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第2話♨七つの湯が眠る山

 山腹へ分け入る道は、道と呼ぶにはあまりに獣の都合に寄りすぎていた。


 古い鉱山道の脇から外れた途端、地面は人が通るためのものではなくなる。露出した木の根が階段のように浮き、昨夜まで残っていた霜が岩陰でまだ白く硬い。斜面には低木と苔むした石が入り混じり、少し踏み外せばそのまま谷へ転げ落ちそうな場所もある。街道の往来に慣れた者なら、半刻もしないうちに「やはり戻りましょう」と言い出すだろう。


 だが、先を行く老猟師バルドは足場を選ぶのがうまく、その後ろを追うアレクシスもまた、この程度の山道なら平地と変わらぬ顔で進んでいた。


「本当に貴族か、あんた」

 と、バルドが振り返りもせずに言う。

「まだ言うか」

「普通の貴族は三度は文句を言う頃合いだ」

「普通の貴族ではない」

「それは見りゃ分かる。だが勇者上がりにしても、山歩きが軽すぎる」

「昔、もっとひどい道を通った」

「戦場か」

「戦場もだが、雪山も、湿地も、魔物の巣もある」

「最後のは比較対象としてどうなんだ」

「山よりは面倒だった」

「今の返しで、やっぱり只者じゃないのうと思い直したわい」


 バルドは鼻を鳴らし、杖代わりの枝で前方の藪を払った。


 朝の空気はまだ冷たい。だが登るにつれて、その冷たさの質が少しずつ変わっていく。単に山が冷えるというだけではない。湿りが増し、岩肌の奥から息のように上がってくるものがある。風が止まると、鼻の奥にかすかな鉱物臭が残った。


 アレクシスは歩きながら、それを丁寧に吸い込む。


「……鉄が強い」

「ほう」

「それに硫黄が薄く混じる。だが、同じ筋ではないな」

「匂いだけで分かるものか」

「ある程度は」

「猟犬みたいなやつじゃの」

「嬉しくない例えだ」

「褒めとるんだがなあ」


 しばらく登ると、斜面の木々が急にまばらになった。岩肌が剥き出しになり、地面の色も土の茶から鉱石混じりの灰へ変わっていく。足元に落ちている小石も、丸くなった川石ではなく、角ばった破砕岩が増えた。


 そこへ、ふっと白いものが流れた。


 霧ではない。

 地表に沿ってゆっくりと立ち昇る、細い湯気だった。


 アレクシスの歩みが自然と速くなる。


「そう急くな」

 と、バルドが言う。

「逃げん」

「逃げなくても早く見たい」

「顔に出ておるぞ」

「出ているか」

「さっきまでの落ち着いた旅人面が嘘みたいじゃ」


 少し開けた岩場に出たところで、バルドが立ち止まった。


「まずはここだ」


 老人が顎で示した先、斜面の割れ目から、赤茶けた水が静かに染み出していた。


 湯だ。


 ただの湯ではない。岩肌の周りには赤錆のような色が沈着し、流れた跡が褐色に筋を引いている。湯気は強くないが、近づくと空気に鉄の味が混じるような感覚があった。川や井戸の水では絶対に出ない匂いだ。


 アレクシスは屈み込み、手を近づける。熱すぎない。だがぬるくもない。身体の芯へじわじわ入ってくる温度だ。


「鉄泉か」

「てっせん?」

「鉄気の強い湯だ。血の巡りや古傷に効くことがある」

「なるほどの。昔から鉱山の連中が、打ち身やら傷やらを洗っておったわ」

「湯量は?」

「雨の後は増える。だが涸れたのは見たことがない」

「流路も悪くない……」


 アレクシスは岩の縁を指でなぞる。長い時間をかけて染みついた鉄の色。地形の角度。もしここに湯船を作るなら、導線はどう取るか。客をどう歩かせるか。頭の中で、まだ存在しない建物の影が、もう薄く立ち始めていた。


「おい」

 と、バルドが呆れた声を出す。

「何だ」

「今、もう湯殿を置いたじゃろ」

「置いてない」

「置いた顔をしておった」

「顔でそこまで分かるのか」

「分かるわい。山で獲物を見つけた猟師みたいな目じゃ」


 アレクシスは何も言わなかった。否定しきれない時ほど、口数は減る。


「次だ」

 と、バルドが先に立つ。


 そこから少し横へ回り込むと、今度は岩陰に白いものが見えた。雪ではない。もっと柔らかい色だ。近づいてみると、浅い窪地にたまった湯が、乳を一滴落としたように淡く濁っている。


