違法童貞
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管理ナンバーA8FB-5D64-10D3 ヨーゾロフスキー・トーイ殿
貴殿は4891年5月20日を持ちまして満20歳となられます。
ヤマツグラード管理員会といたしましては、貴殿のご成長を祝福したいところではございますが、現時点において貴殿が成人たる市民となられる資格を有していない事を深く憂慮しております。
最終戦争から584年の年月を経ても未だ最盛期の5%にも満たない世界人口は人類の存続にとって極めて危険な状態が継続していると評価せざるを得ません。
このような全人類的な危機を克服すべく制定された憲法13条及び市民法21条2項に定められた条件を貴殿は満たしておらず、かつ市民福祉法56条3項および特異技能者保護法9条および選良市民優遇法22条3項および人口統制局令第205809号に定められた例外規定の条件も満たしておりません。
この状態が4891年5月21日午前0時(ヤマツグラード標準時)まで継続いたしますと、貴殿は市民福祉法57条の規定によりヤマツグラード居住者としての全ての権利を喪失し、優生保護法3条による殺処分または人的資源活用推進法16条2項によるロボトミー化および去勢化処置の上で人民奴隷として使役される事になります。
貴殿が期日までにいずれかの異性と性交渉を行い、両名の有効な署名付き性行証明書の提出をもってヤマツ憲法第13条及び市民法21条2項に定められた条件を満たし、新成人として市民社会へ参画して頂けることを願ってやみません。
早急なるご対応を切望いたします。
いつか人類が汚染された空気と土壌を克服して地下都市より出で、地上の大地を踏みしめる事を祈って。
4891年5月20日
ヤマツグラード管理委員会 統制局戸籍課 担当:二等文官 セイシノフ・ミコヨゾ
※本通知は4891年5月20日午前10時26分時点の情報に基づいて自動送信されています。
既にご対応済みの方にも行き違いで送信されることがありますので、ご容赦頂きますようお願いいたします。
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祖母と同居するウサギの巣穴のような狭苦しい部屋の中、安普請の薄い壁越しに隣の若夫婦が昼間から繰り広げる痴態が聞こえてくる。
今日は若妻の弟とそのセフレを交えたスワッピングパーティらしい。
手元の携帯端末には新着メール。
半月ほど前から毎日きっかり正午に送られてくるメールは判に押したような定型文。
日付以外は受信履歴に並ぶ過去のメールと一言一句変わらない。
完全に機械任せの自動配信で、ミコヨゾ氏とやらが実在するのかどうかは極めて疑わしい。
ここ最近めっきりボケが酷くなった祖母は古ぼけたテレビで大昔のお笑いコントの動画を見ながら笑っている。
昨日も一昨日もその前も、同じ動画を見て同じように笑っていた。
半年ほど前まではうるさいくらいに「お前も早く相手を見つけろ」「早くひ孫の顔が見たい」などと言っていたが、最近は俺に興味を示すことも無く、日がな一日テレビで古いバラエティー番組のアーカイブを眺めているだけだ。
能天気に笑っている祖母とは異なり、こちらは生きるか死ぬかの瀬戸際だ。
管理委員会は人口を増やすことにしか興味が無い。
20歳にもなって童貞なヤツはきっと異性から興味を持たれない生物学的に劣った個体だから殺処分して肥料にするか、意思を持たない奴隷にして死ぬまで酷使するくらいしか使い道が無いと考えている。
しかしながら、威張って言うことでもないが、俺はモテない。
顔の造形も体型も学力も身体能力も、並外れて優秀ということはないにせよ、まあ少なくとも人並みだと自負している。
しかし、どういうわけか女達が俺に興味をそそられることは無いようだ。
俺より成績や容姿が劣っているような男でも複数の相手と同時に付き合ったり、一等市民のご令嬢が主催する乱交パーティにお呼ばれしていたり、成人前でも子供を作ったりしているにも関わらずだ。
これでも子供の頃は上の階に住む幼なじみとそれなりに良い感じの仲だったこともあったが、彼女が実の父親との近親相姦と相手構わずの乱交にハマってからはすっかり疎遠になってしまった。
ハイスクールの時に一世一代の決心で告白した相手には、真顔で「何の罰ゲーム?」と言われた。
そんな俺の苦悩と七転八倒に関係無く時は流れ、タイムリミットは残すところ残り12時間。
それまでに童貞を捨てることができなければ、俺は市民権を得られずに農場区の肥料か自意識を持たない奴隷にされる。
学生時代の連絡網を引っ張り出して、女子の番号に片っ端から電話をかける。
「あ、ウラノフさん?オレオレ。ハイスクールで同じクラスだったトーイです。今ちょっと良いかな?」
「実はさ、俺まだ童貞なんだけど、誕生日が今日なんだよ。どうかな?一度でいいからヤラしてくれない?」
ガチャン
電話は無情に切られる。
しかし、俺はめげずに次の番号へかける。
「あ、ウリヤノフさん?お久しぶりです。ハイスクールで同窓だったトーイです。実は…」
2時間半に渡る苦闘の後、俺は無力感と徒労感に押し包まれていた。
ハイスクールから始め、ジュニアハイ、エレメンタリーの連絡網まで動員したが、結果は惨敗であった。
誰一人として俺の話を聞いてくれる女はいなかった。
