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プロローグ♨開業初日から満室です!? 貴族も冒険者も魔族も押しかけてきた

 夜明け前の山岳街道は、青というより銀色だった。


 東の空が薄く白み、尾根筋にかかる霧が谷の底からゆっくりと這い上がってくる。遠くで鐘のような鳥の鳴き声が一つ、また一つ。朝露を含んだ草葉が冷たい風に揺れ、その風が、湯の匂いを山肌に沿って流していく。


 その匂いは、湿った土と石、かすかな硫黄、熱せられた鉱泉の鉄気を含んでいて、旅人であれば否応なく足を止める種類のものだった。


 山腹を削って造られた街道の脇、低い石垣と鍛鉄の門の向こうに、一軒の大きな宿が建っていた。


 白壁ではない。

 漆喰と灰色の石、濃い木色の梁で組まれた、いかにも山間の街道宿らしい重厚な建物だ。


 本館は二階建て、屋根は急勾配で、冬の雪を滑らせるように造られている。正面には馬車寄せ。脇には厩舎と荷馬用の小屋。建物の奥には回廊でつながった湯殿が並び、それぞれの湯殿ごとに異なる湯気が朝靄の中へ溶けていた。


 庭園、と呼ぶには少し荒々しい、岩と針葉樹を活かした中庭。そのさらに先には、山の岩肌をそのまま生かした露天の湯船がある。どこか修道院の離宮にも似た静けさと、辺境伯の狩猟館にも似た堅牢さ。その両方を持った宿だった。


 この世界の言葉でいえば、上等な湯治宿。


 だが、この宿を作った男は、それでは足りないと考えた。


 ただ立派なだけでは意味がない。

 湯が良くなければ意味がない。

 湯が生きていなければ、もっと意味がない。


 だから彼は、この宿に七つの湯を持たせた。


 鉄気の強い赤い湯。

 乳白色に濁る柔らかな湯。

 青みを帯び、魔力疲労に効く鉱泉。

 刺激の強い硫黄泉。

 じわじわ温まる塩泉。

 薬草との相性が良い澄明な湯。

 そして、夜空を見るために温度を調えた静かな露天。


 七つすべて、源泉かけ流し。


 湯は止めない。貯めすぎない。冷やしすぎない。

 宿の主が何よりも優先した、頑迷とも言える流儀だった。


 その宿の正面玄関に、腕を組んで立つ男がいる。


 年の頃は四十代後半。

 肩幅は広く、背筋は真っ直ぐで、動かずに立っているだけでも無駄のない体つきだとわかる。若者のようなきらびやかな美形ではないが、顔立ちは引き締まり、旅塵や歳月や戦いの痕をくぐり抜けてきた男特有の渋みがあった。髪には少し銀が混じり、目元には年相応の線がある。だがその目は老いていない。静かで、よく見ていて、今は戦場ではなく、宿の湯気の上がり具合を見ていた。


 アレクシス。


 かつて魔王を討った勇者。

 王国より最上位貴族の称号と広大な領地を授かった英雄。

 今は、それらをほぼ妻と成人した息子に任せ、自分は辺境の山中で湯宿を開くことに人生の熱量を注いでいる男である。


 本人は「今はただの宿主だ」と言い張っているが、説得力は半分くらいしかない。


 アレクシスは朝靄の中に立つ宿を見上げ、小さく息を吐いた。


「……悪くない」


 言葉は短いが、かなり機嫌が良い声だった。


「“悪くない”で済ませるのかえ、主様」


 背後から、鈴を転がすような、だが妙に人を食った声が飛んできた。


 振り向かなくてもわかる。リューシェだ。


 アレクシスが肩越しに振り返ると、そこには外見だけ見れば十六歳前後の娘にしか見えないエルフが立っていた。長い金髪を一つに緩く結い、朝の光を受ける前の薄青い空気の中でも、森の妖精じみた整い方をしている。細い肩、長い睫毛、尖った耳、翠の瞳。


