第4話♨勇者、宿の設計にうるさすぎる
山腹に宿を建てると決めてから、アレクシスの動きは驚くほど早かった。
いや、正確に言えば、早いだけではない。
細かかった。
そして何より、妙なところに執念深かった。
古い鉱山道の外れに仮設の詰所が一つ建ち、その横に急ごしらえの作業小屋ができ、さらにその中には大きな作業机が運び込まれた。机の上には羊皮紙、木炭、定規、分度の役目をする金属の輪、縄、杭、蝋板のメモ、そして山腹の地形を粗く写した図。
宿そのものはまだ影も形もない。
だが、アレクシスの頭の中では、もう半分以上できあがっていた。
朝から詰所に集められた職人たちは、最初こそ「大貴族様の道楽仕事か」と少し身構えていた。
集まったのは、近隣の町から呼ばれた石工頭のドミニク、木工職人の親方ヘルマン、鍛冶と金具を請け負う女鍛冶師マルタ、暖炉と煙道に強い炉職人のヨアヒム、それに地元で荷運びと基礎工事に慣れた男たちだ。
皆、腕には自信がある。
だが相手が相手だ。王国最上位貴族の名が出ている以上、無礼はできない。かといって、貴族の気まぐれに振り回されるのも御免だ。そういう警戒が、顔に出ていた。
そこへ、アレクシスが現れた。
旅装の上から作業向きの厚手の外套を羽織り、机の前へ立つ。隣にはリューシェがいて、最初から面白そうな顔をしている。
「集まってくれて感謝する」
と、アレクシスは言った。
「先に断っておくが、私は豪奢な館を建てたいわけではない」
「では狩猟館ですか?」
と、石工頭のドミニクが訊く。
「違う」
「山荘?」
「違う」
「別荘?」
「違う」
「では何を」
「宿だ」
「…………」
職人たちの間に、微妙な沈黙が落ちた。
木工親方ヘルマンが、いかにも遠慮を選びながら口を開く。
「閣下。念のため伺いますが、“宿”というのは、街道沿いにある普通の宿屋のことですかな」
「普通ではない」
「でしょうな」
「だが、城でも宮殿でもない。旅人が泊まり、湯に入り、飯を食い、眠り、また来たいと思う場所だ」
「……なるほど」
「そしてここにあるのは、七つの湯だ」
「七つ?」
と、女鍛冶師マルタが眉を上げる。
「そんなに湧いているのか」
「ああ」
「全部使う気か?」
「当然だ」
「当然なんですかい」
「当然だ」
リューシェが、すかさず横から口を挟む。
「この男はな、湯が一つでも湧いておれば宿を建てたかもしれんが、七つあると知った時点でもう戻れぬのじゃ」
「戻る気は最初からない」
「魔王城攻略の作戦会議より本気ではないか」
「魔王城より複雑だ」
「言い切りおったぞ」
「主様」
と、詰所の端で記録板を持っていたベルノルトが呻く。
「それを職人の前で言うと、全員引くと思います」
「引いているな」
と、リューシェ。
「引いてますね……」
と、ベルノルト。
だがアレクシスは気にせず、机の上の図へ手を置いた。
「まず全体像だ。街道から分岐を引き、馬車がここまで上がれるようにする。傾斜は緩める。急坂のままでは上等な馬車の車輪が取られるし、湯治客の足にはきつい」
「ふむ」
と、ドミニク。
「どのくらい緩く?」
「雨の後でも滑りにくい角度にしたい。石を噛ませ、外側へは水を逃がす」
「そこまでは普通ですな」
「だが、馬車寄せの前は一度平らに落とす」
「平らに?」
「扉を開けた時、貴婦人が裾を踏まずに降りられるようにだ」
「……ほう」
「同時に、老いた湯治客が杖で降りても怖くない段差にする」
「貴婦人と年寄りを同じ尺度で見ておられる?」
「宿では似たようなものだ。転ばせてはいけない」
マルタが吹き出した。
「旦那、それはちょっと面白いね」
「笑い事ではない」
「いや、でも筋は通ってる」
アレクシスは図の上を指でなぞった。
「次に本館だ。本館は石と木の混成にする。下は石で重く、上は木で軽く」
「雪を落とすためか?」
と、ヘルマン。
「それもある。だが冬場の冷えを全部石に食わせるのは嫌だ。湯上がりの客が廊下で冷える」
「廊下?」
「冬に冷えすぎない構造にしたい。二重壁までは求めないが、風抜けの位置は考える」
「山の宿で廊下の冷えを気にする旦那は初めて見た」
「嫌か」
「嫌ではないが、面倒だ」
「面倒なのは知っている」
「知ってて言うのがいちばん厄介ですな」
と、炉職人ヨアヒム。
「暖炉はどうします?」
「広間には大きいものを一つ。ただし火の熱が食事の席へ偏らないようにしたい。湯上がりの客は火に当たりすぎると逆にのぼせる」
「そこまで見るか……」
「見る」
「見ますか……」
「見る」
リューシェが横でくつくつ笑う。