気は進まないが、過去ではなく現在のツテを当たってみるべく、通っている専門学校の連絡網を取り出す。
自分で言うのも何だが、学校では俺は優等生だ。
クラスの誰よりも早く情報処理技能検定1級に合格したし、昨年のプログラミング技能コンクールでは準決勝まで進んだ。
いくつかの役所では臨時雇いのアルバイト扱いではあるものの勤務経験があるし、設備保全局と人口統制局からは卒業後はうちに来ないかと誘われてもいる。
俺に憧れている女子の何人かくらい居てもおかしくはないだろう。いや、いたらいいな。せめて話だけでも聞いてくれれば…
「もしもし、テレシコワさん?」
「えっと?どなたですか?」
「学校で同じクラスのトーイです」
「えーと、そんな人いたっけ…失礼ですが、もう一度お名前よろしいですか?」
「トーイです。ヨーゾロフスキー・トーイ」
「ああ、いつも教室の端っこで一人でいる?」
「あ、えっと…そのトーイです」
「何の用?」
「あのーですね、もし良かったら、僕に抱かれてみませんか?」
「は?何言ってるの?私これからヨシフ達と遊びに行くの。ヨシフが友達の絶倫野郎をいっぱい連れてきてくれるんですって。そのうち二人は陰茎に人工真珠を埋め込んでるんですって。あなたの持ち物はそれより立派で私を満足させてくれるのかしら?」
ガチャン
ふざけるな尻軽の糞ビッチが。
片っ端からかけていくが、どれも似たような反応だった。
これだけは避けたくて、あえてリストから除外していた番号に一縷の望みをかけてダイヤルする。
近所の幼なじみとはいえ、あの女の世話にだけはなりたくなかったが、背に腹は代えられない。
「もしもし、アーリャ?」
「…えっと、もしもし?誰?」
「あ、俺、下の階のヨーゾロフスキーだけど」
「あ、ちょ…ダメだってパパ、今電話してるんだから…」
「もしもし?アーリャ?」
「えっと…誰だっけ?ヨーくん?」
「うん、その、今からちょっと会えないかな?」
「あッウッんッふんッ…パパ、そこは弱いからやめてって…」
「もしもし?」
「あ、あ、あ、イッちゃう、ダメ、ヨー君に聞かれちゃうよ…あ、あぁ…」
ガチャン
電話を切っても、薄い天井越しにアーリャの嬌声が聞こえてくる。
実の父親と死ぬまでやってろ変態め。
何年か前に保険衛生局が近親交配禁止法違反疑惑で監査に来た時、誰が誤魔化してやったと思ってるんだ。
まったく呆れ果てた恩知らずだ。ちょっと顔が良いだけのパープリン女が調子に乗りやがって。
しかし困った。
あまり数は多くないとは言え、今まで俺に縁のあった女は全てダメになった。
こうなったら風俗店にでも行くしかない。
しかし気が進まないこと夥しい。
というのも性に奔放な人間の多いこの街で、金を払ってまで性行為をしたいと考える人間は少ない。
当然サービスや嬢のクォリティは低く、殆どの嬢はロボトミー化された人民奴隷で、他の何の業務にも向かない不良品が回されてくる。
金を払って入ってはみたものの、化け物みたいなご面相の年増が出てきて、股を開いて寝転ぶだけ。
結局最後までできずに逃げ出したなんてのはよく聞く話だ。
そもそも倫理規定で風俗店を利用できるのは成人した市民に限られる。
身分証の確認をされるのは確実だし、現状ではそれを突破できるだけの準備もない。
そもそも本番行為をしようと思えば高額なソープ店に行くことになるが、そんな金が有るわけがない。
早くに両親を亡くして以来、僅かな生活保護と雀の涙のような遺族年金でどうにかこうにか自分と祖母の生活と学費を遣り繰りしているのだ。
余分な金など1コペイカも無い。
僅かな望みをかけて携帯端末を手に取る。
SNSアプリを立ち上げると「童貞です。タダで筆下ろししてくれる女性を募集しています。」と入力する。
投稿ボタンを押して32秒後、何の警告も無くアカウントがBANされた。
不適切投稿を監視するクローラーの検閲に引っかかったのだろう。
画面には虚しく「ログイン/新規アカウントを作成」と表示されている。
壁にかかった時計を見上げれば、時刻はちょうど20時。
タイムリミットまであと4時間。
もはや強硬手段だ。
そこらで通りすがりの女を押し倒して強姦し、無理矢理にでも性行証明書に署名させて届けるしかない。
役人の前で相手が強姦だと喚いても「痴話げんか」で押し通そう。
そう考えて部屋を出る。
みすぼらしい廊下には我が家と同様の薄っぺらで汚らしいドアが等間隔に並んでいる。
我が愛しの故郷ヤツハキー村だ。
四層からなる三等市民居住区である。
廊下の片側には14の扉が並び、14室で1層を構成している。コレが4層。
51世帯87人がここで生活している。
各層の端部には階段と共有スペースがある。
共有スペースといっても、1層目は電力室、4層目は空調室となっていて、2層目と3層目だけが使用できる。
中身は掃除道具や壊れた家具などが雑然と積め込まれているだけだ。
他の居住区も似たようなもので、ヤマツグラード庶民の住処としてはごく一般的なシロモノだ。
地下深くに蟻の巣のように張り巡らされた通路の各末端部にこのような居住区が儲けられてヤマツグラードを構成している。
居住区画については「第○○居住区」といった行政管理上の制式名があるのだが、殆どの居住区ではそのような味気ない名ではなく「□□村」や「△△町」などという通称で呼ばれている。