 ただし実年齢は千年を超える。


 そして性格は、可憐さより毒舌が先に立つ。


「“悪くない”では足りぬじゃろう。昨日の夜など、おぬし、露天の湯口を前に腕組みして三十分も動かなかったではないか」

「確認していただけだ」

「確認ではない。感慨に浸っておった」

「浸ってない」

「浸っておった。『ようやくここまで来た……』みたいな顔での」

「してない」

「しておった。なんなら少し泣きそうでもあった」

「それは盛ったな」

「少しだけじゃ」

「盛ってるじゃないか」


 リューシェはくすくす笑い、石畳の上を軽い足取りで玄関先まで来た。


「して、天下に名だたる元勇者殿。王侯も恐れる大貴族殿。開業初日の気分はいかがかな?」

「最悪だ」

「ほう?」

「静かすぎる。逆に落ち着かん」

「さっき“悪くない”と言うたばかりじゃが」

「景色の話だ。気分は別だ」

「面倒くさいのう」


 そこへ、内側の扉が少しだけ開き、おずおずと小さな顔が覗いた。


「あ、あの……お茶を……持ってきました」


 両手で銀盆を抱えていたのは、ユノだった。


 肩までのやわらかな栗色の髪。透けるような肌。大きな目。華奢な首筋。眠そうに下がる眉までいちいち絵になる。街道の宿どころか、王都の社交界へ放り込まれても違和感がないほど、どう見ても美少女だ。


 だが、実際には少年である。


 つい先日まで奴隷商人の檻に入れられていたのを、アレクシスが買い取り――という表現を本人は嫌うだろうが――結果的に助け出し、今は《朝霧亭》の手伝いとして働いている。


 まだ少し怯え癖は抜けない。

 遠慮も深い。

 だが真面目で、覚えが早く、そして放っておけない。


「ありがとう、ユノ。置いておいてくれ」

「は、はい。あの……眠れましたか?」

「眠れた」

「本当ですか?」

「……半分くらい」

「やっぱりですか」

「露天の湯量が気になっただけだ」

「主様、寝言でも『第三泉は朝に半度下がる』とか言うておったぞ」

「言うな」

「言ってたんですか!?」とユノが素で驚く。

「言ってない」

「言うておった」

「おまえが面白がって記憶を盛ってるだけだ」

「いや、わりとそのままじゃ」

「ユノまで敵に回るな」


 ユノは少し困った顔をしたあと、でも我慢できなかったらしく、控えめに笑った。


 その笑顔を見たリューシェが、ふう、と大げさにため息をつく。


「やれやれ。今日からこんな顔で客を迎えるのか。宿の男どもが正気を保てるか心配じゃのう」

「やめてくださいよ、リューシェさん……」

「何をやめるのじゃ? 事実を言うただけじゃ」

「事実でも言い方があるでしょう!?」

「ない」

「あるんです!」


 アレクシスは二人のやり取りを聞きながら、玄関の横に掛けてある真新しい宿札へ目をやった。

 開業日。


 本来なら、今日は慎重に始めるつもりだった。


 数を詰め込みすぎず、まずは湯の流れと客の動線を見る。広間の食事の出し方を確かめる。浴場ごとの札の替え方、従業員の足運び、馬車寄せの詰まり方、湯上がりの休憩所の使い心地――確認したいことはいくらでもある。


 だから予約も控えめに取っていた。

 最初から満室を目指す気など、まるでなかった。


 静かな開業。

 それが理想だった。


 だが、理想というものは、えてして朝一番に砕ける。


 最初に聞こえたのは、蹄の音だった。


 しかも一頭や二頭ではない。整えられた馬の歩調、車輪の軋み、従者の短い号令。山道の向こうから、いかにも「よけて道を開けろ」と言わんばかりの一団が近づいてくる。


 アレクシスの眉がわずかに動く。


「……来たな」

「予約の客じゃったか?」

「時刻が早い」

「嫌な予感がするのう」

「奇遇だな。私もだ」


 街道の霧を割って現れたのは、白塗りの豪奢な箱馬車だった。扉には王都の南方貴族の紋章。二頭立て。護衛騎士二名。従者三名。荷車一台。明らかに一泊二日の軽い旅行規模ではない。


 扉が開き、最初に降りてきたのは、立派な髭を整えた中年の男。仕立ての良い上着と毛皮付きの外套、装飾杖、鼻の高い顔立ち。見るからに「自分が歓迎される側である」と信じて疑わぬ種類の貴族だった。