「のう、おぬしたち。今のうちに慣れておくがよいぞ。この男、湯のこととなると本当に引かん」
「湯だけじゃないですよね、これ」
と、ベルノルト。
「寝床の話になっても引かん」
「食事でも引かん」
「掃除でも引かん」
「全部駄目じゃないですか」
「全部譲らんタイプじゃな」
「全面的に誤解がある」
と、アレクシス。
「私は必要なところだけ言っている」
「必要なところが多すぎるのじゃ」
「宿とはそういうものだ」
「それを言われると、なんか言い返しにくいのう」
ヘルマンが木炭を取り、粗い板の上に線を引き始めた。
「部屋割りはどうします。全部同じ広さですか?」
「違う」
「分ける?」
「分ける。貴族向けの客室と、長逗留の湯治客向けの部屋は格を変える」
「まあ、それは普通ですな」
「ただし」
「ただし?」
「寝心地だけはどの部屋も妥協しない」
「…………」
「貴族向けは調度と広さで差をつければいい。だが、寝床が粗末なのはだめだ」
「湯治客の部屋まで?」
「当然だ」
「なぜです」
「湯に入って身体をゆるめたあと、寝床で台無しにされたくないからだ」
「誰が」
「客が」
「いや、そうなんですが」
ドミニクが腕を組む。
「寝床にそこまで気を使う宿は珍しいですな」
「珍しいか?」
「普通は身分で露骨に分けます。上の客には羽根を増やし、下の客には藁を厚くする程度」
「藁を厚くしても湿っていれば意味がない」
「そこも見ます?」
「見る」
「やっぱり面倒くさい旦那だ」
だがその言い方には、最初の露骨な警戒より少し柔らかいものが混じっていた。
アレクシスの要求は細かい。
だが、見栄のために細かいのではない。
理由があり、しかも客の快適さへ向いている。
それが、職人たちにも少しずつ伝わり始めていた。
「湯殿はどうします」
と、ヨアヒム。
「一つの大浴場にまとめる方が楽ですぜ。火回りも、床の石も、排水も」
「楽なのは分かる」
「では?」
「分ける」
「やっぱりか」
「泉質ごとに湯殿を分ける」
「七つ全部?」
「全部だ」
「本当に全部?」
「全部だ」
「旦那」
と、マルタが呆れたように笑う。
「もしかして、最初からその返しを用意してないかい?」
「用意はしていない。普通の答えだ」
「その“普通”が普通じゃないんだよ」
アレクシスは机の上に小石をいくつか置き、即席の配置図を作り始めた。
「赤湯は古傷と長旅向きだ。だから本館からの導線は悪くしない。白湯は貴族や肌を気にする客も好むだろうが、湯治客にも使える。青みの湯は静かな小浴場がいい。硫黄泉は熱めだから、いきなり大勢を入れたくない。塩気のある湯は冬に人気が出る。清湯は薬草湯や貸切に向く。岩棚のぬる湯は露天だ」
「……全部、客の顔を浮かべながら言ってるのか?」
と、ドミニク。
「浮かぶ」
「まだ宿もないのに?」
「ないから考える」
「先に客の顔が浮かぶ宿主、ちょっと怖いな」
「ありがたいとも言えるぞ」
と、リューシェ。
「こやつ、敵の布陣を読むより旅人の疲れ顔を読む方が早い時がある」
「褒めてるのか?」
「半分な」
「半分が多い」
「年寄りの評価はだいたい半分じゃ」
「またそれか」
と、ドミニクが笑い、バルドが詰所の外から「それは本当じゃ」と口を挟んだ。
どうやら老猟師は、いつのまにか戸口に座って中を覗いていたらしい。
「おう、湯狂いの貴族さん」
「その呼び方が定着しそうで嫌だ」
「諦めろ。で、建てる気は本物か?」
「本物だ」
「なら一つ言うぞ」
「何だ」
「見た目ばかり立派にするな」
「そのつもりはない」
「村の連中は、よそ者の石館にはすぐ身構える」
「分かっている」
「じゃあ、どうする」
「立派な宿にはする」
「おい」
「だが、威張った宿にはしない」
「……続きを聞こう」
「貴族が来ても恥ずかしくなく、湯治の年寄りが来ても足がすくまない宿にする」
「難しいことを言うのう」
と、リューシェ。
「見栄と居心地は両立しづらいぞ」
「だから設計で詰める」
「出た。詰める気満々じゃ」
アレクシスは図の別の位置を指した。
「広間はここだ。食堂を兼ねる」
「本館の中央か」
と、ヘルマン。
「そうだ。だが、火の位置が重要だ」
「また細かい話が来ましたな」
「聞け。厨房の熱と広間の暖がぶつかると、湯上がりの客に重い。火は必要だが、むわっとした熱気は嫌だ」
「要するに」
と、ヨアヒム。
「暖炉の位置と煙道の抜き方を工夫しろ、と」
「そうだ」
「できますよ。だが壁も屋根も合わせて考えないと無理だ」
「だから最初に言っている」
「最初から全部絡めるのか……」
「後から直す方が高くつく」
「この旦那、ちゃんと現実も見てるな」
と、マルタ。