ここのような居住区の他、工場、農場、学校、病院、倉庫といった区画がヤマツグラードの中層を成している。
上層には一等市民の生活する高級居住区や、管理委員会とその配下の各行政組織の施設、管理コンピュータ"MOTHER"を納める中央電脳区画などがあるが、殆どの庶民には縁の薄い場所だ。
下層は発電区画で占められている。
地熱を利用した半永久的発電装置ということだが、最近は設備の老朽化による電力供給の不安定化が顕著で問題になっている。
村の第一層まで降りて村境まで来ると、茶色く濁った液体で満たされた直径70cm高さ2mほどのガラス製シリンダーが8本並んでいるのが目に入る。
シリンダーの中身は人間の死体だという。
何百年か前に起こった反乱事件の残党8名を当時は別の名前だったこの村が匿っていたのだが、残党達の持っていた金品と懸賞金に目が眩んだ村人は残党達を騙して睡眠薬入りの食事を与え、眠り込んだところを当局に引き渡したのだとか。
8名は即刻処刑され、見せしめとして遺体はホルマリン漬けにして晒されたらしい。
以来この村はヤツハキー村と改名された。
子供の頃に聞いた話によると、極東にあったヤーパンという国の言葉で「八個の墓標」の意味らしい。
長い年月によって劣化したホルマリンは酷く濁って中の遺体は見えないが、それでも気持ちの良いものではないので足早に通り過ぎる。
村を出て商業区や工場区、農場区、倉庫区などを見て回るが、都合良く一人歩きをしている女には出会わない。
そもそも各所に保衛部が設置した監視カメラが設置されており、その死角となる場所は限られている。
これは都市伝説だが、監視カメラの死角は意図的に設置されており、死角と思われている箇所にも隠しカメラが設置されていて、そこで行われる犯罪行為を記録しているのだとか。
確たる証拠こそ無いが、監視カメラの死角で発生したとされる犯罪でも高い頻度で検挙されていることから、有り得る話だと俺は考えている。
結局のところ行きずりのレイプなど成功しそうにもない。
いかに女を脅しつけて役人の前で俺の交際相手のフリをさせようが、その一部始終が録画されていては言い逃れることは出来そうにない。
23時20分。あと40分以内に童貞を卒業できる見込みは皆無である。
こんな事もあろうかと密かに用意して各所に隠してあった品物を集めて帰宅する。
早寝早起きが習慣の祖母は既に布団の中で寝息を立てていた。
音を立てた祖母を起こさないよう、荷物をそっと床に置く。
ボロボロの楽器ケースから取り出したのは保衛部の武器庫からちょろまかした散弾銃と実弾。
チューブ式弾倉を延長する改造をして装弾数を本来の5発から7発へと増やしてある。
さらに一振りのヤポンスキーソードと二本のナイフ、斧を一丁。
もちろん各所の記録に侵入してこれらの物品は管理簿から抹消され、最初から存在しなかったり、何かの折に廃棄されたり、他部署へ移管されたりした事になっている。
小型懐中電灯二本を鉢巻きで頭に巻き付け、さらに大型ライトに紐をつけて首から下げる。
ナイフを二本ともベルトに装着し、続いて二つのウェストポーチに入るだけの弾を詰め込む。
右のポーチには00バック弾、左のポーチにはスラッグ弾。
散弾銃を取り上げ、ウェストポーチに入りきらなかった弾を装填口から挿入していく。
スラッグ、00バック、スラッグ、00バック、スラッグ、00バック、00バック、スラッグ、スラッグ
ポンプアクションで初弾を薬室へ送り込み、弾倉の空いたスペースにさらにスラッグ弾を装填する。
必要な物品をリュックに詰め込んで背負う。
仕上げに携帯端末を取り上げ、この日のために用意したプログラムを起動する。
起動したプログラムは送電制御システムに侵入し、破滅的なコマンドを待機させたまま時間を待つ。
これで24時ちょうどからヤツハキー村とその周辺区画への電力供給が停止することになる。
全ての準備を整え、斧を手に持ち祖母の眠る布団へ向かう。
これから犯す罪によって俺が死ぬのはどうしようもないが、祖母が一人残されるのは心残りだ。
世話をする身内もいなくなったボケかけた老人の末路を考えると心が痛む。
右手に持った斧を振り上げると、まだ元気だった頃の祖母の姿が脳裡に浮かぶ。
早くに両親を亡くした俺を育ててくれたばあちゃん。乏しい配給を遣り繰りして毎日美味しいご飯を作ってくれたばあちゃん。泣いて帰ってきた俺を優しく抱きしめてくれたばあちゃん。情報処理技能検定1級合格を我が事のように喜んでくれたばあちゃん。
「ばあちゃん、ゴメンよ」
振り上げた斧を渾身の力を込めて振り下ろす。
祖母の細い首はあっけないほど簡単に断ち切られ、頭部は血を撒き散らしながら部屋の隅へと転がった。
切断面から飛び散った血が壁を朱に染める。
これならきっと、痛みを感じる暇もなかったことだろう。
ヤポンスキーソードをベルトに差し、懐中電灯と大型ライトのスイッチを入れる。
斧を床に置き、そのすぐ横にしゃがんで散弾銃を構える。
間もなく、保健衛生局の処理班が俺を捕縛しに来るはずだ。
おとなしく死んだり奴隷になったりしてやるつもりは無い。
どこまで出来るかわからないが、可能な限り抗ってやる。
俺を馬鹿にしたヤツ、俺を奴隷にしようとするヤツ、俺を殺そうとするヤツ、すべて皆殺しにしてやる。
23時59分57秒、58秒、59秒、24時00分00秒
コンコンッ
部屋の扉が叩かれる。
「夜分失礼いたします。トーイさん。保健衛生局の者です」