 その後ろから、気品ある貴婦人、年若い令嬢、老騎士、侍女が続く。


「ふむ」


 中年貴族は宿を見上げ、石壁や屋根、窓の造り、門柱の彫り込み、馬車寄せの広さまで一瞥すると、品定めするように鼻を鳴らした。


「山奥の宿と聞いていたが、辺境にしては見られるな」


 アレクシスは一礼した。深すぎず、浅すぎず。


「ようこそ、《朝霧亭》へ。旅塵を払う前に、まずは温かい茶と冷たい井戸水をお持ちします」

「うむ。応対は悪くない」

「光栄です」

「ただし、わたしは香りの強すぎる草茶は好まん」

「では、軽い蜂蜜茶にしましょう。奥方と令嬢には白茶を」

「ほう、わたしが草茶を嫌うと見て取ったか」

「香料袋をお持ちでない。旅慣れた方は、強い匂いを避ける」

「……ふむ」


 少しだけ、中年貴族の目の色が変わった。

 見た目で侮った相手が、思ったより目ざといと気づいたときの顔だ。


 そのときだった。


 反対側の坂道から、今度は遠慮も品位もない大声が響いた。


「うおおお見えた! あれじゃねえか!?」

「でけえ! 思ったより立派!」

「おい急げ、先に風呂取られるぞ!」

「だから風呂は取るもんじゃねえだろ!」


 革鎧、長剣、槍、弓、大荷物。若い冒険者五人組。馬もなく、荷を背負い、汗まみれだがやたら元気がいい。予約などあるわけがない顔ぶれだった。


 リューシェが目を細める。


「うわ、朝から騒がしいのが来おった」

「山の上まで声がうるさい」

「宿札を掛ける前から満場一致で静けさ終了じゃな」

「まだ終わりじゃない」


 アレクシスの言葉を証明するように、もう一つの影が霧の中から現れた。


 黒い外套。深いフード。長身。

 足取りは静かで、存在感は薄いのに、なぜか見逃せない。


 人間ではない――とまでは、普通の者にはわからないだろう。だが戦いに長く身を置いた者なら感じる種類の、わずかな異質さがあった。


 魔族だ。高位か、それに近い。


 しかも、隠してはいるが、完全に隠しきる気もないらしい。


 さらにその後方から、近隣の集落の者たちらしい年寄りや旅人が、杖や包みを抱えてぞろぞろと上がってきた。


「新しい湯宿はここかい」

「赤い湯が腰に効くって噂でな」

「白い湯は肌にいいんだと」

「見物だけでも――」

「いや、ここまで来たら入るぞわしゃ」


 アレクシスは無言で空を見上げた。


 開業初日。

 静かな滑り出し。

 どこへ行った。


「主様」

「言うな」

「まだ何も言うておらんが?」

「“面白くなってきたのう”って顔をしてる」

「しておる」

「正直だな」

「隠す気もない」


 ユノは銀盆を抱えたまま完全に固まっていた。


「あ、あの……えっと……これ、どう、どうすれば……」

「まず盆を落とすな」

「は、はい!」

「次に深呼吸しろ」

「は、はい! すぅ……はぁ……」

「落ち着いたか?」

「全然です!」

「正直でよろしい」


 そこへ冒険者たちが門をくぐり、わあわあ言いながら玄関へ雪崩れ込んできた。


「おおー! 中もすげえ!」

「石と木の匂いがいい!」

「なあ宿の姉ちゃん! 一番熱い風呂どこだ!?」

「姉ちゃんじゃありません!」

「へ?」

「姉ちゃんじゃ、ありません!」

「えっ、じゃあ妹!?」

「違います!」

「看板娘かと思った」

「違いますってば!」


 冒険者の一人が仲間の肘をつつく。


「いやでも見ろよ、これで男は無理があるだろ」

「あるのはおまえの偏見じゃ」

「いやだって睫毛がさ――」

「聞こえてます!」


 その騒ぎに、中年貴族の令嬢まで目を丸くしてユノを見た。


「まあ……本当に?」

「本当にです……」

「まぁ……」

「“まぁ……”って何ですか」


 リューシェはとうとう堪えきれずに笑い出した。


「やれやれ、初日から宿の名物ができてしまったのう」