ベルノルトが小声で言う。
「だから余計に厄介なんですよ……。全部理由が通ってしまうから……」
「おぬし、苦労性じゃな」
と、リューシェ。
「ええ、最近よく言われます」
「最近ではなく前からじゃろ」
「それもそうでした」
その後も、打ち合わせは延々と続いた。
馬車寄せの角度。
石段の高さ。
雨樋の流し方。
雪の重みに耐える梁の太さ。
厩舎を風下に置く位置。
貴族の侍女が洗面に困らぬよう、水場の距離をどう取るか。
湯治客が重い荷を持たずに済むよう、長逗留向けの部屋は一階に寄せるべきか。
酒を出す席と静かに食べたい席の距離。
夜中に足の弱い客が廊下で迷わぬよう、灯りの高さをどうするか。
職人たちは最初こそ「この旦那、ややこしい」と顔をしかめていたが、打ち合わせが半日を越える頃には顔つきが変わっていた。
ややこしいのは変わらない。
だがそのややこしさに、無駄な贅沢が少ない。
見栄だけの金具を増やせとは言わない。
無意味な塔を立てろとも言わない。
むしろ、客の足が滑るか、身体が冷えるか、眠りが浅くならないか、食後に重すぎないか――そういうことばかり言う。
つまり、宿としての機能に本気なのだ。
「旦那」
と、ヘルマンが最後に言った。
「一つ訊いていいですか」
「何だ」
「前から宿屋をやっていたんで?」
「やっていない」
「じゃあ何でここまで細かい」
「泊まる側だった」
「それだけでここまで?」
「十分だ」
「十分……ですか」
「好きな宿と、二度と行きたくない宿の違いは、大抵細部にある」
「……なるほどな」
ドミニクが腕を組んでうなずいた。
「石工の側から言わせてもらえば、最初にここまで考えてくれる施主は嫌いじゃない」
「最初は嫌そうだったが」
「嫌でしたよ。貴族の道楽仕事だと思っていたから」
「今は?」
「ややこしいが本気だと分かった」
「褒め言葉として受け取る」
「半分だけです」
「半分が多いな」
「年寄り――」
「それはもういい」
と、アレクシスが遮ると、詰所の中に笑いが起こった。
笑いが起きるようになった時点で、場はもう悪くない。
やがて陽が傾き、机の上には何枚もの新しい図が重なっていた。最初の粗い妄想図は、職人たちの手で少しずつ形を帯び始めている。
マルタは図面の端をつつく。
「旦那、湯殿ごとに金具の湿り方が違います。全部同じ鉄を使うと持ちが変わる」
「変えるべきか」
「変えるね。赤湯周りは特に」
「予算は」
「長持ちする方を選ぶなら、最初に払った方が安い」
「ではそうしよう」
「話が早い」
「必要なことには払う」
「不要な飾りは?」
「いらない」
「気持ちいいくらいはっきりしてるな」
ヨアヒムも頷いた。
「暖炉も、見せびらかす大きさより、熱の回り方優先で組めるなら助かる」
「優先する」
「ただし広間の見栄えは落ちますぜ?」
「湯上がりに居心地が良いなら、それでいい」
「本当に一貫してますな」
リューシェは机の端に腰掛け、頬杖をついてその様子を眺めていた。
「のう、主様」
「何だ」
「おぬし、戦争の前より生き生きしておるぞ」
「そんなことはない」
「ある。断言する」
「断言するな」
「するとも。魔王城攻略の前夜より本気ではないか」
「比較対象がおかしい」
「だが間違ってはおらん」
「……そうかもしれん」
「否定せぬのか」
「湯のことだからな」
「開き直ったのう」
アレクシスは苦笑し、それから机の上の図面へ視線を落とした。
そこには、まだ線しかない。
だがその線の一本一本の向こうに、もう客の姿が見えている。
長旅の疲れを抜く老騎士。
肌荒れを気にする貴族の娘。
寒い時季に塩気のある湯を求める旅人。
考えすぎて頭の重くなった魔術師。
何も言わずに露天へ入って、ただ空を見たい者。
宿とは、寝床と食事と湯を出すだけの箱ではない。
人が「また来たい」と思う理由を、積み重ねる場所だ。
それは豪奢さだけでは作れない。
細かさだけでも足りない。
両方を、行きすぎないところで噛み合わせねばならない。
アレクシスはゆっくりと顔を上げた。
「聞いてくれ」
と、職人たちへ言う。
場が静まる。
「立派な宿じゃなくていい」
「おや」
と、リューシェ。
「さっきは立派にはすると言うておったぞ」
「立派“なだけ”の宿じゃなくていい、だ」
「ほう」
アレクシスは、図面の中心を指先で軽く叩いた。
「“また来たい宿”にする」
誰もすぐには答えなかった。
だが、職人たちの顔はさっきまでと少し違っていた。
ややこしい仕事だ。面倒も多い。だが、何を目指しているかだけは、はっきり伝わった顔だった。
最初の一本の線が、そこでようやく生きた。