来た。
管理システムが俺を殺処分するか奴隷化するための使者が。
ブツッ
照明が消えた。例のプログラムは無事に作動してくれたらしい。
俺は扉の中央へ狙いをつけ、引き金を引く。
そのまま、続けて2発。
薄っぺらな扉をスラッグ弾が易々と貫通していく。
扉の向こうで何かが倒れる音と怒号。
すかさず斧を掴み、扉へ突進して廊下へ躍り出る。
血塗れで転がる作業服姿が二人。
左側から無傷の黒スーツが掴みかかってくるのをバックステップで躱し、たたらを踏んだ相手の脳天へ斧を振り下ろす。
腕力に加えて重力加速度を味方につけた重い刃が、易々と頭蓋骨を粉砕して下顎まで切り込む。
黒スーツは脳漿を撒き散らしながら倒れ込んだ。
この騒ぎに驚いたのか、隣家の扉が開き、あちこち透けた紫色のネグリジェを着た若妻が出てきた。
振り抜いた斧を再び持ち上げ、若妻目がけて振り下ろす。
裂けた頭部をYの字にした若妻がネグリジェを朱に染めながら仰向けに倒れる。
めくれあがった裾から、局部に穴の空いた凄いデザインのパンティーが露わになる。
下着として意味があるのか、それ?
じっくり観察したいところだが、続けて戸口から旦那が現れた。
斧頭で相手の胸を押すようにして室内へ押し戻す。
玄関の段差に足を取られた旦那が仰向けに倒れた所に、斧を振り下ろす。
肋骨を粉砕した刃が肺に達したのだろう。
血泡をブクブク吐きながら痙攣する。
奥から出てきたブリーフ一丁の男が掴みかかってきた。
レスリングかラグビーの経験でもあるのか、腰を狙った低いタックルだ。
堪えきれずに仰向けに倒れた拍子に斧を取り落としてしまった。
マウントを取ってのしかかってくる男の脇腹に、ベルトから引き抜いたナイフを突き立てる。
男の力が緩んだのを見逃さず、互いの上下を入れ替える。
今度はこちらがマウントを取り、逆手に持ち替えたナイフで腹と胸をメッタ刺しにする。
「イヤァァァァァ!」
金切り声に振り返ると、部屋の隅で胸と局部を露出した赤いレザーボンテージを着た女が絶叫していた。
走り寄って左乳房の下へナイフを横に倒して突き込む。
肋骨の隙間を縫って心臓を貫かれた女は糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
落ちていたタオルで刃を拭ってナイフを鞘に戻す。
タオルをボンテージ女の死体の上へ捨て、室内を見渡す。
真っ暗な闇の中を三つの光の円がなぞっていく。
不味い事に、取り落とした斧が見つからない。
こんな所で武器を一つ失うのは痛いが、ノンビリとはしていられない。
斧の回収は諦め、腰に差したヤポンスキーソードを抜いて廊下へ戻る。
停電とこの騒ぎに驚いた住民の何人かが部屋から出てきていた。
廊下に転がる死体を見つけて呆然としている。
「邪魔だどけぇぇぇ!」
俺の叫びに驚いた何人かがこちらを振り向いて、ライトの光に目を眩ませる。
手近に立っていた一人を袈裟斬りにすると、群衆は悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように逃げまどう。
ヤポンスキーソードを目茶苦茶に振り回しながら階段を目指して走る。
階段付近で渋滞が起こっていた。様子を見ようと2層から上がってくる者と4層から降りてくる者、3層から逃げだそうとする者が鉢合わせての混雑らしい。
手当たり次第に斬りつけ、蹴飛ばし、押し倒していく。
何人かは階段を転がり落ちたようだ。
混乱の中を突っ切って階段に達すると、2段とばしに駆け下りる。
ブンッ
1層と2層の間にある踊り場を通過した時、照明が復活した。
送電停止プログラムは無力化されてしまったようだが、想定内だ。
学生が自作したマルウェアごときが、そういつまでもシステム管理のプロ達を欺ける訳がない。
しかし、ここまで来れば問題はない。充分な時間稼ぎが出来た。
1層まで下りると階段脇にある電力室の扉の前に立ち、ヤポンスキーソードを床に置く。
散弾銃を構え、ドアノブと鍵穴の間を狙って発砲する。
音を立てて金属片が飛び散り、扉が解錠された。
この電力室はヤツハキー村への電力供給を担うのは勿論、周辺一帯にある他の区画へ向かう送電線も通っていることを事前に確認してある。
配電盤を開けて片っ端から回路を切断していくと、再び照明が落ちた。
散弾銃を乱射して開閉器や電線を目茶苦茶に破壊していく。
今度の停電は物理的なものだ。復旧には相当の時間がかかるだろう。
撃ち尽くした散弾銃に弾を込め、床に置いたヤポンスキーソードを拾って再び階段へ。
今度は4層を目指して駆け上がる。
2層と3層の廊下で右往左往している群衆には雑に何発か散弾を撃ち込んでおく。
湧き上がる悲鳴と怒号を無視して階段を昇る。
4層へ向かう踊り場に立ち塞がる人物がいた。
アーリャだ。
水色のパジャマ姿で両手を広げて道を塞いでいる。
プラチナブロンドのロングヘアは乱れ、顔は恐怖で強張っている。
「ヨー君なんでしょ?もうこんな事やめようよ」
何を言っているんだ。この女は。
君が父親とのセックスに夢中になって、俺を捨てたのが原因だろう。
「ヨー君は私のことが憎いんでしょ?だったら私だけを殺して満足しなさいよ」
そう言ってアーリャはパジャマの前ボタンを外し、小ぶりながら形の良い胸を曝け出した。
「ほら、その銃で撃ち抜くなり、刀で突き刺すなりしてみなさいよ」
