32.エバンの戦い
「マルティクス——起動『第三章/三十四節/ここに私の母、私の兄弟がある』
続けて、『第三章/三十五節/神のみ心を行う者は誰しも我が兄弟であり、姉であり、また母である』——」
開戦し聖典を唱えたその瞬間、エバンの目の前にはすでに黒影があった。
漆黒の靄を纏い、鉤爪のように折れ曲がった手が彼に向かって振り翳される。
エバンは即座に後ろに飛び、相手との間を作ると彼の周囲に浮かぶ聖典を間に差し入れた。
ガギンッ。
衝突した盾と矛。
開かれた聖典の背表紙を削るように五本の牙が滑っていく。後方に控えるエバンの腕の一振りで攻撃をいなしきった経典は宙を舞い、彼の周囲で対空する。
その動作はまるでオーケストラの指揮のようだった。
…間にあった
エバンは冷や汗を掻いていた。攻撃が始まる直前に術士団の全体強化の詠唱をかけたのだ。
目端で見える術士たちの体が青白く輝いているのを確認するとエバンは安堵し、眼前の敵を見やる。
「ほう……。今代の『ウリエル』は白兵戦も得手か。これは少々、骨が折れそうだ」
ダニエルは頭頂部が凹み、円形の鍔の付いた帽子を軽く抑えながら、毒を吐く。
次の瞬間、彼の体が揺らいだ。否、正確にはあまりの速さにその場に残像が残ったのだ。
『第二章/二十五節抜粋/安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない』
ダニエルはその凶刃をエバンに向ける。しかし、黙ってやられる彼ではない。すぐさま詠唱を開始し、『身体能力強化』を凌ぐ超人的な身体能力を得る。
…見える
エバンは首筋に迫る攻撃に対し、腰元の短剣に手をかけ、相手の手の甲目掛けて振り抜く。
それに勘づいたダニエルはその場で体を捩り、下から腕をエバンの頭上に向けてかち上げた。
それを体をやや後ろに逸らしながらエバンは避けると、腰を深く落とし、上体を据え、剣を薙ぐ。崩れた体勢を即座に整えたダニエルは左の裏拳で攻撃を向かい撃った。
『影』により強化された腕と聖剣の拮抗。
しかし、あまりの膂力にエバンは徐々に押され、体が後傾する。
『第一章/二十五節……沈黙せよ……そしてその体から退散せん』
奥歯をギリギリと噛み締めながらの詠唱。すると握る剣が煌き、切れ味を増した。破魔の力が宿ったのだ。だが、まだ足りない。変わらずエバンは押され続ける。
「重ねて命ずる……『第五章/八節/沈黙せよっ。そして、その体から退散せんっ!』」
刹那、形勢はエバンに傾いた。熱したナイフがバターに落とされるようにダニエルの手を聖剣が溶かし始めたのだ。
「……チッ」
それを見た彼は素早く腕を引き、深く相手の懐に踏み込むと右足を振り抜いた。
だが、感触は硬い。
ダニエルの視線の先には聖典があった。攻撃を予期したエバンが彼の死角から差し入れたのだ。
咄嗟の間隙。それを見逃すエバンではない。
即座にダニエルの右半身に飛び出た彼は体を前傾させ、ダニエルの腹から左肩にかけて大きく切り裂いた。更に剣を切り替えし、もう一撃。
ダニエルの体からは赤い炎が上がる。活性した神聖力、加えて聖典『マルティクス』よって底上げされた破魔の力は計り知れない。到底、吸血鬼に耐えられる攻撃ではない。
しかし、眼前の彼は違った。
ダニエルは口元に嘲笑うような笑みを浮かべる。
『影よ』
刹那、時間が遡行するように宙を舞う血液が彼の体に戻り、炎は消え、傷口は塞がれる。
それは瞬く間の出来事だった。
「ロンギヌスを耐え得る私にその程度は効かぬわ!」
重心が下に落ちていたエバン目掛けてダニエルは拳を握り、渾身の拳を見舞う。エバンは咄嗟に腕を交差させ、更には聖典を掲げたものの——余りある力はその防御を貫通し、彼を遥か後方の壁に叩きつけた。




