キミにはおしえない。
9/1
季節はもうすっかり秋になっていた。
僕は今、恋をしています。
長くてツヤツヤの黒髪にフワフワした声、パタパタとペンギンみたいな足音のTさん。僕はきっとこの瞬間を忘れることはないだろう。
彼女は僕より一つ上の大学生でバイト先でたまたま話すくらいの仲だ。きっと大学でもモテるんだろうなぁ。
9/2
バイト中なのにTさんから目が離せなくて、うっかり目があってしまった。慌てて目を反らす、バカ、これじゃあ見ていたことバレバレじゃないか。
ほんの少し何か言いたげな顔をした後に彼女はブースの方に小走りしていった。
ブースの方から彼女が何やらザワザワ話している……
見ているのがバレて嫌われたのかな、それとも全然別の話かな……?不安だけが僕には残った。
しばらくしてTさんは他のバイトの人を連れて僕の目の前を通りすぎた。
僕はTさんの表情を見れなかった。
同時に見られたくなかった。何というか、僕はどんなに小規模であれ他人からの制裁を恐れたのかもしれない。
9/14
バイト終わりに軽く雑談をした。嫌われているかもしれないのにTさんは可愛かった。
覚えている部分だけ書き起こそうと思う。
バイト終わり、ブース内にて
「最近起きるの辛いんですよね~Tさんは何時ごろ寝てますか?」
「ん~?私は1時から2時くらいかなぁ?」
「へぇ~!意外ですね!僕も同じくらいです~その時間帯は何してるんです?」
「え~?ん~と……」
困った顔をして笑って誤魔化す。
しばしの沈黙が僕を襲う。
しまった、困らせるようなことを聞いてしまったか。困った顔も可愛いけど、話題を変えなくては……!
「朝強いんですね~!起きてからどのくらいで家出てるんですか?」
「ん~●時間かな~?」
「へぇ~そんなに!確かに良く見たら髪綺麗ですもんね~」
「ふへへっ……ありがとうごさいます……」
笑いながらも敬語になるTさん、ぐぅ~可愛いよ。
思わず僕の表情筋が緩みそうになる。ニチャアって笑ったらマズイな……そろそろ帰らないと……
「それではお先失礼します!」
そそくさと走り去る。帰り道から眠りにつくまで、僕の頭は笑った彼女の顔でいっぱいだった。
9/18
この日からだろうか、Tさんはバイト中に髪をよくかき揚げるようになった気がする。
Tさんの黒髪は綺麗だ、長くてツヤツヤで歩く度に静かに揺れて天の川のようだ。
9/30
この日もTさんと喋れた。思い出しながら書こうと思う。
バイト前、ブース内にて
「Tさん、大学生活とかどんな感じなんですか?確か○学部でしたっけ?」
「そうだよ~結構楽しいよ~」
「Tさんと過ごせる人はめっちゃ幸せなんだろうなぁー」
今日の僕は少し強気だ。僕は普段、草食系のはずなのに今日はやたらガツガツしている。
「Tさんの彼氏さんも○学部なんですか?」
ガツガツしすぎだ、このバカ!
「……笑笑」
何も言わずに笑っている。ど…どっちなんだ……?これ謝った方がいいのかな……?
「も~そういうの止めなよ~!!TさんはみんなのTさんなんだから~!!」
Tさんより3つ歳上の女子大生が止めにかかる。沈黙で刺されずに済んだ、助かった……!
「ハハハ、これはすいませんね!では仕事してきますね!笑笑」
我ながら大変みっともない逃走である。
仕事場に戻る途中、トイレに行きたくなった。気まずいと思いながらもブースの横を通ってトイレに向かおうとドアノブに手をかけると、会話が聞こえてきた。会話の流れを変えたあの女子大生の声だ。
「ねぇさ、さっきのアレさ……何あいつ?」
ヒソヒソ声でなにやら呟いている。声色から察するに、僕にとってよろしくない話だとは分かっている。
聞くな聞くな聞くな!この先の言葉は僕が聞いてもどうにもならないことだ!ゆっくりと戻って反省会しろ!