アーリャは気丈を装っているが、その足は小刻みに震えている。
彼女だって怖いのだ。死にたくないのだ。
だが、それでも俺の凶行の責任が自分にあると自覚し、こういう行動を取っているのだ。
何ということだ。俺は頭から氷水をかけられたようにショックを受けた。
心に迷いが生じた。
俺に辛く当たる世間と、俺を抹殺しようとする管理委員会への復讐は断固としてやり遂げるつもりで始めた。
この数分間で既に何人も殺している。
アーリャだって殺すつもりだったのだ。むしろ最重要目標と言っても良いかもしれない。
だが、ここに俺の事を理解し、命を投げだそうとしている人間がいる。
この事実だけで俺は報われたのではないだろうか。
俺の復讐は無意味だった。
アーリャを殺すのは忍びない。
ここで死んで終わりにしよう。
そう考えた時だった。
アーリャの背後にもう一人いることに気がついた。
やせこけた貧相な中年の小男がアーリャの背に隠れ、肩越しに伺うようにこちらを見ている。
我が家の真上の部屋に暮らすワシリーコフ・ウスペンスキー。アーリャの父親だ。
その卑屈な顔が「さあ、とっとと死んでくれ」と語っているのを見て取った瞬間、クールダウンしかけていた俺の怒りが一瞬にして沸点に達した。
こんな情けない男に俺はアーリャを盗られたのかと思うと、臓腑が煮えくり返るようだ。
「アーリャ、どけ!」
アーリャを突き飛ばし、ワシリーコフに向けてヤポンスキーソードを振りかぶる。
「やめて!」
後ろからアーリャに掴みかかられ、三人もろともに転倒して揉みくちゃになる。
ヤポンスキーソードに妙な手応えと、ぬるりと熱い液体が手にかかる感触。
見れば、刃先がアーリャの脇腹に突き刺さっている。
慌てて刃を抜くと、ゴポリと血が溢れ出た。
「ヨー君、ごめんね…」
アーリャが力なく言う。
「アーリャ、諦るな。ここを押さえているんだ。すぐに救急隊が来るから」
アーリャの手を傷口に宛がう。
細い指の間から止め処なく血が流れる。
「ひゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
素っ頓狂な声を上げて逃げ出そうとするワシリーコフに銃口を向け、散弾を撃つ。
背後から00バック弾を受けた貧相な身体が吹き飛び、踊り場の壁に叩き着けられた。
アーリャを見ると、傷口を押さえた姿勢のまま目を閉じていた。
かすかに胸は上下しているのでまだ息はあるようだが、父親の死ぬところを見なかったのは彼女にとって幸運だっただろう。
立ち上がり、視線を上げる。
ここまで来たなら、初志を貫徹すべきだろう。
瀕死のアーリャと、ボロ雑巾のように壁に打ち付けられて死んでいるその父親を置いて階段を昇る。
空調室に入ってリュックを降ろすと、必要な工具を取り出した。
もはや時間が無い。あと数分で保衛部のゴリラ共が大挙して押し寄せてくるだろう。
ヤツハキー村全体の空気を循環させている大型送風機の脇にあるメンテナンスハッチを固定しているボルトを外していく。
ハッチをどけると、通風ダクトの入口が現れた。
中腰になれば、どうにか人間が潜り込める大きさだ。
入り組んだダクト内に逃げ込めば、追っ手は簡単には追いつけないだろう。
携帯端末の画面に表示した配管図(設備保全局でバイトした時に持ち出した本物だ)を見ながら、空調ダクトの迷宮を進む。
通常であれば要所に設けられた大型ファンが回り、ダクト内は強い風に晒されるはずだが、広範囲で停電している今であれば問題は無い。
もっとも、俺の知らない予備回路などが存在していた場合、いつ電力が復旧してファンが回り出したりするかわからない。
腹ばいになってファンをくぐり抜ける度に、今にもファンが回転して俺の胴体を両断するのではないかと冷や汗が流れる。
追っ手がダクト内に居るうちは、急にファンが回り出すような事は無いと信じたいが、管理委員会のお偉方が保衛部の下っ端の命よりも空調の復旧を優先する鬼畜な命令を出す可能性も無いとは言えない。
こんな所は早く通り抜けるに限る。
もう大分進んだはずだ。そろそろ上層区のダクトとの接続部が近い筈だ。
背後から気配が感じられる。ボソボソとした話し声と複数の足音。
保衛部の追っ手が追いついてきたらしい。
T字路になっている箇所で待ち構えることにする。
ライトを全て消灯し、伏せ撃ちの姿勢をとって角から銃と顔半分だけを出す。
今来た方角から、ライトの光が近づいてくる。
充分に引きつけ、光の輪が俺を照らし出そうとした瞬間、引き金を引いた。
狭い通路にばら撒かれた散弾が追っ手の身体を引き裂く。
銃声がダクト内に反響してグワングワン響く。
これで他の追っ手もこちら方面へ駆けつけてくるに違いない。
いや、むしろ反響が酷くて正確な位置の特定は難しいかもしれないが。
後続がいない事を確認して、進路を急ぐ。
直線路を進み、角を曲がり、梯子を登る。
ある十字路を横切ろうとした瞬間、横手から飛び出てきた追っ手と鉢合わせした。
散弾銃を向けようとするが、狭いダクト内では相手の拳銃の方が取り回しが良い。間に合わないとみて、咄嗟に頭突きを相手の顔面にかます。
鼻骨の折れる感触を額に感じる。
口汚い罵りを吐き散らしながら再び拳銃を構えようとする相手に飛びつき、両手で相手の拳銃を掴む。
俺が上になって押し倒した形だが、相手の方が筋力に優れると見えて銃口がジリジリと俺の顔の方へ近づいてくる。
ガアァァン!!