 湯面はなめらかで、さっきの赤湯よりも柔らかい印象があった。触れると熱さは控えめで、肌をぴりつかせる感じが少ない。


「白い……」

 アレクシスが低く言う。

「こっちは婆さん連中が好きじゃったな」とバルド。

「肌あたりが優しい。石膏質か、硫黄が弱く混じっているのか……いや、もっと別のものもある」

「分かるのか?」

「完全にはまだ分からん。だが良い湯だ」


 アレクシスは指先で湯をすくい、陽にかざした。白濁は濃すぎず、しかし透明でもない。その曖昧な色が、妙に心を引く。


 前世の記憶がふとよぎる。


 白濁した湯。

 湯上がりに鏡を見ると、荒れていた肌が少し落ち着いたように見えた夜。

 窓の外で雪が降っていた。

 宿の廊下は冷えたが、部屋へ戻ってからも身体の火照りが抜けなかった。


 あの感覚が、今、岩陰の窪地から立つ湯気の向こうにちらついた。


「……これはいい」

「さっきからそればかりじゃな」

「いいものはいい」

「語彙が減っておるぞ」

「湯の前では語彙より実感だ」


 バルドは笑いながら、さらに斜面の上を指した。


「まだある。ここからが変だぞ」


 変だ、と言われてアレクシスの足がさらに軽くなるのだから、もはや否定のしようもない。


 次の湯は、白湯の少し上だった。


 岩盤の割れ目から細く落ちる水は、角度によってわずかに青みを帯びて見えた。空の色が映っただけではない。手で受けると、その透明さの中にどこか青い気配がある。匂いは強くない。だが、鼻に抜ける感じが少しだけ澄んでいて、湯の熱は外側より内側にくる種類だった。


「これは……面白いな」

 アレクシスの声が明らかに弾む。

「青い湯もあるのか?」とバルド。

「完全な青ではない。だが鉱物の配分か、光の反射か、何かが違う。……魔力の巡りに関係する可能性がある」

「ま、また分からんことを言い始めた」

「旅の魔術師には喜ばれるかもしれん」

「湯に入って魔術がどうにかなるものか」

「疲労の抜け方は変わる。経験則だが」

「経験則でそんなことまで分かるのか、勇者というのは」

「勇者だからではなく、湯が好きだからだ」

「そっちの方が怖いわい」


 アレクシスは湯口の位置、傾斜、周囲の石質まで見ていた。


 この青い湯は、単独の小湯殿がいいかもしれない。大人数向きではない。静かに入りたい者向けだ。魔術師、長旅の記録官、考えすぎて頭の重くなった者、夜に一人で黙って浸かりたい客――そんな顔ぶれが頭に浮かぶ。


 宿が、少しずつ輪郭を持ち始めていた。


「まだ先がある」

 と、バルドが促す。

「見たい」

「知っとる」


 そこから先は、ますます異様だった。


 少し離れた崖際では、硫黄臭の強い湯が石を黄色く染めていた。近づくだけで匂いが鼻の奥をつく。湯気は濃く、温度も高い。湯に慣れない者をいきなり入れれば、あっという間にのぼせるだろう。


「これは刺激が強い」

 と、アレクシス。

「こっちは昔から“長く入るな”って言われとる」とバルド。

「正しい」

「やはりそうか」

「ただ、こういう湯が好きな客もいる」

「変わり者の?」

「いる」

「……あんたじゃろ」

「否定はしない」


 さらに少し下ると、今度は舐めれば塩気を感じそうな湯があった。湯だまりの周りには白っぽい結晶が残り、指先で触れるとざらりとする。


「塩を含んでいる」

「塩?」

「保温に向く湯だ。湯上がり後に冷えにくい」

「ほう……冬には良さそうじゃの」

「すごくいい」


 アレクシスの返事が即すぎて、バルドが肩を揺らした。


「さっきから、どの湯を見ても“いい”しか言わんのう」

「全部いいから仕方ない」

「惚れておるな」

「それは……まあ、そうかもしれん」


 口にしてから、アレクシスは苦笑した。


 そうだ。惚れているのだ。

 湧き出す湯そのものに。

 山の中で誰にも大きく扱われず、名もつかず、ただ地表へ出ているこの鉱泉たちに。


 前世で、自分は温泉を“楽しんだ”。

 だがこの世界では、“作れる”かもしれない。

 自分の理想に近い形で、湯を生かす場を築けるかもしれない。


 それは戦いや統治とは別の意味で、胸が高鳴ることだった。


「まだあるぞ」

 バルドの声も、少し楽しげになってきていた。


 次に見せられた湯は、見た目は地味だった。


 透明に近い。岩の隙間から、さらさらと流れ落ちる。匂いも癖が弱い。だが、手を浸けると奇妙に感触が良い。尖ったところがなく、何かを混ぜても湯そのものが負けなさそうな、懐の深い水質だった。