「人を名物扱いしないでください!」

「しかし事実じゃ。湯も良い、飯もうまい、看板係は愛らしい。繁盛間違いなしじゃな」

「繁盛の方向が違います!」


 黒い外套の旅人は、そのすべてを少し離れて眺めたあと、低く言った。


「一室、空いているか」

「ある」


 アレクシスは即答した。


「一人部屋で良ければ取れる。食事はつけるか?」

「つける」

「好き嫌いは」

「強い香草は避けたい」

「承知した。刺激の少ないものにする。……あと、硫黄泉は今日はやめておけ」

「…………なぜだ」

「匂いを嫌った顔じゃない。肌が引いていた。体質に合わない」

「…………」

「違ったか?」

「……いや。合っている」


 冒険者たちが「なんで分かるんだよ」とざわつき、貴族の老騎士が面白そうに目を細める。


「宿主殿、ただの湯屋の主人ではないな」

「ただの宿主だ」

「その言い方を信じる者は少なかろう」

「なら信じなくていい。湯に入ってくれればそれでいい」


 アレクシスは一歩、玄関の中央へ出た。


 場を仕切るべき時に、自然に声が通る。

 それは戦場でも、貴族の広間でも、宿の玄関でも同じことだった。


「全員、聞いてくれ」


 不思議と、それだけでざわつきが少し収まる。

 怒鳴っていない。だが、聞くべきだと本能が理解する声だった。


「本日、《朝霧亭》は開業初日だ。多少の不手際はあるかもしれないが、湯と寝床と飯は裏切らない。順番に案内する。まず湯治目的の者、古傷のある者、長旅で足腰をやられている者は赤湯へ。鉄と塩の気が強い。初回は短めに」

「ほう」と老騎士が反応する。

「そなた、わしの足を見たか?」

「見た。右の膝をかばっている。昔の打ち傷か、裂傷だな」

「……打ち傷だ」

「なら赤湯だ。だが長湯はするな」


 次いで、アレクシスは令嬢へ目を向けた。


「肌が荒れているなら白湯へ」

「っ……」

「旅の乾燥だ。靴も少しきついはずだ」

「どうしてわかるのです」

「歩き方」

「見すぎでは?」

「宿主だからな」

「宿主ってそこまで見るものなんですの?」

「見る」


 令嬢は母親と顔を見合わせた。


「お父様、この宿、少し変ですわ」

「良い意味なら構わん」

「たぶん良い意味です」


 冒険者たちはもう待てないとばかりに手を挙げた。


「おれたちは!?」

「おまえたちは、まず薬湯かぬる湯だ」

「なんでだよ! 一番熱いの行かせてくれよ!」

「昨日寝てない者が二人、魔力を使いすぎて頭が重い者が一人、山道で足を攣りかけてる者が一人、単に浮かれてるだけの馬鹿が一人だ」

「最後おれだな!?」と一番声の大きい斧使いが叫ぶ。

「自覚があって何よりだ」

「いや褒められてねえ!」


 仲間の杖使いが顔をしかめた。


「……待て、本当に頭痛いの当てられたんだけど」

「顔色が悪い」

「え、そんなに」

「おまえ昨日の野営で見張り代わらされただろ」

「なんで知ってんの!?」

「目の下」

「この宿主こええ!」


 リューシェが肩を揺らす。


「主様は昔から、人の疲れ方を見るのだけは妙にうまいからの」

「“昔から”?」

 と、ユノが首を傾げる。

「うむ。こやつ、勇者時代も、仲間が無理しておるとすぐ見抜きおった」

「言うな」

「事実じゃ」

「勇者時代?」と冒険者たちが揃って聞き返す。

「えっ、まさか」

「いやいやそんな」

「この宿主が?」


 アレクシスは面倒くさそうに眉を寄せた。


「湯の案内を続けるぞ」

「ごまかした!?」

「ごまかしたのう」

「リューシェ、おまえは黙れ」


 それからが、本格的な騒ぎだった。


 ユノは貴族一家を広間へ案内し、侍女にお茶を渡し、荷物を預かる手伝いをし、その合間に冒険者たちへ脱衣所の位置を説明し、地元の湯治客へ赤湯の入り方を伝え、三度ほど「看板娘さん」と呼ばれてそのたびに訂正し、四度目あたりから半泣きになった。