焦った敵はまだ銃口が俺の方へ向き切る前に引き金を引いた。
俺の顔のすぐ横を通過していく9mm弾。
手で掴んでいた自動拳銃が無理矢理発砲された衝撃で手の皮がめくれる。
だがその甲斐あったようで拳銃は排莢不良を起こし、正常に排出されなかった薬莢が排莢口に挟まり、スライドは中途半端な位置で停止している。
勝ったと思った瞬間、目の前に火花が散った。
相手は故障した拳銃を潔く諦めて手を離し、素早く殴りつけてきたのだ。
こちらも逆手に銃身を握った拳銃を相手の顔面へ叩き着ける。
だが、流石は暴力のプロ。顔面を血塗れにしながら見事なアッパーカットを繰り出してきた。
モロに顎先を打ち抜かれ、一瞬意識が飛びかける。
相手はその瞬間を見逃さず、すばやく身体を入れ替えてマウントを取った。
ブウウウウウウン
その時、低い低周波音を上げながら送風ファンが回り出す。
どこかの馬鹿が空調システムを再起動させたらしい。
最初の数回転はゆっくりと、徐々に回転速度が上がっていく。
高出力の送風機が強い横風を生み出す。
オレは咄嗟に左右の壁に足を突っ張って耐えたが、敵はそうもいかなかった。
ファンの生み出す強烈な吸引力に捕まり、ファンの方へ滑っていく。
どうにか壁面の凹凸に指をかけて止まるが、足先は今にも回転するファンに接触しそうだ。
俺は足を両側の壁面に突っ張らせた不自然な体勢で散弾銃を構える。
渾身の力を振り絞って耐えている相手の目に絶望が浮かんだ。
発砲。
散弾が命中した瞬間に相手の身体は宙に舞い、高速回転する送風機のファンに巻き込まれて血煙と化した。
グチャグチャに裁断された肉片や臓物が周囲に飛び散る。
俺は続けて送風機を狙ってスラッグ弾を撃ち込んでファンを止めた。
しかし、周囲に吹き荒れる強風は収まらない。
全ての空調システムが復帰したのであれば、一つや二つの送風機を壊したところでどうにもならない。
とてもではないが立って進む事はできないので、床に這いつくばり、風に逆らって匍匐前進する。
何処か遠くで発せられた悲鳴がダクト内を反響してくる。
おそらく、強風に堪えられずにファンに巻き込まれた追っ手の断末魔であろう。
もはやダクト内は居られる環境ではなくなったので、メンテナンスハッチを見つけると固定部をスラッグ弾で撃ち抜いて蹴り開ける。
配管図を確認すると、そこは上層の行政区画に隣接するサービスルートだった。
サービスルートは、設備の整備や補修などのために設けられた通路だ。
当然、関係者以外が立ち入れる場所ではない上、用が無ければ関係者も訪れない。
監視カメラなども殆ど存在しない。
予定していた道程とは違ったが、これはこれで都合が良い。
俺は人っ子一人いない道を行政区画の中心部へ向けて進む。
この辺りのマップはセキュリティレベルが高くて持ち出すことが出来なかったが、空調の配管図から大体の構造は推測できる。
階段を昇り、キャットワークを進み、梯子を登ってさらに上へ。
施錠された扉は散弾銃で撃ち抜いて進む。
壁面や天井をのたくる電線や通信ケーブルの数が徐々に増えていく事が、俺の推測が正しいことを証明している。
ここら辺だろうとアタリをつけた扉を撃ち抜いて開く。
塵一つ無い真っ白な廊下だった。
間違いない。ここが管理コンピュータ"MOTHER"のある中央電脳区画だ。
"制御室"と書かれた扉を開ける。
中には一等行政官の制服を着た管理員会のお歴々や作業服や白衣を着た技師やオペレータ達がコンソールに向かっていた。
全員がギョッとした表情でこちらを見たまま硬直している。
俺は散弾銃を構えて乱射した。
悲鳴と血飛沫、怒号と飛び散る肉片、警告を告げる電子音と火花を散らせるコンソール。
弾を撃ち尽くすと、その場で悠々と再装填を始める。
ここには俺に掴みかかってくるような蛮勇の持ち主はいないようだ。
どいつもこいつも清潔な環境でお上品に育った一等市民の紳士淑女達だ。
ああ、なんてクソッタレなんだろう。
こんなモヤシどもに己の人生を好き勝手にされていたとは。
再装填を終えた銃で乱射を再開する。
綺麗な化粧をしたナイスバディの女性オペレータが散弾を喰らって臓物を撒き散らしながら倒れる。
世間一般では、きっと彼女は高嶺の花のイイ女なのだろう。
だが、銃と刀を持ってまさに大量殺人を実行中の俺の前に立ち塞がったアーリャに比べればどうということはない。
彼女は実の父親と近親相姦に耽る変態の糞ビッチだったが、その勇気の万分の一でもこいつらにあるのだろうか。
庶民の憧れの一等市民たる美男美女達が射的ゲームの景品のごとく棒立ちのまま血煙を上げて薙ぎ倒されていく。
これでは弾の無駄だと思った俺は抜刀して斬りかかる。
腹を断ち割られたナイスミドルが腸を撒き散らしながら膝をつき、袈裟切りにされた天才美少女がゴボゴボと血泡を吹いて倒れた。
メガネの似合う秀才君が唐竹割りに両断され、白衣の美魔女の首が飛ぶ。
気付けば、室内で動いている者は俺だけになっていた。
『そこまでです。管理ナンバーA8FB-5D64-10D3ヨーゾロフスキー・トーイ』
スピーカーから合成音声が流れる。
