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第3話♨千年エルフ魔女、呆れながら現れる

 山の湯気は、見る者によってただの白い息にも、財宝にも見える。


 アレクシスにとっては、間違いなく後者だった。


 朝から彼は、古い鉱山道の外れに設けた仮の詰所と山腹の岩場を何度も往復していた。馬で行けるところまで行き、そこから先は歩き、時には膝をついて岩の割れ目に手を入れ、時には地面に腹ばいになって湯の流れ落ちる角度を見た。


 地元の顔役たちとはすでに一度話をしている。


 この一帯の土地は、厳密には一人の領主ががっちり抱え込んでいるわけではなく、近隣の三つの集落と、鉱山が動いていた頃の古い権利書が複雑に絡んでいた。面倒だが、どうにもならないほどではない。むしろ「よそ者が適当に来て勝手に囲う」のでなければ、交渉の余地はある。


 アレクシスは最初から囲い込む気がなかった。


 湯は山のものだ。

 その恵みを宿が受けるにせよ、宿だけが独り占めする形にはしたくない。

 その方が長続きしないし、何より宿として美しくない。


 だから彼は、村の古老たちにこう言ったのだ。


「私は大きな城を建てに来たのではない。宿を作りたい。客が来れば道が整う。道が整えば商いも少しは増える。だが村の者が使う湯まで塞ぐ気はない。必要なら共同の湯場も別に作る」


 その時の村人たちの顔は、半分が不審、半分が困惑、残りの半分が「この貴族、思ったより話が通じるな」というものだった。


 半分が多い、とバルドは笑った。


 その日の昼も、アレクシスは簡易机の上に広げた羊皮紙へ、走り書きのような図を何枚も描いていた。


 街道から宿への引き込み道。

 馬車寄せの幅。

 厩舎の位置。

 本館の正面。

 客室の数。

 湯殿の配置。

 七つの湯をどう分け、どう流し、どこを露天にするか。


 書かれているのは設計図というより、熱に浮かされた男の妄想に近い。だが妄想にしては、寸法が妙に細かい。


「旦那様」

 と、ベルノルトが言った。

「何だ」

「もう三時間、同じ紙を睨んでおられます」

「三時間ではない。途中で赤湯を見に行った」

「二刻半です。誤差の範囲です」

「そうか」

「そうです」


 ベルノルトは帳簿を閉じて、肩を回した。


「一つだけ伺ってよろしいですか」

「言ってみろ」

「本当に、本気なのですね」

「何がだ」

「宿です」

「今さらか」

「今さらです。昨日までは“閣下はまた湯の匂いを追っておられる”くらいに思っていたのですが、今朝からの様子を見るに、これは本気どころではないなと」

「本気だ」

「でしょうね」


 ベルノルトは羊皮紙を覗き込んだ。


「これは何です?」

「客室棟だ」

「ではこの丸い印は」

「露天」

「多いですね」

「足りないくらいだ」

「いや多いです」

「そうか?」

「そうです。というか、七つ全部に湯殿を分ける気ですか」

「当然だ」

「当然ではないと思うのですが」

「混ぜる気か?」

「いえ」

「なら分ける」

「その理屈で押し切られると、こちらは大変困るのですが」


 ベルノルトが疲れた顔をした、その時だった。


 仮詰所の戸口の外から、からん、と小さな音がした。


 鈴ではない。金属と木が触れたような、軽い音。


 次いで、女の声が聞こえる。


「へえ。山奥にしては妙に人の気配が多いと思うたが、やはりここか」


 ベルノルトが眉をひそめた。


「来客でしょうか」

「いや」

 と、アレクシスは言った。

「来客というより厄介ごとだ」

「またですか?」

「声で分かる」

「声で?」

「分かる」


 戸が、別に叩きもせずに開いた。


 そこに立っていたのは、一見すれば十代半ばの少女だった。


 長い金髪は緩く結われ、光の差し込む戸口に立つだけで、まるで春の森の精霊のように見える。細い手足、白い肌、すっと通った鼻梁、宝石じみた翠の瞳。旅装ではあるが、着古していても不思議と様になる。耳だけが、ひと目で人ではないと知らせるように尖っていた。