「これは……」

 アレクシスが少し考え込む。

「地味じゃろ」とバルド。

「いや。地味だが、扱いやすい」

「扱いやすい?」

「薬草を合わせるのに向くかもしれん」

「薬草風呂か」

「湯治には必要だ。客によっては、湯そのものの効能に加えて、香りや薬効を足したい時がある」

「宿屋というのは、そんなことまで考えるのか」

「考える宿と、考えない宿がある」

「なるほど。あんたは考える側じゃな」

「かなりな」


 そこまでで六つ。


 それでも充分すぎるほどの湧き湯だった。普通なら、一つか二つでも名湯地として十分に価値がある。まして泉質が違うものがこれだけ揃うなど、そうそうない。


 だが、バルドはまだ終わりではないという顔をしていた。


「最後のは、たぶんあんたが一番気に入る」

「断言するな」

「分かるわい」


 老人は岩場を回り込むようにして、少し高い場所へアレクシスを導いた。


 そこは崖の縁とまではいかないが、斜面が開け、谷の向こうがよく見える岩棚だった。風はここだけ少し穏やかで、空が広い。下の湧き口たちより静かで、音も少ない。


 そして岩棚の割れ目から、細く、静かに湯がこぼれていた。


 熱すぎない。

 湯気は柔らかく、流れも穏やか。

 白くも赤くも青くもない。ほとんど透明に近い。だが、触れた瞬間に分かる。これはいいぬる湯だ。


 長く入れる。

 空を見ながら、考え事をしながら、あるいは何も考えずに浸かれる。

 身体を攻める湯ではなく、受け止める湯だ。


 アレクシスは、しばらく何も言わなかった。


 手を浸け、岩の縁に腰を下ろし、谷を見た。


 風が吹く。

 遠くに鳥が旋回している。

 谷の向こうの尾根には、まだ少し雪が残っている。

 この場所に湯船を切れば、夕暮れも星も月も見えるだろう。


「……どうじゃ」

 と、バルドが訊く。


 アレクシスは答える前に、もう一度湯に手を浸けた。


 前世の、いくつもの記憶が重なった。


 派手ではない宿。

 古びた欄干。

 山の匂い。

 静かな露天。

 何も決断しなくていい夜。

 誰にも英雄と呼ばれず、ただ一人の客として湯に浸かる時間。


 そして今、この異世界で、自分はその“客”で終わらずに済むかもしれない。


 作れる。

 作ってしまえるかもしれない。

 自分が好きだったものを、ここで本気で形にできる。


「……いいな」

 と、アレクシスはようやく言った。

「今度の“いい”は重いな」

「重い」

「そんなにか」

「そんなにだ」


 バルドは鼻を鳴らし、岩棚の端に座り直した。


「ここまで来ると分かる。あんた、最初から探しておったのは土地でも鉱山でもない。こういう場所そのものじゃな」

「ああ」

「貴族の別荘か?」

「違う」

「狩猟館か?」

「違う」

「湯治小屋か?」

「もっと大きい」

「宿か」

「宿だ」


 アレクシスは立ち上がり、周囲を見渡した。


 岩棚の向こうには建物を逃がせる平地が少しある。

 下へ降りれば複数の湯口。

 馬車を入れるには街道から分岐を整える必要があるが、不可能ではない。

 厩舎はどこへ置くか。

 貴族向けの客室と、長逗留の湯治客向けの部屋は分けるべきか。

 厨房は風向きと湯の流れを見てどこへ。

 湯殿は泉質ごとに分ける。混ぜない。絶対にだ。


 考え始めると止まらない。


「おい」

 と、バルドが言った。

「何だ」

「今、もう建てたじゃろ」

「建ててない」

「建てたわい。ここが本館、あそこが厩舎、あっちは露天、と顔に書いてある」

「そんなに分かりやすいか」

「わしを何十年山で獣見てきたと思う。獲物を前にした顔くらい見分けがつく」

「獲物ではない」

「もっと厄介なやつだな。夢だ」


 その言葉に、アレクシスは少しだけ黙った。


 夢。


 若い頃なら、それを口にするのはこそばゆかっただろう。

 魔王を倒し、国を守り、領地を与えられ、妻と子を得て、民に慕われる。それらを一つずつ片付けてきた今となっては、“夢”という言葉は妙に素直に胸へ入る。


