46.心の赴くままに
《——綾人》
——数刻前
秒針がただ時を刻む音がただ鳴り響く。カチカチカチとその音は強くなり、俺は微睡から追い出された。視界にはボヤけた天井。全身は釜にかけられたように熱く、頭が上手く働かない。
熱から逃げるように布団を剥ぎ、鉛のように重い体を起こし、一息。ゆっくりと立ちあがろうとしたその時、視界が揺らいだ。
…っっ
体がよろめき、それを硬い感触が受け止める。…壁だ。そのまま暫く。体が動きそうになるのを待ち、壁を、扉を伝って、リビングにある椅子の背もたれに手をついた。
…はぁ、はぁ
息が荒い。起き上がってリビングに行く。それだけでまるで戦闘が一つ終わったかのような疲労が込み上げる。右手には神聖力の侵食で爛れた火傷のような感覚がある。
…早く、あれを、打たないと
『活性アンプル』は確か冷蔵庫にあったはず。俺は今にも途切れそうな思考の中でそれを思い出し、再び動き出そうと顔を上げた。その時、机の上に無造作に置かれた何かが目に入った。
…あ、れ、は
数度の瞬きで明瞭な視界を得た俺に飛び込んできたのは、何を隠そう。探していた『アンプル』だった。俺はその中の一つを握るとキャップを抜き、針を出し、首筋に打ち付ける。
首から薬剤が投与されるのを感じると共に体の重だるさが加速度的に減退していき、頭に巣食った靄が晴れていく。『アンプル』は元は戦闘時のドーピングとして開発されたもの。それ故に即効性が高い。
手を開いたり閉じたり。足をぶらぶらと振り体の感覚を確かめる。
新宿の戦いで傷を追った俺は、ここ暫く吸血鬼が得意とする夜に目を覚まし、吸血鬼細胞を活性化させる『アンプル』を使い、少しずつ『聖痕』を癒していく。そんな生活を続けていた。
…この感じだとあと二、三週間はどうにもならないな
未だ残る気だるさを感じながらふと思う。
…何で食卓の上に『アンプル』があったんだ?
出しっぱなしにした覚えもない。首を振り、徐に机の上を見ると散らばったアンプルの他、一つのメモと二つの無線機、そしてボイスレコーダーを発見する。
『これを聞いても、気持ちが変わらないなら来い』
その字はミロのものだった。恐る恐るボイスレコーダーを再生する。
「…っ!」
耳に轟くは昼頃のミロと千智の会話。…そして、真祖復活の報。
気づけば『影』が揺らめき、全身を覆うと先までのスウェットの代わりに黒づくめの戦闘服を纏っていた。俺は机に散乱した『アンプル』をウエストポーチに捩じ込むと、二本の無線を胸元に下げ、両耳をイヤホンで塞ぐ。それから足早に玄関に出ようという時。
…ロンギヌス
壁に立て掛けられた忌むべき槍の姿がそこにあった。
「…借りるぞ」
俺は聖槍を『影』に呑ませると足早に地下の駐車場へと向かった。
…作戦はもう始まってる
ミロの傍受する聖教の回線からは都庁の各階を制圧していく過程が、もう片方からは『穏健派』の部隊の動きが流れてくる。どうやら『穏健派』は各地から集まりつつある吸血鬼を迎撃しているらしい。
駐車場に至ると無線をしまい、俺は一つのバイクの元に向かう。ハンドルにかけたヘルメットを被り、内部に組み込まれたスピーカーから無線が流れるのを確認すると、スタンドをしまい、キーを中央に差し込んでエンジンを点火。
左のボタンを押し警戒音を響かせた。跨るは通称『黒バイ』と呼ばれる『穏健派』の警務に用いられる自動二輪。
…急げ
俺は胸で鳴り響く早鐘に促されるままアクセルを捻った。公道に出ると瞬く間に速度を上げ、車両の合間を縫い、駆けていく。やがて先に渋滞があるのか、周りの車両の動きが緩やかになり始めた。だが、俺は速度を落とさずそのまま加速する。
そして前の車に衝突せんというその時、バイクの『影』を斜めに伸ばし、宙へと躍り出た。道路照明が作り出す『影』を利用し、真っ黒な道を作り出し、独走する。
本来の俺なら出来ない芸当。それを『活性アンプル』が可能にする。そのまま渋滞を強引に抜けると再び道路へ。それからも『影』を使いながら可能な限り先を急ぐ。そうして十分弱、ようやく『東京都庁/第一庁舎』前に辿り着いた。
…騒々しいな
辺りには野次馬が集まっていた。注目を集めるのはやはり天空に鎮座する紅血の巨城。木の鱗のような紋様をした太い突起が都庁の上階層を貫き、空を覆う真紅の天蓋を支えている。都庁にはその姿をかき消すような漆黒の影が落ちている。
その下では警察や聖教が『キープアウト』のテープで一帯を囲い、集まった人々への声かけや迂回路の誘導などを行なっていた。
…急ごう
無線によると聖教の地上部隊は展望台で吸血鬼集団と交戦。『穏健派』は変わらず、結集する吸血鬼の掃討をしているようだ。
…千智が心配だ
俺は『活性アンプル』を注射すると、影に溶け都庁エントランスへと向かった。