「だから違いますぅ……」

「でも君、ほんとに可愛いな」

「褒められても困ります!」

「なあ兄弟、こりゃ王都じゃひと財産だぞ」

「おまえその言い方やめろ」

「やめろとは?」

「やめろだ」


 アレクシスが低く言うと、冒険者の軽口はぴたりと止まった。


「うちの従業員を品定めするな」

「……悪い」

「わかればいい」


 ユノはその横顔を見て、ほんの少しだけ目を見開いた。

 こういう時、この男は決して声を荒げない。だが、その一言だけで線を引く。


 リューシェはそのやり取りを見ながら、帳場で宿帳を広げていた。


「ほれ、名前を書け。冒険者ども、字は書けるか?」

「なんでそんな言い方なんだよ!」

「書けぬのか?」

「書ける! 書けるけど汚い!」

「正直で結構」


 中年貴族がその様子を見て、ふむ、と鼻を鳴らした。


「変わった宿だな。主人は不遜とも言えるし、帳場の娘――いやエルフ殿か――は無礼だし、従業員は妙に愛らしい」

「褒めておるのか貶しておるのか、どちらじゃ?」

「半々だ」

「ならちょうどよい」

「だが湯の見立ては確かのようだな」

「湯に関しては妥協せん」とアレクシス。

「“湯に関しては”?」

「他は多少妥協する」

「嘘じゃな。寝具も食事も掃除も、かなりうるさいぞ、こやつ」とリューシェ。

「全部妥協してないじゃないですか」とユノ。

「……そこまで言うな」

「言われる側の自覚はあるのですね」

「少しはな」


 広間では、まず軽食が出された。


 硬すぎない黒パン。

 山羊乳のやわらかなチーズ。

 塩漬け肉を薄く削ったもの。

 根菜の温かい煮込み。

 蜂蜜入りの軽い茶。


 旅人向けの朝食としては、くどすぎず、しかし素っ気なさすぎない。


 令嬢が一口食べて目を瞬かせた。


「……あら、おいしい」

「それは良かった」

「こういう山宿の食事は、もっとこう……煮すぎた芋とか、固い肉とか、そういうものかと」

「ひどい偏見じゃのう」とリューシェ。

「実際、そういう宿も多いですわよ」

「否定はできん」


 老騎士は赤湯から戻ってきたばかりで、まだ少し身体が火照っているらしく、だが膝の動きはわずかに軽かった。


「宿主殿」

「何だ」

「湯は確かだ」

「それは結構」

「“それは結構”ではなく、少しは誇れ」

「誇っている。顔に出していないだけだ」

「面倒くさいな」

「よく言われる」


 そんなふうに、宿がどうにか宿らしく回り始めた頃だった。


 玄関の扉が、ばん、と乱暴に開いた。


「おいおいおい、景気がいいじゃねえか!」


 入ってきたのは、酒臭い笑い声を上げる三人組だった。鎧は汚れ、剣は手入れが甘く、目つきは悪い。旅人でも冒険者でもない。街道で楽に稼げそうな場所を嗅ぎつけては、恫喝か喧嘩か女目当てで入り込んでくる類の無頼者だ。


