第23話 宿主、街道の雪を気にする
朝霧亭が山の宿である以上、季節からは逃げられない。
湯は冬に強い。
むしろ、塩泉も赤湯も、寒さが深まるほど本領を見せるだろう。
白湯も、冷えた肌にはいっそう喜ばれる。
露天など、雪見になれば客は確実に増える。
だがその前に、一つ大きな問題がある。
客が、無事にここまで来られるかどうかだ。
そのことを、アレクシスは数日前からずっと考えていた。
考えていたというより、考えずにいられなかった。
朝霧亭の朝は、相変わらず湯気と共に始まる。
けれど、この日は湯殿の確認を終えたあとも、アレクシスの目は山の上ではなく、下へ続く街道の方を向いていた。
帳場の前で予約札を見直していたベルノルトが、その視線に気づいて顔を上げる。
「旦那様」
「何だ」
「今日は第三泉ではないんですね」
「第三泉は悪くない」
「塩泉も?」
「問題ない」
「露天は?」
「良い」
「……では、何がそんなに気になるんです」
ベルノルトが訊くと、アレクシスは短く答えた。
「道だ」
広間で湯上がりの水差しを整えていたユノが、思わず振り向く。
「道?」
「そうだ」
「何かありました?」
と、ユノ。
「まだ何も起きていない」
と、アレクシス。
「だが、起きる前に気にしておくべきことだ」
「主様」
と、リューシェが椅子の背に腕をかけたまま言う。
「おぬし、ついに宿の外まで本気で面倒を見る気じゃな」
「宿の外ではない」
「ほう?」
「宿へ来る道は、宿のうちだ」
「出たのう」
リューシェが笑う。
「最近の主様、本当に全部を宿へ繋げる」
「事実だ」
「便利な言葉ですねえ」
と、ベルノルト。
「最近それ、何でも通りますよね」
「通るから使う」
アレクシスは帳場の脇に置いてあった簡易地図を広げた。
山腹の朝霧亭から下って、街道へ合流する道。
その先の小橋。
荷車がすれ違いにくい狭い斜面。
冬に雪が吹き溜まりやすい場所。
村へ回る分岐。
下の宿《灰狼亭》のある位置。
見慣れた地図だ。
だが今日のアレクシスは、それを“宿へ来るための道”ではなく、“冬を越せるかどうかの線”として見ている顔だった。
「もうそんな時季の話ですか」
と、ベルノルト。
「早くないですか?」
「遅いくらいだ」
と、アレクシス。
「雪が降ってから考えて間に合うか?」
「……間に合いませんね」
「だろう」
「主様、その返しの早さだけは本当に恐ろしいのう」
ユノは地図を覗き込みながら、小さく言った。
「でも、冬になったら、お客さん増えそうですよね」
「増える」
と、アレクシス。
「塩泉がある。赤湯も冷えに合う。雪見の露天は確実に客を呼ぶ」
「なのに道が悪かったら……」
「来られない」
と、アレクシス。
「来られても、帰れん可能性がある」
「それは困る」
と、ユノ。
「困る」
「坊や」
と、リューシェ。
「今のはかなり宿の側の顔じゃぞ」
「え」
「客の数より、客が無事に来て帰れるかを先に考えた」
「……あ」
「嫌ではない」
と、アレクシス。
「また重いやつが出た」
と、ベルノルト。
「最近、ユノに対する主様の評価、だいぶ分かりやすいですね」
「そうか?」
「そうです」
と、ユノも少し笑った。
その日の午前、アレクシスは村の顔役たちを呼ぶことにした。
前に一度、朝霧亭がこの土地へ根づくための話はしている。
だが今回はもっと具体的だ。
冬の街道。
雪。
荷車の通り。
橋。
雪除け。
宿だけでなく、村ごと困る問題の話である。
やって来たのは、例によってバルド、古老二人、顔役の息子、塩屋の親父、それに《灰狼亭》の主人オルドだった。
広間の卓へ座るなり、オルドが片眉を上げる。
「今度は何だ」
「道の話だ」