心の中で叫んでいたはずだ、だかそんな声とは裏腹にその会話を聞いてしまっていた。
「マジあいつさ……キモくね??」
膝から崩れ落ちそうだったのをドアノブを掴んで耐える。しかしその影響で、ドアがゆっくりと音を立てて開き始めた。
慌てて僕は閉める。乾いた音が廊下に響き渡る。
耳を澄ませば、その会話は止まっていた。慌てて自分の作業スペースに戻る。そうだ、僕は知らないフリをしよう。
廊下でTさんが「ちょっと謝りに行ってくる」と言った。そこで例の女子大生は止めようとしている。しかし彼女は止まらない。こちらに向かってパタパタと歩いてくる。あぁ間違いない、Tさんの足音だ。生まれつき耳がいいのが災いとなる。
作業スペースに近づいてきて何か言わんとしている。否応なしに心臓は高鳴る。脇からへそまで冷や汗が走る。
「○○君、お仕事頑張ってね!」
予想外の言葉に0.2秒フリーズする。
「はい、頑張りますね!」
反射的に言葉を返すも全く仕事が手につかず困惑と恥じらいで沸騰しそうだった。
10/12
あれからTさんはドンドン可愛くなった。自分なんか恋愛していい立場じゃない。そんなこと分かっててもTさんを見るたびに恋に落ちていった。
こっちを見て時々笑いかけてくるようになった。自信に溢れているからだろうか、言葉では表せないほど美しい彼女の姿に僕はうっとりしていた。
しかしそんな自分を自覚する度に「あぁ僕は手玉に取られているんだ……」と思っていたのだった。
10/24
意識してるせいかもしれないが、最近Tさんはシフトを多めに入れ始めた。一週間連続で入っているような気がする。僕は家が近いこともありここをよく通るから何となくそう感じたのだ。
ちょっとからかうつもりで聞いてみた。
「Tさん、毎日シフト入ってませんか?水曜も木曜もいたし金曜も土曜も日曜も……」
「まって、木曜はいなかったよ~!」
「それでも多いですよねー!働き者なんですね~?」
「明日はいないから全然心配しなくていいよ~安心して仕事してね~」
「いや別にそういう訳じゃ……」
「えー何それ~どういう意味?笑」
恥ずかしすぎて顔を背ける。恥じらいの伴った喜びで脳がバグる。
むぅ……僕が逆にからかわれてしまった。
12/24
今日はクリスマス、彼女の姿は―――なかった。断定するにはまだ早すぎるが、この状況は彼氏がいると判断するには十分すぎる。
12/25
今日も彼女はいなかった。わかっている、あんなに魅力的な人なのに彼氏がいない方がおかしい。わかっている、わかっているんだよ……!