「新しい宿ができたって聞いてよぉ、祝儀をもらいに来てやったんだ」

「開業祝いだ、酒出せ酒!」

「お、なんだ、ずいぶん上玉のガキがいるじゃねえか」


 その視線がユノに向いた瞬間、ユノの肩がびくりと震えた。


 アレクシスはその反応を見逃さない。


 ただしこの時点では、まだ声は穏やかだった。


「泊まるなら料金を払え。飲むなら席につけ。騒ぐだけなら帰れ」

「あぁ?」

「聞こえなかったか」

「てめえ、宿の親父のくせに偉そうだな」

「宿主だからだ」


 無頼者の一人がにやにや笑いながら、わざと泥のついた靴で広間へ踏み込んだ。もう一人は酒瓶を振り、三人目は湯殿の方を覗き込む。


「へえ、風呂まであんのか。景気いいねえ」

「靴を脱げ」とアレクシス。

「知るかよ」

「脱げ」

「嫌だって言ってんだろ」

「……最後だ。靴を脱げ」


 その言葉を無視して、一人が湯殿へ向かった。


 石畳から木床へ、泥の靴のまま。

 脱衣所へ、笑いながら。

 そして湯殿の縁へ足をかけようとした、その瞬間。


 空気が変わった。


 広間のざわめきが、すっと消える。


 アレクシスが一歩進んだ。

 ただそれだけだ。

 だが、その一歩に、戦場を知る者だけが持つ重さがあった。


 老騎士が息を止める。

 黒い外套の旅人が静かに目を上げる。

 リューシェは「ああ、これは終わったの」とでも言いたげに肩をすくめた。


「……下がれ」


 怒鳴り声ではない。

 低く、冷えた声。


 無頼者たちの顔色が変わる。獣じみた勘だけはあるのだろう。相手が、自分たちのよく知る“殴れば黙る相手”ではないと、身体が先に悟る。


 それでも一人は虚勢で剣に手をかけた。


「びびらせようってか、こ――」


 言い終える前に、その男の身体が廊下を滑っていた。


 何が起きたか、ほとんど誰も見えなかった。


 気づけば男は床に転がり、剣は遠くへ弾かれ、残り二人は後ずさって壁にぶつかっている。アレクシスは元いた場所より少し前に立っているだけ。呼吸すら乱れていない。


「な、な……」

「湯を汚すな」


 それだけだった。


「ここは宿だ。喧嘩場でも賭場でもない。泥靴で湯殿に入るなら、二度と足を踏み入れるな」


 無頼者の一人が歯を鳴らす。


「て、てめえ……何者……」

「宿主だ」

「嘘だろ……!」

「本当じゃよ」


 にこやかに答えたのはリューシェだった。


「ちなみに元勇者じゃ」

「言うな」

「隠してももう遅かろう」

「元勇者あ!?」


 冒険者たちの声が揃った。


「やっぱりか!」

「いや雰囲気からしてそうかもって思ったけど!」

「宿主っていうか伝説じゃねえか!」

「おれさっき軽口叩いた!」

「今さら青くなるな。もう叩いたあとだ」


 老騎士がふっと笑う。


「なるほどな。腑に落ちた」

「最初から気づいていたか?」

「いや、途中からだ。だが今ので確信した」


 黒い外套の旅人も、低く呟いた。


「……勇者か」

「“元”だ」とアレクシス。

「どちらでも、大差はないように見える」

「宿では差がある。今は湯番の方が本業だ」

「湯番……」

「湯番だ」


 無頼者たちはそれ以上の虚勢を張れず、半ば転がるように逃げていった。


 扉が閉まる。

 しばし沈黙。


 そしてその沈黙を最初に破ったのは、やはり冒険者たちだった。


「すっげえええええ!」

「何あれ!?」

「おれ全然見えなかったんだけど!?」

「宿主つえええ!」

「“つええ”で済ませるの、語彙が貧弱すぎます!」とユノ。

「だ、だって本当にすごかったし!」

「まあ、すごかったですけど!」

「ユノ、おまえも興奮しておるのう」

「してません! ちょっとだけです!」


 アレクシスは軽く肩を回した。


「騒ぎは終わりだ。食事中の客の邪魔をするな」

「いや無理だろ、あの後で普通に戻れって!」

「戻れ」

「横暴!」


 だがその横暴さが、不思議と嫌味にならない。

 宿全体の空気が、むしろ一度締まり、安心したように落ち着いた。


 ユノはまだ少し震えていたが、アレクシスが振り向いて言う。


「大丈夫か」

「……はい」

「嫌なら奥へ下がっていろ」

「いいえ。働きます」

「無理はするな」

「無理じゃありません。……ここ、僕の働く場所ですから」


 アレクシスは一瞬だけ目を細めた。


「そうか」

「はい」

「なら、次は湯上がりの果実水を出してくれ」

「はい!」


 返事がさっきより強い。

 リューシェはそれを見て、ふっと笑った。


「良い顔になってきたのう」

「誰がですか」

「二人ともじゃ」


 その後、宿は完全に軌道に乗った。


 貴族一家は思った以上にくつろぎ、令嬢は白湯をいたく気に入り、老騎士は赤湯の後に「膝の曲がりが違う」と二度言った。中年貴族は最初こそ偉そうだったが、食事と湯に満足したのか、夕方には妙に機嫌が良かった。


「宿主」

「何だ」

「今後、王都の知人に勧めても構わんか」

「構わん」

「ただし妙な者が増えそうだな」

「今さらだ」

「それもそうか」


 冒険者たちは薬湯から始めさせられた文句を言いながらも、最終的には全員のぼせずに済み、夕食では「この塩焼きやばい」「煮込みが染みる」「黒パンがうまい宿初めてかも」と大騒ぎだった。


