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第1話♨元勇者、領地ではなく湯脈を見に行く

 春先とはいえ、山岳街道の朝はまだ冷える。


 街道脇に残る雪は灰色に痩せ、岩の隙間からしみ出した水が細い筋になって流れ落ちていた。荷馬車の轍は昨夜の霜で硬く締まり、馬の蹄が踏むたび、石混じりの土が乾いた音を立てる。谷の向こうには針葉樹の森、その奥には古い鉱山跡の黒い口がぽつぽつと見え、さらにその上では白い霧が低くたなびいていた。


 王都からかなり離れた辺境である。


 それでもこの道は完全に死んではいない。

 荷を積んだ商人がときおり通り、鉱石を掘る者や山羊飼いが行き来し、巡礼めいた旅装の者が細々と歩く。豊かな幹線街道ではないが、忘れ去られたわけでもない。人の流れがぎりぎり途切れず残っている――そういう土地だった。


 その街道を、一頭立ての頑丈な栗毛馬がのんびり進んでいる。


 馬上の男は、旅慣れた外套を羽織り、腰には実用本位の剣を一本だけ佩いていた。衣服は上質だが目立たない。肩幅は広く、姿勢は自然に伸び、ただ座っているだけでも隙がない。髪には少し白いものが混じり、年の頃は四十代も後半だろう。若さの勢いより、落ち着きと疲れを知った男の渋みが先に立つ顔立ちだ。


 だが、その眼だけは妙に生きていた。


 戦場を見ている目ではない。

 獲物を狙う目でもない。

 道端の岩や斜面の草、風の流れ、地表から立つかすかな白い気配にまで注意を払っている。


 アレクシスは馬を止め、鼻先で空気を吸った。


「……硫黄は薄いな」


 誰にともなく呟く。


 通りかかった荷馬車の御者が、不思議そうに振り向いた。旅人が山道で天気や方角ではなく硫黄の匂いを口にすることは、そう多くない。


 アレクシスは気にしなかった。


 彼にとって今、風向きや獣道と同じくらい重要なのは、地中の湯の気配だった。


 道の先に、小さな関所めいた石造りの詰所が見えた。といっても、領境を厳重に管理するようなものではない。街道税を取るにも半端な、旅人の数を大雑把に把握し、困り事があれば一応相談に乗る程度の簡素な施設だ。


 その前で、三十代半ばほどの男が待っていた。厚手の上着を着た、いかにも実務に慣れた顔つきの役人である。アレクシスの姿を認めると、ぱっと顔を引き締め、慌てて一礼した。


「旦那様――いえ、閣下」

「その呼び方はやめろ、ベルノルト」

「しかしですね……」

「ここで“閣下”などと呼ばれてみろ。この辺りの山羊まで固まる」

「山羊は固まらんでしょう」

「では御者が固まる」

「それはもう若干固まりかけております」


 ベルノルトは困ったように笑った。彼はアレクシスの領地に仕える文官の一人であり、今回の視察旅――表向きは――の連絡役として先回りしていた。


 アレクシスは馬を下り、手綱を柱に掛ける。


「報告は」

「この一帯の名目上の管理権は、王国ではなく近隣三村の共同所有に近い形です。古い鉱山道ですので、誰か一人の領主が強く押さえている土地ではありません。湧き湯の噂は前からありますが、大きな宿が建った記録はなし」