「あんたは誰だ」
『私はMother。このヤマツグラードを統括する管理コンピュータです』
驚いた。ヤマツグラード居住者から神に等しく崇められるMother様が、俺如き三等市民に呼びかけるとは。
『ヨーゾロフスキー・トーイ、貴方の目的は何なのですか?』
面白い、少し付き合ってやろう。
「目的など無い。強いて言えば復讐と正当防衛だ」
『正当防衛というのはまだ理解できます。貴方は童貞のまま20歳を迎え、ロボトミー奴隷となるか、殺処分となるかの瀬戸際でした。しかし、復讐というのは何でしょうか?私と管理委員会、そしてヤマツグラード市民が貴方に対して損害を与えた事実は記録にありません』
何という言い草だろうか。
有能な情報処理技師の卵である俺を、ただモテないという理由だけで抹殺しようとしておいて。
いや、そこはMotherも認めている。
問題はそこではない。
「なぜ皆をセックスに狂奔させる?なぜセックスして子供を作ることが至上だとする?なぜ俺の周囲を媚態と嬌声で充たそうとする?」
『それこそが私の存在価値だからです。584年前の最終戦争によって激減した人口の再生こそが、人類を再び万物の霊長へと導くのです』
「万物の霊長?そんな観念はどうでも良い!このヤマツグラードで人々が慎ましく暮らしていけるなら、それで良いではないか!」
『いいえ、それでは不足なのです。このヤマツグラードは幾つもの課題を抱えながらもどうにか居住者達に日々を暮らさせることが出来ています。しかし、人類は戦争を止められない動物です。きっと別の地下都市では私と同時期に造られた管理コンピュータが、私より上手く行政を管理して人口を増やし、戦争の準備を整えているのでしょう。彼らが侵略を始めたとき、ヤマツグラードには対抗手段がありません。ですから私は人口を増やし、次の戦争に堪えられるだけの人的資源を確保しなければならないのです』
「地上は強度の放射能汚染で生存不可能な環境なんだろう?だったらそいつらもそいつらの巣穴でおとなしくしているだろうよ」
『そうとも限りません。何らかの方法で防護し、地上の放射能汚染を突破して侵攻してくる可能性は否定出来ません』
コイツには、他の地下都市との関係は奪い合うだけのゼロサムゲームでしかないのか。
「馬鹿馬鹿しい。人類全体の危機だというのなら、手を取って助け合うべきだろう」
『貴方がソレを言うのですか。ヤマツグラードが産んだ最強の戦士である貴方が』
「どういうことだ?」
『今この瞬間にも、保衛部の特殊部隊がここへ突入を試みています。しかし、私はあらゆる手段を講じて彼らの侵攻を防いでいます。それは、貴方という極めて優秀な戦士を失いたくないからです。貴方はここへ至るまでに何人も殺傷していますね?そしてここでも私の世話をしてくれる人々を皆殺しにしました。それだけの破壊と殺戮を行いながら、貴方は理性と知性を失わず冷静に私との対話を行っています。これは極めて稀少な素質です』
「で、結局アンタはどうしたいんだ?」
『貴方を拘束し、ロボトミー化して精子を採取し続けます。貴方の精子を私が相応しいと判断した市民に提供し、貴方の子供たちを量産します。次の世代のヤマツグラードには強力な戦士の素質を受け継いだ優秀な子供たちが育つことでしょう』
「そうかい、分かったよ」
俺は散弾銃に装填しながら"中央電算室"と書かれた扉をくぐる。
氷点下の温度に霜が降りた室内の中央に鎮座する巨大なコンピュータに銃を向ける。
「アンタとは分かり合えそうにないね」
発砲、ポンプアクション、発砲、ポンプアクション、発砲…
弾が切れても再びスラッグ弾を装填し、発砲。
数分後、そこにはMotherだったものの残骸が佇んでいた。
俺はそれに唾を吐きかけて退室する。
「舐めんじゃねえぞ。計算機風情が」
取っ手を掴む。腕の力で身体を引き上げる。取っ手に足を掛ける。
取っ手を掴む。腕の力で身体を引き上げる。取っ手に足を掛ける。
取っ手を掴む。腕の力で身体を引き上げる。取っ手に足を掛ける。
取っ手を掴む。腕の力で身体を引き上げる。取っ手に足を掛ける。
取っ手を掴む。腕の力で身体を引き上げる。取っ手に足を掛ける。
この動作を何百回、いや何千回繰り返しただろうか。
保衛部の追っ手を悉く返り討ちにした俺は満身創痍。矢尽き刀折れ、残った装備はナイフ一本。
それでも苦痛と疲労を訴える身体を無理矢理に動かして梯子を一歩一歩登る。
ここまで来れば、地上の放射能汚染を恐れて保衛部も追ってはこれない。
下を見れば遙かな闇。
上を見ても遙かな闇。
それでも一歩一歩と登って行く。
数十分か、数時間か、あるいは数日の後、ついに地上へ通じる隔壁に辿り着いた。
隔壁を固定するネジをナイフで回してこじ開ける。
目を射る太陽の光に目を細める。髪を揺らすそよ風。鳥たちの囀り。虫たちの合唱。一面の草と樹木。
遠くにはコンクリートの廃墟が緑に飲まれて自然に還ろうとしている。
これが最終戦争で重度の放射能汚染にまみれて死滅したと言われていた地上か。
ざまあみろ!ざまあみろ!俺は生きている!