 そうかもしれない、とアレクシスは思った。


 これはただの趣味ではない。

 湯が好きだから、だけでもない。

 人生の後半で、ようやく自分が本気で作りたい場所に出会ったのだ。


「バルド」

「何じゃ」

「もし、だ」

「うむ」

「ここに宿を建てるとしたら、地元の連中はどう思う」

「半分は驚く。半分は疑う。残り半分は“よそ者が何か始めた”と顔をしかめる」

「半分が多いな」

「年寄りの計算はだいたいそんなもんじゃ」

「反対はされるか」

「やり方次第じゃな」


 バルドは岩に肘をついて続けた。


「湯を囲い込むような真似をすれば嫌われる。街道を太くするだけで村を素通りさせれば嫌われる。金の匂いだけさせて地元に何も落とさねば嫌われる。だが、湯を生かし、道を整え、人を呼び、村にも回るようにするなら、文句ばかりでもないじゃろう」

「なるほど」

「要は本気かどうかだ。道楽なら山はすぐ見抜く」

「道楽ではない」

「顔を見れば分かる」


 アレクシスはもう一度、岩棚から谷を見下ろした。


 湯は七つ。

 湯量も死んでいない。

 地形は難しいが、だからこそ面白い。

 街道からも切り離されていない。

 静かさもある。景色もある。


 ここなら。


 ここなら、本当にいける。


「……見つけた」

 小さく、アレクシスは呟いた。


「何を?」

 と、バルドが聞き返す。

「場所だ」

「そうか」

「ああ」


 それだけ言うと、アレクシスは岩場へ手を置いた。


 熱を持った石だった。

 地中から湯が押し上げてくる力を、そのまま手のひらで感じるような熱。


 しばらく、彼はそのまま動かなかった。


 山の風。

 湯気。

 鉱物の匂い。

 生きた湯の流れる音。


 戦場の勝利とも、貴族社会の駆け引きとも違う。

 もっと静かで、もっと個人的な高揚が、胸の内側で確かな形を取り始めていた。


 やがてアレクシスは立ち上がり、いつもの落ち着いた顔に戻った。だが目だけは戻っていない。もう完全に決めた者の目だ。


「バルド」

「何じゃ」

「この山の持ち主と、村の寄り合いを知りたい」

「ほう」

「湯口の流れも全部見たい。冬と夏の差、雪解けの後の湯量、崩れやすい斜面、獣道、昔の鉱山道の残りもだ」

「一気に来たな」

「足りないか」

「いや、十分すぎる。ほんに建てる気じゃの」

「ああ」

「で、どんな宿を作るつもりだ」

「まだ全部は固まっていない」

「さっき頭の中で建てておったくせに」

「半分だ」

「半分でもう十分怖いわい」


 アレクシスは珍しく、少しだけ笑った。


「大きすぎる宿にはしない。だが立派にはする。貴族が来ても恥ずかしくなく、湯治の年寄りが来ても気後れしない宿だ」

「難しい注文じゃの」

「部屋は分ければいい。だが、湯に上下はつけない」

「ほう」

「どの客にも、本物の湯を渡す」

「……なるほどな」


 バルドはそこで、初めて本気で感心したような顔をした。


「気に入った」

「二度目だな」

「一度目より少し重い」

「それは光栄だ」


 老人は立ち上がり、山刀の鞘を直した。


「では、湯狂いの宿主殿」

「まだ宿主ではない」

「じきになる」

「そのつもりだ」

「ならまずは、下に降りて村の顔役どもに会うか」

「ああ」

「面倒だぞ」

「湯のためなら耐える」

「本当に湯中心で生きておるのう」

「今さらだ」

「今さらじゃな」


 二人は岩棚を離れ、下り始めた。


 だがアレクシスは途中で一度だけ振り返った。

 白い湯気が、山の静けさの中でいくつも細く立ち上っている。

 七つ。

 それぞれ違う顔を持つ湯。


 見間違いではない。偶然でもない。

 ここには、宿になるべき山がある。


 その確信が、もう揺るがなかった。

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