「理由は?」

「道が細い、冬は雪で閉ざされる、鉱山が衰えて一時人が減った、そして」

「そして?」

「“湯はあるがまとまっていない”と、地元では考えられているようです」

「まとまっていない?」

「湧き口が散っているのだとか。熱い湯、白い湯、鉄臭い湯、皮膚がぴりつく湯……そういうものが斜面のあちこちにある、と」

「……ほう」


 アレクシスの声色が、わずかに変わった。


 ベルノルトはそれを聞き取ったらしく、肩を落とす。


「やはりそこに食いつきますか」

「食いつく」

「そうだろうとは思っておりました」

「何か問題が?」

「問題しかございません。まず閣下は今、王国屈指の大貴族です。陛下から賜った領地があり、館があり、家臣がいて、季節ごとの視察予定もある」

「その視察予定の一部だ、これは」

「“湯脈確認”を視察に含めるのはかなり無理があります」

「土地の潜在価値を見る。立派な視察だ」

「言い張れなくもないところが嫌なんですよね……」


 ベルノルトは額を押さえた。


「奥方様も、できれば今回は館に戻って正式な春の会議に出てほしいと仰っていました」

「フィオナが?」

「ええ」

「怒っていたか」

「いいえ。非常に穏やかに微笑んでおられました」

「それは怒っているな」

「怒っておりますね」

「息子は?」

「“父上はどうせまた湯の匂いを追ってるんだろう”と」

「リオンらしい」

「その上で、“実際、父上が政務に口を出すと、母上と僕の議論が一時間増えるから、好きなだけ山をうろついてくれて構わない”とも」

「親不孝な息子だ」

「ものすごく似た者親子だと思いますが」


 アレクシスは少しだけ笑った。


 妻のフィオナ。

 そして成人した息子のリオン。


 どちらも、今や彼の領地を実質的に回している中心人物だった。


 フィオナは元々、剣や英雄譚より数字と人心に強い女だった。戦時に補給線を支え、戦後は復興と統治に力を発揮した。人を動かすのがうまく、余計な見栄がなく、だが譲るべきでないところでは誰より頑固だ。アレクシスが武力と決断で道を切り開くなら、フィオナはその道の上に町と畑と秩序を築く女だった。


 息子のリオンは、その二人の性質を妙にバランスよく継いでいる。剣も使えるが、剣に酔わない。民と話すことを苦にせず、税と水路と街道整備の話を嫌がらず、年寄りの長話にもちゃんと付き合う。アレクシスが若い頃よりよほど“領主向き”だった。


 要するに、領地は放っているのではない。

 任せられる者に、ちゃんと任せているのだ。


 そして正直に言えば、アレクシス自身、統治の細部に毎日首を突っ込む性格ではなかった。


 嫌いではない。必要ならやる。戦後も散々やった。

 だが、好きかと問われれば違う。


 それよりも彼の心を強く引くものが、どうしようもなく別にあった。


「ベルノルト」

「はい」

「私はな、政務が嫌で山に来たわけじゃない」

「存じております。“もっと面倒なことをしに来た”んですよね」

「宿づくりは面倒ではない」

「既に貴族の政務より熱量が高い時点で、周囲から見ると充分面倒です」


 アレクシスは石壁にもたれ、しばらく谷の先を見た。


「前にも言ったが、私は前世で……」

「“前世でひなびた宿を巡るのが好きだった”」

「覚えていたか」

「何度も聞かされましたので」

「良い趣味だろう」

「そこは否定しません。ただ、“世界を救った元勇者が人生の後半で本気を出す対象が温泉宿”だとは、誰も思いません」

「だからこそ面白い」

「ご本人だけが楽しそうなのが問題なんです」


 アレクシスは苦笑した。


 前世の記憶といっても、すべてが鮮明に残っているわけではない。子どもの頃の顔、通っていた街の細部、細かな流行りや数字は曖昧だ。だが、不思議と覚えているものがある。


 雨の中で山道を走る列車の窓。

 古びた木の看板。

 硫黄の匂いが服に移る廊下。

 少しぬるめの源泉。

 湯上がりに飲んだ冷たい水。

 土地の野菜を使った、派手ではないのに身体に染みる食事。


 豪奢な宮殿でも、英雄として讃えられた大広間でもなく、そういう名もなき宿の記憶が、なぜか彼の中に深く残っていた。


 魔王を倒し、爵位を得て、領地を得て、妻と息子がいて、民もいる。

 それでもなお、人生の最後に本気で作りたい場所を一つ挙げろと言われれば、彼は城ではなく宿を選ぶだろう。


「地味だと思うか」

 と、アレクシスは言った。

「何がです?」

「宿だ。英雄の余生としては」

「……いえ」


 ベルノルトは少し考えてから、素直に首を振った。


「むしろ、閣下らしいと思います」

「そうか」

「大仰な玉座や余生の神殿より、客の疲れ方を見て“今日はこの湯に入れ”と言っている方が、ずっとしっくりくる」

「それは褒めてるのか」

「褒めております」

「なら受け取ろう」


 そこで、関所の裏手から別の声がした。


「おい、役人さんよ。あんたら、まだそこで立ち話か」


 しゃがれた声だった。


 振り向くと、鹿革の上着に毛皮帽子をかぶった老人が立っていた。背は低いが肩幅は意外にあり、足腰もまだしっかりしている。弓を背負い、腰には山刀。山で食ってきた者の顔だ。皺だらけの目元は細いが、光は鈍っていない。


 ベルノルトが軽く会釈する。


「おはようございます、バルド爺」

「朝も昼もあるか。獣は待っちゃくれん」

「紹介します。こちら、この辺りで長く山を見ている猟師のバルド翁です」

「ほう」


 アレクシスが一歩出ると、老人はじろりと全身を見た。


「なんだ。貴族さんかと思ったが、思ったより武骨だな」

「一応、貴族ではある」

「一応、だと?」

「本業は旅人だ」

「嘘をつけ」

「今は旅人に近い」

「もっと嘘くさいわい」


 ベルノルトが咳払いする。


「こちらはアレクシス様。今回、この土地の視察を――」

「湯を見に来たんじゃろ?」

 と、バルドがあっさり言った。


 ベルノルトが黙る。


 アレクシスは少しだけ笑った。


「話が早いな」

「役人さんが先に聞き回っとったからの。“湯の匂いのする場所”“昔から湯治に使われた岩場”“冬でも凍らぬ水の流れ”だの、そんなことばかり尋ねとれば、何を探しとるかくらい分かる」

