0.最弱で最強の吸血鬼
「こちら綾人、目標は?」
とある雑居ビルの屋上。俺は目下に広がる街並みに目を配りながら応答する。都市特有のビル風が冷たく吹き抜け、身を縮こませていると耳元のインカムにノイズが走った。
——ジジ…
『こちら、ミロ。標的は北西方向、約五〇〇メートル。オーバー』
友人の何処か幼さを残す声が無線機越しに伝わる。
「了解。…最短距離を頼む」
俺は胸元のマイクのボタンを押して返事をし、すぐさま行動を開始する。
屋上を駆け、最高速に達すると躊躇せずに中空へと飛び上がる。雑居ビルから別の低層ビルの屋上へ。
何処か錆びれた臭いを醸す風が後ろへと抜ける中、俺は落下の勢いを殺しながら着地。勢いそのままに姿勢を低くし、再び足を振り抜き、空中に身を投げ出す。
それを繰り返す最中、耳元では友人が忙しなく道順を捲し立てていた。
半ば自動的に指示に従い、体を動かしていると二つの影が姿を現す。
一つは『標的』を上から追尾する箱型の機影。俺の後援を買って出ている友人『ミロ』のドローン。もう一方は『標的』そのものだ。
大きな体躯に今にも張り裂けそうなスーツ。頭には似つかわしくない上品なシルクハット。隆起した筋肉は布越しに力強さを感じさせる。相手はこちらの追跡に構う事なく何処かへ向かって一心不乱に駆けている。
「…綾人。相手はお前の苦手な超近接、腕力特化のパワー型。いけるか?」
こういった手合いはもう何度も相手している。幾度このやり取りを交わしたか。俺はその言葉にため息を、ミロは心配そうな声色を滲ませる。
バディを組まされて早二年。もう慣れても良さそうだが、戦闘前はいつもこうだ。お節介なミロらしい。
「いけるも何もやるしかない。これまでもそうだった」
ぶっきら棒に言いつつも、俺自身も案じる気持ちが分からない訳でもなかった。
俺が相対するのはいつだって格上だ。俺がミロの側だったら——あいつと同じように戦闘には参加せず見守ることしか出来ないのなら、同じように不安に駆られドギマギする事だろう。
俺だって不安だ。
『お前にできるのか』
耳元では恐怖を煽る声が絶え間なく木霊する。
だが、それでも為さねばならない。
『人に仇なす吸血鬼をただの一つも残さず滅する』
これは俺の畢生の生業だ。
惧れは常にある。だが、それを覆い尽くすほどの怨讐がある。
——ピピッ
「犬塚綾人。これより『標的』を処断する」
俺は、ミロの声を端緒に思考の奔流から抜け出すと無線機のマイク片手に戦闘開始を告げる。目下に敵を見据え、俺はビルから飛び降り、『標的』の前へと躍り出た。
着地するとその余波で散りが舞い、月明かりを受けてキラリと光る。周囲を漂うそれ越しに『標的』に見やると相手は「何事か」とでも言うように呆然としていた。
やがて俺の存在を視認すると悪態をついてくる。
「さっきの雑魚か。邪魔立てするな。これは警告だ。吸血鬼に於いて『血』は絶対なる力。それを持ち得ない貴様が私に勝てる余地はない。手を引け」
…賊の割に存外、優しいな
彼の言うように俺たち吸血鬼は人間の血をどれだけ摂取したかで能力の優劣が決まる。それは間違いない。だが、俺は相手の言葉を咀嚼しながら鼻で笑った。
「…フッ」
「…何がおかしい」
重々しい低音を響かせながら、彼は俺の顔を見て訝しげな表情をする。ただ仕掛けてくるような事はない。それだけ俺と彼の間には絶対的な力の差が存在している。
生まれてこの方、人を食していない『俺』と数百の人を喰らって来た『標的』。
それは決して覆す事が出来ない差だ、吸血鬼という枠組みでは。
——来い
地に伸びる影にそう念じると一滴が水面に滴るように揺らめき、白銀のロングソードが顔を出す。それに手を掛け、チンという小気味いい音と共に抜剣する。
「ほう……」
すると『標的』の顔色が変わった。そして、得心したように彼は構えをとる。ようやっと俺を『敵』と認識したらしい。
——刹那、彼の体が眼前から消えた。ただ僅かに立ち上る土煙だけがそこに誰かが居た事を示している。
…左
俺は何もないはずの宙に剣を構え、剣身に片手を添える。瞬間、鋭い衝撃が剣越しに俺を襲った。
目の前には先ほどの『標的』。突如、土煙と化したのはあまりに速すぎた故だった。
手のひらは硬質化し、さらには鋭利な爪が顔を覗かせる。それらが携えた俺の武器とギリギリと嫌な音を立てる。
「なるほど……『同族殺し』の名は伊達ではないようだ」
歪に吊り上がった口とギラギラと輝く瞳。それらからは興奮の色が見てとれた。こちらを評価しつつも相手には未だ余裕がある。
楽しげに言の葉を紡ぎながら、彼は再び姿を消し…俺への猛攻を開始した。
…右、左、後ろ、斜め下
攻撃を読み、相手との間に剣を捩じ込み続ける。相手の器量は確かなもの。手元が狂えば全てが致命。ほんの少しの間違いが命を刈り取ろうという緊迫感の中、俺はひたすら防戦を強いられる。
やがて高速の攻撃を見舞う相手が困惑し精細さを欠くようになる。声色には憤りが籠もって行く。