 エルフだ。


 それも、ただのエルフではない。


 その少女――にしか見えない存在は、戸口で腕を組み、詰所の中を見回し、最後にアレクシスへ視線を止めると、深々とため息をついた。


「王国最上位貴族が山で湯を嗅いでおると聞いて来てみれば、本当におった」


 ベルノルトが目を見開く。

 アレクシスは、特に驚きもせずに返した。


「湯は大事だ」

「真顔で返すな」

「事実だ」

「事実でも、もう少し恥を知れ」

「なぜだ」

「なぜだ、ではないわ! おぬし今、王都でも指折りの大貴族じゃぞ!? 館で春の政務会議をしておるべき男が、山奥で岩に鼻を寄せて“鉄が強い”などと呟いておると聞いた時の、わしの気持ちを少しは考えよ!」

「呆れたか?」

「呆れたとも!」

「そうか」

「そうか、ではない!」


 ベルノルトはあんぐりと口を開けたままだった。


「あ、あの……」

「何だ」

「こちらの方は……」

「リューシェだ」

「説明が短い!」

「元仲間だ」

「もっと短くなったぞ!?」

「ではおまえが名乗れ」

「最初からそう言え!」


 エルフの少女は、わざとらしく喉を鳴らしてから、ベルノルトへ向き直った。


「リューシェじゃ。見ての通りエルフで、見た目の百倍くらい年を食っておる。そこの湯狂い……いや、元勇者と長い腐れ縁でな」

「“湯狂い”を訂正して“元勇者”を入れるのやめてください」

 と、ベルノルトが半ば悲鳴のように言う。

「いや待ってください、元勇者!?」

「元だ」

「そこはどうでもいいです! えっ、本物の!?」

「たぶん本物じゃ」

「たぶんとは何ですか!」

「わしが最後に見た時も本物じゃったから、たぶん今も本物じゃろ」

「雑だな」

 と、アレクシス。

「おぬしが真顔で湯の設計図を描いておる方が雑じゃ」


 ベルノルトは頭を抱えた。


「ええと、ええと……つまり、リューシェ殿は……その……」

「そこの男の古い仲間じゃ」

「どのくらい古い?」

「魔王の首がまだ胴についておった頃からじゃな」

「言い方」

「いやでも、そうじゃろ?」

「間違ってはいない」


 ベルノルトは完全に混乱していたが、それを面白がるようにリューシェは詰所の中へずかずか入ってきた。


「ふむ。紙が多いのう。どうせ全部、宿の図じゃろ」

「そうだ」

「やはりか。政務書類なら少しは見直したが」

「政務書類はベルノルトが持っている」

「泣いておりますが?」

「持っている」

「持っております!」


 リューシェは羊皮紙をひょいと摘み上げた。


「何じゃこれは。……客室棟。湯殿一。湯殿二。湯殿三。露天。離れ。厩舎。食堂。薬湯棟。……多すぎんか?」

「七つの湯がある」

「あるから全部使う気か」

「使う」

「欲張りじゃのう」

「活かせるものを活かすのは欲張りではない」

「それを欲張りというのじゃ」


 リューシェは紙をぱらぱらめくり、鼻を鳴らした。


「だが、ふむ……」

「何だ」

「いや。頭の中だけで建てたにしては、悪くない」

「頭の中だけではない。昨日から現地も見ている」

「それは知っておる。だから来た」

「聞きつけたのか」

「聞きつけたとも。王都で“あの大貴族殿は春の会議をほっぽって北の山へ消えたらしい”という噂が流れ、その後“どうやら湯を探しているらしい”となった」

「誤解はないな」

「誤解がないのが一番ひどい」


 ベルノルトがぼそりと言う。


「本当にそうなんですよね……」

「おぬし、苦労しておるな」

「はい」

「だが安心せよ。こやつは昔からこうじゃ」

「安心できる要素が見当たりません」

「わしは慣れておる」

「それはリューシェ殿が強すぎるだけでは……」


 リューシェは笑い、それから不意に真顔になってアレクシスを見た。


「して、どこまで見た」

「赤湯、白湯、青みのある鉱泉、硫黄泉、塩気のある湯、清湯、それと岩棚のぬる湯」

「七つともか」

「ああ」

「本当にあるのじゃな」

「ある」

「しかも岩棚のぬる湯まで?」

「あれはいい」

「おぬしがその顔で言う時は、本当に良い時じゃ」


 アレクシスは軽く顎を引いた。


「見に行くか?」

「当たり前じゃ。わしを誰だと思うておる」

「千年エルフ魔女」

「そういう大雑把な括りではなく、湯脈と霊脈を読む者じゃ」

「自称か?」