「では、あるのか?」

「あるとも」

「どこだ」

「そう焦るな」


 バルドはわざとらしく顎を撫でた。


「湯はある。だが、あんたみたいなのが喜ぶような“立派な一つの泉”じゃないぞ」

「どういう意味だ」

「山腹のあちこちから、変な色の湯が出とる。赤いのもある。白っぽいのもある。妙にぬるいくせに芯まで温まるのもある。昔は鉱山の連中が傷を洗ったり、年寄りが脚をつけたりしとったが、まとまってはおらん」

「湧き口は複数か」

「そうだ」

「近いのか?」

「近いようで遠い。岩場と斜面に散っとる」

「湯量は」

「年によるが、涸れたのは見たことがない」

「冬場は?」

「雪の中でも湯気は立っとる」

「匂いは」

「場所による。腐った卵みたいなのもあれば、鉄を舐めたみたいなのもある」


 アレクシスの表情が、そこで明らかに変わった。


 さっきまで温和な旅人めいた空気だった男の眼に、別種の光が入る。戦場の殺気ではない。だが何かに強く狙いを定めた時の顔だ。


 ベルノルトはそれを見て、とうとう両手で顔を覆った。


「ああ……駄目だ。完全に食いついた」

「今の話で食いつかぬ方がおかしい」とアレクシス。

「私には分かりませんよ、何がそんなに」

「分からんか?」

「赤い湯と白い湯が別々に湧いている、くらいまでは分かります。ですが、それがそんなに……」

「そんなに、だ」


 アレクシスは一歩踏み出した。


「一つの宿の中で泉質が分かれていたらどうなると思う」

「え?」

「客の体調や目的に応じて湯を選べる。古傷には鉄気の強い湯、肌には白い湯、魔力疲労には青みのある鉱泉、長湯向きのぬる湯、夜に静かに浸かるための露天――」

「待ってください、まだ見てもいないのにもう宿を建て始めないでください」

「頭の中ではもう半分建っている」

「怖い」


 バルドが面白そうに歯を見せた。


「ははあ。あんた、ただの貴族じゃないな。湯狂いだ」

「否定はしない」

「しないんですか」とベルノルト。

「しない」

「もう少し取り繕っても」

「取り繕うだけ無駄だ。今の目は完全にそうだ」


 バルドは肩を揺らして笑ったあと、アレクシスへ近づいた。


「案内してやってもいいが、楽な山じゃないぞ。古い鉱山道の脇から外れて、獣道を登る。岩場は滑るし、霧が出ると足元を取られる」

「問題ない」

「湯を見に行く貴族の返事じゃないな」

「だから一応だと言った」

「その“一応”の意味がわからんわい」


 ベルノルトが真顔で口を挟んだ。


「バルド翁、念のため申し上げますが、この方は剣の腕も本当に問題ありません」

「ほう?」

「王都で名前を出せば、たぶん門番が二度見します」

「三度見くらいするじゃろ」

「では三度見します」

「余計なことは言うな」


 アレクシスは少し嫌そうな顔をした。


 老人は目を細めた。


「ふむ……おぬし、もしかして」

「詮索はやめてくれ」

「元勇者とか、そういう手合いか?」

「…………」

「当たりか」

「黙っておいてくれると助かる」

「別に山じゃ誰も気にせんよ。鹿と岩と湯気しかおらん」

「それはありがたい」


 バルドは鼻を鳴らし、腰の水袋を持ち上げた。


「もっとも、勇者が湯を見に来るとは思わなんだがな」

「元、だ」

「元だろうが勇者は勇者じゃ。で、そんな大層な男が、どうしてまた山奥の湯に興味を持つ」

「作りたいものがある」

「ほう」

「宿だ」

「城じゃなくて?」

「宿だ」

「女の館でもなく?」

「宿だ」

「教会でもなく?」

「宿だ」

「……変わったやつじゃな」

「よく言われる」


 しばし風が吹いた。

 谷から上がってくる湿った空気の中に、ごくかすかな鉱物臭が混じる。


 アレクシスは、その匂いを逃さないようにもう一度息を吸った。


 バルドがそれを見て、ふっと真面目な顔になる。


「そんなに湯が好きか」

「ああ」

「なぜだ」

「……落ち着くからだ」


 その答えは短かったが、嘘ではなかった。


 戦いの前でも後でも、傷を負った夜でも、凱旋の喧騒の裏でも、アレクシスの記憶のどこかには、湯の気配があった。温かな湯に浸かっている間だけ、人は肩書きや剣や損得を少し忘れる。宿とは、そういう時間を売る場所だと彼は思っている。