「なぜ、ナゼ、何故。…何故だ。どうして私の攻撃が通らない!貴様の能力で私に張り合える訳がない!」
その混乱は必定だった。
相手からすれば能力の差は歴然。だが、俺にはまるで倒れる様子がない。そのチグハグさが当惑を招いたのだ。
事実、吸血鬼の戦いは能力の高さで大部分が決する。
しかし、あくまで大部分だ。全てが能力の優劣だけで勝敗が決まるわけでもない。
俺が曲がりなりにも相対出来るのは様々な技術の積み重ねに寄るものだった。
敢えて隙を作る。周囲の建物を利用して攻撃範囲を狭める。さらには接する間隙に相手の『影』に僅かながら干渉し、攻撃速度を減退させる。
そういった小さな積み重ねが能力の雌雄を超越し、『拮抗』という形となって現出する。
…その速度を逃走に生かされたら、こっちは手も足も出ないのにな
だが、それはない。力を持つ彼らには驕りがある。
『格下に負けるはずがない』
そんな傲慢でちんけなプライドが背を向けることを許さない。
吸血鬼の中で能力の強さは地位だ。力の優劣は階級であり、彼らはその偏見の中から逃れることが出来ない。それ故の高慢さが邪魔をする。
今頃、平静を覆い尽くすように沸いた激情が脳内を支配している事だろう。
その時だった。
止めどなく続いていた攻撃が突如として止んだ。
「貴様如きに私の力を見せねばならないのは心苦しいが…、仕方ない。負けたと知れれば、同族の笑い物になる。生憎だな、『同族殺し』——今宵も月は綺麗だ」
シルクハットの男は突如として距離を取ると、深刻な面持ちで片手を眼前へと翳す。
『変し…』
「させると思うか」
呪文と共に変貌を遂げようとする標的に俺は背後から直剣を突き刺した。変身途中の彼の顔は鼻を中心に変化し始め、スーツから覗く手首からは長い毛が見え隠れしていた。
『人狼』。
それがこの男の能力だった。変身されれば身体能力は桁違いに跳ね上がる。いよいよ俺の敵う相手ではない。
だが、勝機はあった。
まさにこの瞬間。変身の刹那に生まれるこの間隙である。
標的は眼球を溢れんばかりに見開き、驚愕の表情を露わにする。
「何故だ、貴様が…その速さで動ける訳がない…。あの方…、ダニエル様でさえ不可能なはずだ」
人狼は口元から鮮血を吹き出しながら混迷を示す。やがて視線は交錯し、俺はそれを受け流し、影へと向ける。『俺はここから来た』という意図を持ってして。
『他者の影に入る』。
それは自殺行為に等しい。吸血鬼は『影』を操ることができる。変形させ、物理的な攻撃手段として用いる事も勿論、可能だ。
だから、相手は影の中で俺を串刺しにすることができた。
本来なら、成功するはずのない『禁足』。それを成し得たのはいくつかの理由があった。
一つ、俺の吸血鬼としての『臭い』が限りなくゼロに等しいこと
人を食さない俺は吸血鬼としてはあまりに未熟。吸血鬼特有の『強者の臭い』がない。つまり、己の分身たる影だとしても感知が鈍化する。
一つ、相手が俺との戦闘に集中していたこと。
前者の理由に加え、この要因。さらには『人狼になる』というタスクが重なったことにより、数瞬の間、相手の注意を掻い潜り、影に身を潜めることが可能となったのだ。
…最も、このような埒外の攻撃手段を想定していないと言うのもあるかもしれないが
これが吸血鬼として格下の俺が強者の背後を取れた真相だった。俺が格上相手に勝利すべく生み出した戦闘手段である。
その時、人狼の手がピクリと動いた。次の瞬間、その手は人狼自身の首元へと向かい始める。
…させるかっ!
俺はその仕草を見てとると、影から自動拳銃を顕現。右手でグリップを握ると人狼の脳天目掛けて弾丸を見舞う。
「…がっ」
空気が漏れるような音と共に標的の体は制御を失い、地面に倒れた。それからすぐに真紅の炎が身体中から発せられ…瞬く間に灰となる。
吸血鬼の死の証である。
頭だった所には撃ち込んだ数発の銃弾が灰に埋もれるようにして転がっている。
…これももうダメか
抵抗の無くなった直剣を見て俺は呟く。戦闘前は光を受けた鏡のように煌めいていた剣身にはその輝きに陰りを見せていた。
剣が有していた浄化の力が無くなったのだ
『聖教(人間によって組織された吸血鬼討伐機関)』で再度、祝福を受ければまた『聖剣』として使うことも叶うのだが…、吸血鬼の俺には無理な相談だった。
握っていた剣を無造作に放ると、拳銃の方を影へとしまう。
…今回もギリギリだった。
最後、人狼が自身の首を刎ねようとしたのは自害するわけではない。再生しようとしたのだ。
人の血肉を喰らい覚醒した吸血鬼は心臓か脳があれば、全身を作り直すことが可能。
あとほんの数瞬、反応が遅れていれば標的は人狼へと変貌し俺の勝ち目が無いどころか、逃走すら叶わず、命を散らすところだった。
「…っ、はぁ」
安堵のため息をつくと全身の緊張が弛緩する。それから何度か深呼吸を繰り返すと寸刻ぶりに胸元のマイクを握った。
「ミロ、終わった。指示を頼む」
俺はいつの間にか現れたドローンを見据えながらそう言うと、耳元から伝わる逃走経路に従いその場を後にした。