「事実じゃ。何なら、おぬしの鼻よりは役に立つ」

「鼻も役に立つ」

「役には立つ。だが、鼻だけでは地下の流れまでは分からん」

「それは認める」

「素直でよろしい」


 ベルノルトが慌てて立ち上がった。


「えっ、今からまた山へ?」

「今からだ」

 と、アレクシス。

「午後の方が水気の動きは見やすい」

 と、リューシェ。

「えぇ……」

 と、ベルノルト。

「何だその順番は」


 リューシェは戸口の外を見やった。


「バルドとかいう猟師はおるのか?」

「今は外で獣罠を見に行っている」

「では戻ったら案内させよう」

「案内がなくても大体の位置は分かる」

「そういうところが嫌なのじゃ。大体で山に入るな」

「昨日見た」

「昨日見たから今日も分かる、は山では一番先に死ぬやつの考えじゃ」

「死なん」

「死なぬのは知っておる。だが面倒は増える」

「面倒か」

「わしのな」


 アレクシスは少しだけ笑い、机の上の紙を重ねた。


「手を貸す気か」

「貸さぬとでも?」

「来た時点で半分そのつもりだと思っていた」

「半分どころか七割じゃ。残り三割は、おぬしが本当に湯で頭をやられておるのか確かめに来た」

「結果は」

「やられておる」

「言い切ったな」

「言い切るとも」


 ベルノルトが控えめに訊く。


「リューシェ殿は……その、土地のことまでお分かりになるのですか」

「分かる、と言い切ると傲慢じゃが、読めはする。山の霊脈、地下水の流れ、石の癖、湧き口が死ぬ場所と生きる場所、そのくらいはな」

「それってかなり重要なのでは……」

「重要だ」

 と、アレクシスが即答する。

「宿を建てるなら不可欠だ」

「そうなのですか?」

「当たり前じゃろう」とリューシェ。

「湯は地面から勝手に湧くものではない。地の力、水の巡り、石の割れ方、熱の溜まり方、全部が絡む。表に出ておる湯だけ見て宿を建てれば、数年で湯量が変わることもある」

「……それは困りますね」

「困るどころではない。致命的だ」

 と、アレクシス。

「だから来てもらえて助かる」

「ほう」

 と、リューシェが片眉を上げる。

「今、素直に“助かる”と言うたな」

「事実だ」

「昔は“おまえがいなくても何とかなる”と強がっておったくせに」

「若かった」

「今は?」

「少しは学んだ」

「年を取っただけとも言う」

「それもある」


 リューシェはしばらくアレクシスを見ていたが、やがてふっと笑った。


「まあよい。昔より少し扱いやすくなったのは本当じゃな」

「私は昔から扱いやすい」

「寝言は湯の中で言え」

「寝ながら湯に入るのは危険だ」

「そういう真面目さだけは一貫しておるのう……」


 そのとき、外で犬の鳴く声がし、ほどなくしてバルドが戻ってきた。


「おう、貴族さん――おや?」

 老人の目がリューシェを見て細くなる。

「なんじゃ、森の娘かと思うたら、もっと面倒な手合いじゃな」

「第一声が失礼すぎんか、この猟師」

「人を見る目があると言ってくれ」

「わしも人ではないがの」

「それもそうだ」

「切り返しが早いのう」


 アレクシスが二人を見比べる。


「知り合いか」

「顔は初めてじゃ」

 と、リューシェ。

「だが、この山を長く見てきた目をしておる」

「ふん。そっちも、ただの綺麗なエルフ娘じゃない目だ」

 と、バルド。

「なるほど、気が合いそうだ」

 と、アレクシス。

「やめろ」

 二人が同時に言った。


 ベルノルトが小さく吹き出す。


「なるほど、本当に昔からの仲間なんですね」

「どこでそう思った」

 と、アレクシス。

「息がぴったりです」

「最悪の評価じゃ」

 と、リューシェ。

「だが、まあ、完全には否定せん」


 バルドが枝杖を鳴らした。


「行くなら早い方がいい。陽が少し傾くと上の岩場は影が濃くなる」

「そうしよう」

 と、アレクシス。

「リューシェ、湯脈を見ろ」

「命令するな」

「頼む」

「最初からそう言え」

「頼む」

「よろしい」


 四人は連れ立って山道へ向かった。


 今度は先頭がバルド、その後ろにアレクシス、少し離れてリューシェ、最後にベルノルトという並びだ。もっともベルノルトは半刻もしないうちに「私はここまでで」と下りたので、実質三人になったが。