「大勢の前じゃ言いづらいが」

 と、アレクシスは続けた。

「世界を救うより、いい湯を守る方が私には向いている気がする時がある」

「それ、奥方様の前で言えますか?」とベルノルト。

「言ったことはある」

「その結果は?」

「三日ほど笑われた」

「奥方様らしい……」

「だが最後には“あなたが本気でやるなら止めないわ”と言ってくれた」

「それは惚気では?」

「事実だ」

「惚気ですね」

「違う」


 バルドは「へえ」と短く言ってから、アレクシスをもう一度見た。


「女房に止められず、息子にも呆れられつつ、山に湯を探しに来たわけか」

「おおむねそうだ」

「大貴族のやることじゃないな」

「だから一応だ」

「気に入った」


 老人はそう言って、背中の弓の位置を直した。


「案内してやる。だが今すぐだ。昼を越すと霧が溜まる」

「助かる」

「ただし条件がある」

「何だ」

「もし本当に宿を建てるなら、山を荒らすな。湯を独り占めするな。村の年寄りが足をつけに来る分くらいは残せ」

「当然だ」

「即答か」

「湯は囲い込むものじゃない。回すものだ」

「……ますます変わっとるな」


 ベルノルトが渋い顔で言う。


「私はここで待機します。書類仕事がありますので」

「逃げるな」

「逃げではありません。現実対応です。閣下が夢を追うなら、私はその夢が法的に揉めないように地ならしする役目です」

「有能だな」

「今さら褒めても残業は減りません」

「館に戻ったらワイン樽を一本やる」

「それで何とか頑張ります」

「安いな」

「現実はだいたい酒で回ります」


 アレクシスは苦笑し、手綱を引いて馬を連れていこうとしたが、バルドが首を振った。


「その馬はここまでだ。先は細い」

「なら置いていく」

「本気じゃの」

「ここまで来て引き返す理由がない」

「旦那様」とベルノルトが呼び止める。

「何だ」

「もし本当に良い土地なら、館に報せを」

「わかっている」

「“見つかった”くらいの一言でも構いません」

「妻にか?」

「奥方様と、若様にも」

「……そうだな」


 アレクシスは少しだけ空を見た。


 フィオナなら、たぶん書簡を見た瞬間に察するだろう。

 ああ、この人、また本当にやるつもりなのね、と。

 リオンはリオンで、どうせ「父上が目を輝かせてるなら、止めても無駄だ」と肩をすくめるに違いない。


 それでいい。


 人生の後半に何を本気でやるか。

 それを笑われても、呆れられても、やめる気にはならなかった。


 バルドが山道の脇へ入りながら、振り返る。


「行くぞ、湯狂いの貴族さん」

「勇者はどこへ行った」

「山に入るには長すぎる肩書きじゃ」

「それもそうだ」


 アレクシスは外套の留め具を直し、剣の位置を整えた。


 斜面へ続く獣道は細く、岩と根がむき出しで歩きにくい。普通の貴族なら眉をひそめる道だろう。だがアレクシスの足取りは軽い。むしろ少し速いくらいだった。


「ちょ、ちょっと待ってください、閣下!」とベルノルトが後ろから叫ぶ。

「何だ」

「帰りに書類を忘れないでください! あと、宿を建てる前に最低でも土地の権利整理は――」

「聞こえている」

「本当にですか!?」

「たぶん半分くらいは」

「半分じゃ困ります!」


 バルドがげらげら笑う。


「よい家臣を持ったな」

「私もそう思う」

「家臣の苦労は増えそうだが」

「それは否定しない」


 山へ一歩、また一歩と分け入るごとに、空気が変わっていく。

 冷気の中に湿りが増し、土の匂いの奥に鉱物の気配が強まる。

 アレクシスの顔つきは、もう完全に変わっていた。


 静かな高揚。

 目の前にまだ見ぬ湧き湯があると知った時の、それだ。


 しばらく登ったところで、バルドが足を止めた。


「この先じゃ」


 前方には、岩肌の連なる斜面が広がっている。まだ湯そのものは見えない。だが風向きが変わった瞬間、確かに異なる匂いが混ざった。


 鉄。

 硫黄。

 湿った石。

 そして、熱。


 バルドが顎で先を示す。


「山腹の岩場に、色の違う湯がいくつも湧く場所がある」


 その言葉で、アレクシスの目が変わる。


 旅人の目でも、貴族の目でも、元勇者の目でもない。

 理想の宿を夢見る者の目だ。


 彼は一歩、前へ出た。


「案内してくれ」

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