54.想い
《——綾人》
「…綾人。亜希ちゃん達、大丈夫かな?」
千智の不安そうな声が仄暗い階段を木霊する。先ほどから時折、階下が揺れる。展望台の戦闘が激化しているのは想像に難くない。
「千智、俺たちはただ進むしかない。今はただ『真祖』を倒すことだけ考えよう」
「……うん」
千智は一瞬、表情を曇らせてから顔に使命を貼り付けて首肯する。これは彼女が欲しい言葉じゃない。そんな事は重々分かっている。それでもここは覚悟を決める所だ。今、俺たちが止まれば、世界は再び吸血鬼の手に落ちるかもしれない。
——それだけはあってはならない
俺は『嗜好派』がどういう集団か、よく知っている。人を物のように扱い、自らが真の『人』である、支配者であると考える彼らは自身さえ『弱肉強食』の優生思想で自縛する。
それがまともな社会であるはずがない。
…何より俺は千智が、人が吸血鬼の理不尽に嘆く社会を望んでいない
だから、勝たねばならない。例え——どんな手を使ったとしても。
「綾人、大丈夫?」
その時、後ろから彼女の声がした。振り返ると手を胸に当て、顔に憂慮が浮かぶ千智が目に入る。
「俺は大丈夫だよ、どうかした?」
「…何だか、今、空気が張り詰めたような気がして……」
視線を合わせた千智の目が泳ぐ。彼女は数度、口をぱくぱくと動かして、一度噤んでから再び口を開いた。
「綾人、えっと……こんな時にごめんね。でも、言っとかないと、って思って……」
容量を得ない話に俺は首を傾げる。訪れるしじまが厳かさを醸し出し、俺は半身だった体を千智の方に向ける。そこには体の前で指を絡め、震わせる彼女の姿があった。
そして、完全に振り向いたその時、彼女が胸に飛び込んできた。脇の下から手を差し込まれ、隙間がないほどに密着する。
「ちょっと、千智!こんな時に…」
俺は突然の奇行に慌て、彼女を引き剥がそうとする。今はどう考えてもこんな事をしている場合ではない。しかし、彼女は決して離さない。背に回される手には到底、少女とは思えない膂力が宿り、俺を拘束する。やがて俺が抵抗をやめると彼女はその手を緩めた。
「…こんな時だからだよ。最悪どっちか死ぬかもしれない。体が無事かも分からない」
彼女の視線が下を向く。その先にあるのは腕が半ばから無くなった右手。彼女が何を言いたいのかはすぐ分かった。こうやって抱きしめ合えるのも今だけかもしれない、と。そう言っているのだ。
「…分かった」
俺は彼女の背に手を回し、抱擁する。互いの血が巡るような感覚を得て、俺たちは同時に手を解いた。
「…行こう。俺たちで『真祖』を倒すんだ」
「…うん!」
千智にしては珍しい快活な返事を受けて、俺たちは屋上へと踏み出した。