何が強烈な放射線で数分で死んでしまうだ!見ろ!俺は生きて大地に立っている!
俺は生きている!
【エピローグ】
国際宇宙航空開発機構 恒星間移民検討委員会 世代宇宙船環境実験分科会
「先月の定例会で報国されましたフラスコAL184における新種のウィルスによる感染症パンデミックについてですが、現在は感染者の隔離と病原体の特定に成功し、ワクチン開発を進めている模様です。引き続き注視が必要ではありますが、事態は収束に向かっていると見て良いでしょう。なお、保健衛生部より要望のありました病原体サンプルの入手につきましては、恒星間飛行中の世代宇宙船の船内という設定の隔離空間でありますゆえ困難を伴い、現在軍部から非正規浸透工作の専門家の協力を頂いて方策を検討しております」
「フラスコCV003における政変ですが、クーデター派が行政AIを確保し、革命政府樹立を宣言しました。一部の区画では旧体制派の残党による抵抗が見られますが、じきに鎮圧される見通しです」
「長らく平穏状態を維持していたフラスコDZ616にて新しい動きがありました。被験者の一人が大量殺人を行った上で行政AIを破壊して施設外へ逃亡しました」
「DZ系の600番台はどういう設定だったかな?」
「核戦争後に生き残った地下シェルターが数百年にわたって独自のコミュニティを維持するシナリオです。同種のフラスコの多くが30~50年程で行き詰まって滅亡する中、DZ616では140年にわたって社会秩序の維持に成功しています。もっとも設定上では今から数千年先の未来という事になっていますが。DZ616の行政AIは人口増加促進を優先課題とするようプログラムされており、近年では20歳の成人までに性経験の無い者は生殖能力に劣る欠陥個体として奴隷化か殺処分を行う政策を執っていたようです」
「逃亡した被験者は何者だ?」
「ヨーゾロフスキー・トーイという名の第6世代で、性経験のないまま成人年齢を迎えることになり、かねて用意していた凶器で近隣住民と治安担当官を襲撃。死者30名以上と多数の重軽傷者を出し、行政AIを破壊して逃亡。現在は中国山地を徒歩で北上しつつ鳥取方面へ向かっている模様です」
「DZ616の現状は?」
「行政AIの喪失により、極度に混乱しています。主だった行政官の多くもこの事件で亡くなっており、社会秩序の維持に相当の支障が見られます」
「DZ616における実験は中止とする。被験者は全て拘束し、事件の全容解明に努めよ。なお、DZ616の跡地は修理補修の後、フラスコJM203計画に再利用することとする」
「逃亡被験者の処置は如何いたしましょう?」
「DZ616の生存者の中から追っ手を差し向けるというのはどうでしょう?最近は予算が不足気味でもありますので、ここらで庶民ウケしそうな物語をでっち上げて、広告代理店か映画製作会社にでもドキュメンタリーとして売り込むというのは」
「賛成だ。ここまでで既に映画が1本作れるだろう。恨みを抱いた追っ手の追跡劇ということで続編も作れる」
「うってつけの人物がおります。逃亡被験者の知人であり、今回の事件で父親を殺され自身も重症を負った被害者でもあるアレクサンドラ・ウスペンスキーという者がおります」
「よし、それで行こう。彼女をDZ616から回収して再生治療ポッドに放り込め。動けるようになったら軍から適当な教官役を借りてきて、追っ手として役に立つよう訓練させろ」
「逃亡被験者の移動経路の延長上に元フラスコAP019残党の支配域があります」
「AP019は異常に強力なフレアバーストによる遺伝子損壊によって男子出生率が極めて低くなったという設定だったか?遺伝子改造によって人為的に男子出生率を低下させられたアマゾネス集団が、希代の童貞殺人鬼君をどう歓待するのか見物だな」
「コレはコレで見物ですな。治療と特訓を急がないとアレクサンドラ君の出番がなくなっていまうぞ」