
「切り札?」
と、バルド。
「雪の中を来る者にとって、湯上がりの冷えは敵だ。だがこれなら、部屋へ戻ってからも持つ」
「主様、今の顔」
と、リューシェ。
「完全に商売人の顔じゃぞ」
「宿主だ」
「さっきまでは湯守じゃったのに」
「両方だ」
「欲張りじゃな」
「活かせるものを活かす」
「第四話でも聞いた気がしますね、それ」
と、ベルノルト。
「言ったか?」
「言いました」
清湯は、最初は地味に見えたが、調べるほどに使い道が広かった。
クセが少ない。匂いも色も強すぎない。けれど湯として死んでいない。
これなら、薬草を合わせても湯そのものが負けない。
リューシェがそこで目を細めた。
「これはわしが預かりたいの」
「何をだ」
「薬湯じゃ」
「まだ始まってもいないのに?」
「始まる前から考えておる。季節ごと、客ごと、寝つきの悪い者向け、冷えの強い者向け、傷の治りを待つ者向け……」
「主様、リューシェ殿まで湯側に寄ってきました」
と、ベルノルト。
「最初から半分はそうじゃ」
と、リューシェ。
「だが今、かなり面白くなってきた」
「面白いか」
と、アレクシス。
「面白いとも。おぬし一人だと、良い湯をそのまま出すところで終わる。だが客に合わせて少し手を足す余地があるなら、宿としての表情が増える」
「……確かに」
「その顔じゃ。その顔を見ると、わしもやる気になる」
最後に、岩棚のぬる湯。
ここへ来ると、全員の声が自然と小さくなる。
風がやわらかく抜け、谷が見え、湯は静かにこぼれ落ちる。熱くない。だがぬるすぎもしない。長く浸かることを許す湯だ。
アレクシスは岩へ腰を下ろし、しばらく黙っていた。
リューシェも隣に立ち、珍しく茶化さない。
「ここは……」
と、ベルノルトが言いかけて、言葉を切る。
「何だ」
と、アレクシス。
「なんだか、静かですね」
「静かじゃ」
と、バルド。
「ここは昔から、長く生きた者ほど気に入る」
「年寄り向き?」
「そういう意味だけではない」
と、リューシェが珍しく穏やかな声で言った。
「騒ぐ湯ではない。言葉を減らす湯じゃ」
「……なるほど」
と、ベルノルト。
「なんとなく分かる気がします」
アレクシスは湯へ手を入れ、その温度を確かめるように指を動かした。
「ここは露天だ」
「最初から決めておるな」
と、リューシェ。
「決めている」
「貸切にするか?」
「場合による。だが静けさは守りたい」
「では客を選ぶぞ」
「選ぶ」
「また即答じゃ」
「ここは誰でも彼でも騒いで入る場所ではない」
「おぬし、自分が入りたいだけでは?」
「否定しない」
「正直でよろしい」
七つの湯を一巡りした頃には、昼がかなり傾いていた。
詰所へ戻ると、机の上の羊皮紙はさらに増えた。ベルノルトが泣きそうな顔でまとめ役をしている。
「赤湯、白湯、青湯、硫黄泉、塩泉、清湯、ぬる湯露天……」
「名前は仮だ」
と、アレクシス。
「仮でも多いです」
「増やすか?」
「減らしてください」
「減らせん」
「ですよね!」
リューシェは机の向こうで腕を組み、記録を眺めた。
「こうして見ると、やはり役割が違うのう」
「違う」
と、アレクシス。
「だから分ける」
「混ぜる気は最初からなかったくせに」
「なかった」
「知っておる。だが、今日でそれが理屈として固まった」
「理屈?」
「うむ。ただ“七つあるから全部使う”ではない。“七つとも違う役目を持たせられるから、全部使う価値がある”になった」
「……ああ」
アレクシスはそこで短く頷いた。
「そうだな。それだ」
ベルノルトが首を傾げる。
「つまり?」
「つまり」
と、アレクシスは机の上の羊皮紙を一枚ずつ押さえながら言った。
「湯がただ湧いているだけでは、まだ山の恵みだ。だが客にどう使わせるか、どう休ませるか、どう身体を整えさせるかまで決めた時点で、宿の湯になる」
「……おお」
と、ベルノルト。
「なんか、ちょっと格好いいこと言いましたね」
「たまには言う」
「“たまに”なんですね」
「普段から格好いいことばかり言うと胡散臭い」
「自分で言います?」
「事実だ」
「主様、おぬし時々、妙なところだけ客観的じゃな」
と、リューシェが笑う。
そこからの作業は、もはや戦友同士の連携に近かった。
アレクシスが客の動線を考える。
リューシェが地脈と湯脈の無理のない導きを読む。
アレクシスが「ここは湯量を落としたくない」と言えば、リューシェが「ならこの石組みは動かすな」と返す。
リューシェが「ここへ導けば冬に死ぬ」と言えば、アレクシスがすぐに図を直す。
昔のように、魔王軍の陣を前に作戦を練っているわけではない。
だが、向き合い方はどこか似ていた。
「主様」
「何だ」
「白湯と清湯の導線、近づけすぎるな」
「混ざるか」
「混ざりはせぬが、気が喧嘩する」
「では離す」
「その代わり、客の足は少し増えるぞ」
「構わん。歩く価値がある湯にする」
「出た。格好いいことを言う時だけ妙に決まる」
「褒めてるのか」
「半分はな」
「また半分だ」
「年寄りの評価は――」
「もういい」
と、アレクシスとベルノルトが同時に言い、リューシェが腹を抱えて笑った。
日が傾き、湯気が夕焼けの色を受け始める頃。
詰所の机の上には、七つの湯それぞれの役割が書き込まれた新しい一覧が並んでいた。
赤湯――古傷・冷え・長旅向け。初回は短め。
白湯――肌・乾き・刺激の少なさ。貴族にも湯治にも。
青湯――静けさ・魔力疲労・思考の整理。小浴場。
硫黄泉――刺激湯。長湯厳禁。順番に注意。
塩泉――冬場の要。湯上がりの保温。
清湯――薬湯・貸切・調整用。
岩棚のぬる湯――露天。静けさ優先。宿の顔。
ベルノルトが、最後の一行を読み上げる。
「“岩棚のぬる湯――宿の顔”。これ、正式に書くんですか?」
「仮だ」
と、アレクシス。
「でも本音ですよね?」
「本音だ」
「やっぱりそこが一番好きなんですね」
「好きだ」
「即答ですか」
「好きな湯は好きだと言う」
「その素直さ、政務でも少し発揮していただければ……」
「政務には別の顔がいる」
「今は湯の顔しかないです」
「それでいい」
「開き直りましたよ、この人」
リューシェは苦笑しながら、椅子の背へもたれた。
「主様」
「何だ」
「おぬし、もう勇者より湯守の顔の方が板についておるぞ」
アレクシスは返事をしなかった。
ただ机の上の記録を見下ろし、そのまま少しだけ口元を緩めた。
否定しない時は、大抵その通りなのだと、リューシェは昔から知っていた。