と、アレクシス。
「また宿の外まで口を出すのか」
「宿の外ではない」
「出たな、その理屈」
と、オルド。
「今日は何でも“宿だから”で押し切る気か?」
「押し切るのではない。筋を通す」
「それが一番面倒なんだよ、この男は」
と、バルドが笑う。
「だが話は聞いてやれ。こやつ、言い出した時は大体まともじゃ」
古老の一人が、湯気の立つ茶碗へ手をかざしながら言う。
「道か」
「そうだ」
「何を考えておる」
「冬場の整備だ」
と、アレクシス。
「雪が深くなれば、山腹へ上がる道は今のままでは足りん」
「まあ、それはそうだ」
と、塩屋の親父。
「朝霧亭に客が増えりゃ、荷も増える。今の細さじゃ、雪の日に荷車が一台立ち往生しただけで詰まる」
「橋も古い」
と、顔役の息子。
「下の小橋な」
「見た」
と、アレクシス。
「雪を食ったあとなら、荷の重い馬車は嫌がる」
「そこまで見に行ったのか」
と、オルド。
「行った」
「主様」
と、リューシェが楽しそうに言う。
「最近、おぬしほんにじっとしておらぬな」
「必要だからな」
「便利なやつじゃ」
「ただ」
と、アレクシスは続ける。
「これは朝霧亭だけの話ではない」
「ほう」
「冬場、塩も、薪も、薬草も、村へ運ぶ道だ。下の宿へ来る客も通る。道が死ねば、宿も村もまとめて詰む」
「……それはその通りだ」
と、古老。
オルドが腕を組んだ。
「で、何をする」
「橋の板を替える」
「金は?」
「出す」
「誰が」
「朝霧亭が半分。残りは村と、必要なら私の私財で持つ」
「旦那様」
と、ベルノルトが小声で呻く。
「今、さらっと個人負担を増やしませんでした?」
「必要だ」
「本当に便利ですね、その言葉」
「必要だからな」
「ほらまた」
「雪除けの柵も要る」
と、アレクシスは地図を指した。
「この斜面の吹き溜まり、今のままでは道が消える」
「それも金がかかるぞ」
と、オルド。
「出す」
「だから誰が」
「朝霧亭と、必要なら私だ」
「おぬし、本当に宿だけ儲かればよいとは思うておらんのう」
と、バルド。
「思わん」
と、アレクシス。
「客が来られねば宿は死ぬ。村が困れば、いずれ宿も困る」
「……そこまで考えておるなら、話は早いか」
と、古老が鼻を鳴らした。
ユノはそのやり取りを少し離れた位置から聞いていた。
前なら、こういう大人たちの話には口を挟まないどころか、耳を立てることすら遠慮しただろう。
だが今は違う。
この道を、食材が上がってくる。
この道を、客が来る。
この道を、また来たいと思った人たちが帰っていく。
つまり、ここも宿の一部なのだと、もう分かってきている。
「主様」
と、ユノが恐る恐る言った。
「何だ」
「その……雪除けって、どんなのを作るんですか」
「木の柵だ」
と、アレクシス。
「風を逃がして、雪が一気に道へ溜まらんようにする」
「全部を止めるんじゃなくて?」
「止めすぎると別のところへ溜まる」
「……なるほど」
ユノは素直に頷く。
「風の流れまで気にするんですね」
「気にする」
「坊や」
と、リューシェ。
「今の“なるほど”はかなり宿主寄りじゃぞ」
「え」
「普通は“面倒そう”で止まる」
「でも、それをしないと客が来れないんですよね」
「そうだ」
と、アレクシス。
「良い」
「主様、その“良い”もだいぶ重いですね」
と、ベルノルト。
「そうなのか?」
「そうです」
オルドがその様子を見て、苦笑した。
「坊やまで染まってきたな」
「……そうでしょうか」
「そうだろうよ」
と、オルド。
「この宿、湯気だけじゃなくて考え方まで移るらしい」
「嫌ではない」
と、アレクシス。
「三回目です」
と、ベルノルト。
「数えるな」