 魔族の旅人は静かに過ごしていたが、夕食後、露天の縁に腰かけてぽつりと言った。


「ここは……変な宿だな」

「褒め言葉として受け取る」とアレクシス。

「勇者が宿主で、千年エルフが帳場にいて、看板係があれだ」

「あれって何ですか!」

「……可憐だ」

「っ……」


 ユノが真っ赤になり、リューシェが腹を抱えて笑う。


「やはり看板係としては最強ではないか」

「何の最強なんですか!」


 日が沈み、山の空気がひんやりしてくる頃には、広間の灯火が石壁に暖かな色を落としていた。


 鍛鉄の燭台にともる火。

 煮込みの香り。

 湯上がりの客が羽織る軽い室内着。

 木椅子の軋み。

 遠くの湯殿から聞こえる湯の流れる音。


 外は中世めいた辺境世界でも、この宿の中だけは妙に満ち足りた場所になる。

 アレクシスが目指したのは、まさにそれだった。


 ようやく最後の皿が下げられ、帳場の計算も終わり、客室の灯が一つずつ静かになる。


 ユノは椅子に座り込んだまま、ぱたりと机に額をくっつけた。


「つ、疲れました……」

「よくやった」とアレクシス。

「ほんとに……死ぬかと……」

「死ぬほどではない」

「主様、その基準はたぶん普通ではないぞ」

「普通だ」

「勇者基準を普通と言い張るな」

「でも、でも……」


 ユノは顔を上げて、くしゃりと笑った。


「すごく、宿って感じでした」

「宿って感じ?」

「はい。みんな、来たときより帰るときの方が、ちょっと顔がいいです」

「……そうか」

「はい。あ、帰ってない人もいますけど、でもなんか、そんな感じです」


 リューシェが鼻で笑う。


「なるほどの。看板係は看板係で、よく見ておる」

「だから看板係って確定させないでください!」

「もう半分くらい定着しておるぞ」

「嫌です!」


 アレクシスは帳場から立ち上がり、露天へ向かった。

 夜の空は澄み、山の稜線の上に星がきらめいている。岩組みの露天には白い湯気が立ち、流れ込む湯が月明かりを揺らしていた。


 理想通りではない。

 穏やかな開業を望んでいた。

 それが朝から貴族、冒険者、魔族、湯治客、無頼者のおまけつきだ。


 だが。


「……まあ、悪くない初日だ」


 背後で、すぐにリューシェの声がした。


「大満足の顔で言うのう」

「言ってない」

「言うておる」

「またそれか」

「事実じゃ」

「僕もそう思います」

「ユノまで」


 そのとき、帳場からリューシェが一通の封書をひらひら持ってきた。


「おや、もう来おった」

「何がだ」

「予約希望じゃ」

「もう!?」


 ユノが飛び上がる。


「読むぞ。『王都南方伯家、近日中に四室希望。白湯と赤湯の貸切について相談あり』」

「早いな」

「次。『銀嵐の牙亭所属冒険者一行、名湯の噂を聞きつけ大部屋希望』」

「増えるのか、あの手合いが……」

「さらに、『北方より一人、刺激の少ない食事と静かな部屋を所望』……魔族じゃな、これ」

「隠す気が薄い」

「あと地元湯治が三件。最後に――おや」

「何です?」

「『看板娘殿にまた会いたい』」

「燃やしてください!」

「保存じゃな」

「しないでください!」


 リューシェが笑い、ユノが真っ赤になって抗議し、アレクシスは額を押さえた。


 静かな余生。

 そういうものを思い描いたことが、まったくないわけではない。


 だが、たぶん自分には、完全に静かな暮らしなど似合わないのだろう。

 客が来る。

 騒ぎが起きる。

 それでも最後には、湯に浸かって飯を食って、少しだけ顔が和らぐ。


 それでいい、とアレクシスは思った。


 この宿には、これからもいろいろな者が来るはずだ。

 貴族も、冒険者も、魔族も、旅人も、湯治客も。

 面倒ごとを抱えた者も、癒やしだけを求める者も。


 ならば宿主のすることは一つしかない。


 湯を守り、飯を出し、寝床を整え、必要なら面倒も追い返す。


 アレクシスは夜空を見上げた。


「……よし。明日も湯を落とすな」


「最初に言うことがそれかえ」

「大事だ」

「大事ですけど!」

「主様、それ、宿主というより湯守では?」

「同じだ」

「違うと思うのう」

「いや、かなり近いですよね……」


 三人の声が、湯けむりの中で重なる。


 こうして、七泉の湯宿《朝霧亭》の最初の一日は終わる。


 そしてもちろん――

 この宿の日々は、まだ始まったばかりだった。

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