 山腹へ入る途中、リューシェはあちこちで足を止めた。


 木の根元。

 岩の割れ目。

 湿った土。

 斜面を渡る風。


 目を閉じ、指先で空気をなぞり、時には石へ触れ、時には地面に膝をつく。


 アレクシスはその様子を黙って見ていた。


 昔からそうだった。

 彼が人の流れや戦局の形を見るなら、リューシェは地の気や魔の流れを見る。

 同じ場所にいても、見ているものが少し違う。だからこそ互いに補えた。


「どうだ」

 と、最初の赤湯の近くでアレクシスが訊く。

「静かにせい」

 と、リューシェが返す。

「今、聞いておる」

「耳でか?」

「地脈でじゃ、阿呆」

「阿呆呼ばわりは心外だ」

「湯の前で浮かれた顔をしておるやつに言われたくない」

「浮かれてない」

「浮かれておる。さっきの岩場でも目が死んでおらんかった」

「褒めてるのか?」

「半分はな」

「半分が多いな」

「年寄りの評価はだいたい半分じゃ」

 と、バルドが横から言い、リューシェが「おぬし、なかなか話が合うのう」と笑った。


 赤湯、白湯、青みのある鉱泉、硫黄泉、塩気を含む湯、清湯、そして岩棚のぬる湯。


 一つずつ見せるたびに、リューシェの表情が少しずつ変わっていった。


 最初は「ふむ」。

 次に「ほう」。

 三つ目で「これは」。

 四つ目では無言。

 五つ目を見た頃には、からかい混じりの余裕が薄れ、完全に観察する者の顔になっていた。


 最後の岩棚のぬる湯に着いた時、彼女はしばらく何も言わなかった。


 谷を見下ろす岩の縁。

 細く、静かに流れるぬる湯。

 風の抜ける音。

 低くたなびく白い湯気。


 リューシェはそこへ膝をつき、岩へ掌を当てた。


 長い沈黙が落ちる。


 アレクシスも、今ばかりは口を挟まない。

 バルドすら、枝杖に両手を置いて黙っていた。


 やがてリューシェが、ゆっくり目を開いた。


「……なるほどな」


 その声には、さっきまでの軽口とは違う重みがあった。


「何が分かった」

 と、アレクシス。


 リューシェは立ち上がり、周囲を見回した。


「この山、湯が多いだけではない。繋がっておる」

「同じ湯脈か?」

「完全に同じではない。だが地下で近い層を共有しておる。だから性質が違っても、互いに喧嘩しておらん」

「それは良いのか」

「かなり良い。雑に掘れば死ぬが、丁寧に導けば生きる」

「宿向きか」

「おぬしが夢見るような宿向きじゃな」

「ほう」

「ただし簡単ではない」

「簡単なものを欲しがった覚えはない」

「言いおる」


 リューシェは岩棚の奥、まだ人の手が入っていない斜面を指した。


「本館を置くならあの辺りじゃ。重心が安定しておる。下へ流す湯の導線も取れる。露天はここを生かすべきじゃろうな」

「やはりそうか」

「おぬしも考えたか」

「考えた」

「なら客室棟は少し下げろ。上に寄せすぎると冬の風を食う」

「……なるほど」

「ほれ、もう宿の話になった」

 と、バルドが吹き出す。

「見ておるだけで分かるわい。二人とも最初からそのつもりじゃったろ」

「最初からではない」

 と、リューシェ。

「三つ目の湯を見た辺りからじゃ」

「ほとんど最初だな」

 と、アレクシス。

「うるさい」


 アレクシスは少しだけ笑ったあと、真面目な顔で尋ねた。


「率直に言ってどうだ」

「率直に?」

「ああ」

「“作れるか”ではなく、“作るべきか”を聞いておるのか」

「そうだ」


 リューシェはもう一度、山全体を見るように目を細めた。


 風が吹いた。

 七つの湯気が、それぞれ少しずつ違う濃さで揺れる。


 長い時間を生きてきた者だけが持つ、軽々しく何かを断じない間があった。


 それから彼女は、珍しく冗談もからかいも抜きで言った。


「……これは本物じゃ」


 アレクシスは息を止めるように、その言葉を聞いた。


「宿を建てるなら、わしも最後まで見てやる」


 それは、千年エルフ魔女リューシェにしては、ほとんど誓いに近い言葉だった。

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