その日は雨が降っていた。頬を流れる雫は火傷しそうなくらい熱かった。
12/26
Tさんがブースにいた。ハッと目が覚めるように可愛かった。いつもよりお洒落な彼女は僕の目を奪った。
昨晩はどんな顔で何をしてたのか?そんなこと聞けるはずもなく一日が過ぎた。
ふと彼女の指を見るとキラリとピンク色のネイルが光っていた。
あぁ、またTさんの可愛いところを発見してしまった。君のような人間を褒めるのはきっと僕じゃない。辛いけど否めない、けど忘れ難いのも真実だ。
彼氏さんから彼女を奪ってしまいたいという感情は明らかに『罪』だ。背徳的な感情が積っていけば、人はその気持ちを『行動』に移す。行動に移した者には『罰』が与えられる。そして行動に移させるほどの魅力を持つ人を『罪深い人』と呼ぶのだ。
もしこの気持ちを行動に移せば、きっと僕は大衆の前で磔にされて裁かれる。二度とTさんには会えなくなるだろう。それは絶対に嫌だ嫌だ嫌だ。
「Tさんって罪深いんですねー」
訳のわからない言葉がポツリと口から飛び出す。僕がこんなこと言って何になるんだ。決まりが悪そうな顔でTさんの顔色を伺う。
ブース内の他のアルバイトには聞こえていないがTさんにはしっかり聞こえていたようだ。
Tさんはふへへ……と笑ったあとは何も言わずに、にへらっ……とした顔をしている。
「いやっ……あのっ……そのっ……えっと」
僕の喉からはカスみたいな声しかでない。相手はちょっとニヤけながらもこっちを見ていた。
侮蔑か嘲笑か、今の僕は彼女やその回りの人からの罰を受けるしかないのだ。
「す、すいません、もうそろそろ帰りますっ……!」
僕は逃げるようにブースから抜け出し、階段をかけ降りた。僕はダサい、この世で最も醜く臆病で卑怯な存在だ。対してTさんはとても綺麗だ。会えたそれだけで良かったんだ、彼女を求めることは今の僕にとって強欲すぎたのだ。
2/20
大学入学試験が始まる直前に「受験頑張ってね!」とTさんから言われた。どうして君はそんなに僕に優しく接するんだ。僕は君の隣に立てるような奴じゃないんだぞ。
3/11
恋にも受験にも落ちていた、浪人することを親に頼んだ。もちろんバイトなんてできない。Tさんに会える可能性はこれまでと比べて格段に低くなるだろう。
……ネイルとか褒めてみようかな、どうせ最後だろうしこうなりゃ…
「Tさんってネイルしてましたよね~!細かいかもしれませんがクリスマスの時のピンクのネイル、は特にす…キレイだったなあと思います~」
危ない危ない"好き"という言葉を口に出すところだった。彼氏さんいるならこの言葉はライン越えだな。さて反応見て楽しもっと
「ふーん…ネイル好きなの?」
「へけっ?」
相手から出てきた言葉に戸惑いを隠せず、○ム太郎みたいな声が出る。
「好きなんだ?」
追撃、僕は逃げられない。赤面顔をそっぽ向かせて首を縦にコクコクする。恥ずかしい、恥ずかしい…
その日は眠れなかった、受けた恥辱を一瞬とはいえ喜んでしまったからだ。
3/19
同じバイトの先輩から、Tさんには彼氏がいるということを聞いた。
その日はバケツをひっくり返したような雨だった。
色々な感情がぐちゃぐちゃになって涙が熱くなる。
3/23
今日から浪人生として塾に通うことになった。塾に向かう途中、毎日バイト先の横を通りすぎる。ついついTさんがいないか確認してしまうのだ。
今日は……いるみたいだ。Tさんはこちらに気づいたみたいだ。すると走ってこちらに向かってきた。
「○○君、これ!」
Tさんが手に持っていたのは僕のハンカチーフだった。どうやら忘れてしまっていたらしい。
受け取ろうとした時、Tさんは爪と手首の軟骨を見せるように差し出していたことに気づいた。爪には僕が以前褒めたピンクのネイルがあった。可愛い、この気持ちを言葉にしたい。口がパクパクしてしまう。
「あ、ありがとうごさいます~!」
僕は好きだと叫びたい。でも自分を含む誰もを傷つけたくないから、平凡な言葉でこの場をやり過ごすことしかできないのだ。
僕は軽く会釈して塾に向かった。ハンカチーフのほのかな温もりが消えてしまわないように優しく握りしめた。
4/20
Tさんに会えないまま約一ヶ月が過ぎた。忘れようとしてみたけれど、やっぱりTさんには敵わなかった。黒くてツヤツヤの髪に右目のホクロ、長くてスラッとした足、全部全部考えただけでクラクラしてしまう。
写真フォルダに彼女の写真が一枚だけあった。ずっとずっと眺めていた。
続きは書けたら書きます