話し合いのあと、アレクシスは実際に道を見に行くことにした。
村の男たち数人と、バルド、オルド、顔役の息子、それにリューシェとユノまでついていくことになった。ベルノルトは最初「私は帳場が」と抵抗したが、「後で書面に起こすなら実際に見ておけ」とアレクシスに言われ、渋々ついてきた。
山道を下り、街道へ合流し、小橋のところまで来る。
「ここじゃ」
と、バルド。
「雪が深い年は、この橋の手前で荷車がよう止まる」
「板の継ぎ目が浮いてますね」
と、ユノ。
「ほう」
と、アレクシスが目を向ける。
「気づいたか」
「え、はい……ちょっと」
「主様、坊や、最近ほんに見るようになったのう」
と、リューシェ。
「主様寄りですねえ」
と、ベルノルト。
「嫌ではない」
「四回目です」
「しつこいぞ」
橋を渡り、その先の斜面まで行くと、吹き溜まりやすい場所がよく分かった。木立が切れ、風が斜めに抜ける。冬になれば、ここへ雪が寄るのは想像に難くない。
アレクシスは立ち止まり、周囲を見回した。
「ここへ柵を立てる」
「どのくらいだ」
と、顔役の息子。
「全部を囲う必要はない。風を殺さず、雪の筋をずらすだけでいい」
「分かるのか?」
と、オルド。
「大体は」
「主様、またそういう“何となく分かってる”顔をしておる」
と、リューシェ。
「何となくではない」
「じゃあ?」
「必要なだけ分かる」
「便利じゃのう」
ユノはその斜面の先にある朝霧亭の方を見上げた。
見えはしない。
だが山腹のあの位置に宿があることを、今のユノは身体で知っている。
「……主様」
「何だ」
「これ、宿のためだけじゃないですね」
「そうだ」
と、アレクシス。
「村にも、下の宿にも、商人にも、全部つながる」
「はい」
「分かったか」
「分かります」
ユノは小さく笑った。
「宿って、ほんとに道まで入るんですね」
「そうだ」
「それ、最初に聞いたら絶対分からなかったです」
「今は?」
「今は、ちょっと分かります」
「坊や」
と、リューシェ。
「今のはかなり良い」
「主様の“良い”がまた出る前に、わしが先に言うておく」
「……よく見ている」
と、アレクシス。
「はい」
と、ユノは少し誇らしそうに頷いた。
夕方、朝霧亭へ戻ると、広間にはすでに湯上がりの客たちがいた。
白湯帰りの地元客。
短い滞在で赤湯だけ入りに来た老騎士。
そして明日また来ると札を入れて帰る商人。
アレクシスはその顔ぶれを見て、少しだけ肩の力を抜いた。
橋も柵も、まだこれからだ。
だが今日、話を始めた。現地も見た。金も出すと決めた。
宿は、建物の中だけを守っていれば生きるものではない。
それを改めて、村の者たちにも、自分たち自身にも見せる一日になった。
広間の火の近くで、オルドが酒ではなく湯上がりの水を飲みながら言う。
「旦那」
「何だ」
「宿主なのに、そこまでやるのか」
「宿主だからだ」
「出たな」
「出ましたね」
と、ベルノルト。
「今日は何回目でしたっけ」
「数えるな」
「もう癖です」
「だが、まあ」
オルドは少しだけ肩をすくめた。
「そういうやつだから、朝霧亭は今の空気なんだろうな」
「……そうか」
と、アレクシス。
「主様」
と、リューシェ。
「今のは、少し刺さった顔じゃぞ」
「そうか?」
「そうじゃ」
「主様、分かりにくいですけど、今ちょっと嬉しそうです」
と、ユノ。
「そうなのか?」
「そうです」
と、ベルノルト。
「かなり」
アレクシスは広間の向こう、玄関の方をちらりと見た。
その先に、山道がある。
さらにその先に、街道があり、橋があり、村がある。
そしてその全部の先から、客が来る。
宿とは、そこでようやく完成するのだ。




