後編 侯爵令息のあれこれ
ユリアーネはクヴァンツ侯爵領で二週間ほど過ごして、アルンシュタット子爵領の本邸へ帰った。
屋敷の書庫で葡萄栽培について書かれた本を読んだり、いつものように領民の葡萄の摘果作業を手伝ったりして過ごしていた。
そうしていると、侯爵領で過ごした時間はやっぱり夢であったように思えて、でも眼裏にはアルベルトの笑顔が浮かんで、ため息を吐く。とてもわかりやすく恋煩いに陥っていた。
そこへ父オスカーが、屋敷中に響く声で娘を呼ばわったのである。
「ユリアーネ! ユリアーネ!」
「お父様、どうなさいました? そんなに大きなお声で」
玄関ホールに降りると、オスカーは手に持った二通の書簡のうち、開封されていないほうをユリアーネに差し出した。
「クヴァンツ侯爵から正式に、婚約の申し込みが届いた。お前を嫡男アルベルト殿の婚約者に、と!」
さすがのユリアーネも目を点のようにして立ちつくす。
「え、それはどういう……?」
「侯爵領にお招きいただいた際に、アルベルト殿がお前を見初めて、ご家族も賛成されたということだ。侯爵家からの申し出であるから、侯が自ら国王陛下にお許しをいただくので、家格の違いは気にしなくてよいと」
書簡の表にはユリアーネの名が書かれている。受け取って裏返すとアルベルトの名がある。ユリアーネは封を開けて、便箋を取り出した。
――――
ユリアーネ・アントイネッテ・アルンシュタット嬢
貴女と過ごした時間はとても楽しく、このときがいつまでも続けばとよいのに、と思わずにいられませんでした。これからも私の隣でともに過ごしてくれたら、どれほど幸せなことかと思います。
その機会を与えていただきたく、父に無理を言いました。どうか、よい返事を。
王都に戻られたら、あらためてご挨拶にうかがいます。
アルベルト・エーリッヒ・クヴァンツ
――――
「……信じられない」
「私も信じられないが、侯爵からの書簡には魔力封がなされていた。間違いなくご本人のものだ。ユリアーネ……。お受けする、ということでよいのだろう?」
書簡を特定の人物のみが、開けられるようにする魔法を魔力封という。貴族の魔力がなければ使うことはできず、施した者の魔力を帯びるため、差出人の証明にもなる。オスカーが受け取った書簡は、確かにクヴァンツ侯爵からのものであった。
「はい!」
――夢みたい! ――
破顔した娘を見てオスカーは少し寂しそうな表情になったが、まさか有言実行となるとはな、と苦笑するのであった。
王都の別邸へ戻ると形式通りに使者が訪れ、婚約式の日取りが決まった。
アルベルトも侯爵とともに挨拶にやってきたが、ふたりきりで話す時間はとれなかった。それでも帰り際にユリアーネの手をとり、「ありがとう」と言う彼はやっぱり素敵だ、とユリアーネは幸せな気持ちを噛みしめた。
婚約式まであとひと月ほど、ユリアーネは毎日をそわそわと落ち着かない心持ちで過ごしていた。
ある日、父がいつもより忙しそうにしている様子に気がつき、書斎にお茶を持っていった。
「お父様、少し休憩なさいませんか? お茶をお持ちしました」
「ああ、ユリアーネありがとう。そうだな一息いれようか」
父のデスクの上にはたくさんの書類が広げられている。領地の収穫や納税の記録のようだが、ユリアーネにはよくわからない。
「なにかありましたの? お忙しそうですけど」
オスカーは、娘が淹れてくれたお茶を嬉しそうに飲みながら、少し照れた表情になった。
「いや、まだ気が早いのはわかっているのだが、領地の記録をまとめておこうかと思ってね。いろいろと確認していたのだよ」
父の言葉の意味がわからず、首をかしげたユリアーネを見てオスカーは続けた。
「お前が侯爵家に嫁ぐなら、もちろん跡継ぎを産まなくてはならないだろう。だが当家の跡継ぎも、とはやはり言えないよ。幸いアルベルト殿は我が家のワイナリーにも興味を持ってくださっているようだし、アルンシュタットをまるごと持参金にしてもいいと思っているのだ」
だからいつでもアルベルト殿に引き継げるようにと思ってね、と言ってオスカーは片目を閉じて見せた。
ユリアーネは予想外の返事に言葉を失った。子爵家の跡継ぎのことを、すっかり忘れていたのである。
男の子をふたり産めばいいと勢いで言いはしたが、それが簡単でないことくらいはさすがにわかっている。オスカーが、子爵領を侯爵領に編入することまで考えているとは、思ってもいなかった。
そして、お父様がそこまでしてくださる価値がわたくしにあるのかしら、と思ってしまったのである。
――よく考えたら、あんなに素敵な方がわたくしを好きになってくださるなんて、おかしいわ。やっぱり、わたくしの器が必要なだけなのではないかしら。それか、ワイナリーのおまけなのかも……――
ユリアーネは「よく言えば、夢見がちで可愛らしい、はっきりと言えば、思い込みが激しくお気楽な娘」である。「思い込みが激しく」の部分が、悪いほうへと暴走していた。
ユリアーネはその翌日、引きこもって部屋から一歩も出てこなくなってしまった。
――アルベルト様のことは大好きだわ。でも、アルベルト様は本当にわたくしを望んでくださっているのかしら。
ご自分の加護の器が小さいことを気にされていたし、お父様のワイナリーをとても褒めてらしたわ。
それでもアルベルト様の妻になれるのなら……。
でも、お父様が大切に守っていらしたアルンシュタットが、わたくしのわがままのためになくなってしまうなんて。
それにアルベルト様が、本当はわたくしのことを想ってくださっていないのなら……――
「やっぱりダメだわ!」
丸一日こもっていた部屋の扉を勢いよく開け放つと、心配していた父に顔を見せ、泣きながら言った。
「お父様、わたくしやっぱりアルベルト様とは結婚しません。最初にお父様が仰った通り、アルンシュタットを継いでくださる方とお見合いします!」
「はあ!?」
そうして、娘の不可解な言動にとうとう音を上げたオスカーは、シュトルベルク伯爵令嬢に助けを求めたのである。
翌朝、早くから呼び出されたゾフィーは、ユリアーネをなだめながらひと通りの話を聞いた。
ゾフィーは大きなため息を吐いたが、口元はゆるんでいて、どちらかというと呆れて笑うしかない、といった様子である。
「ユリア、最初のお茶会ね、実ははじめから貴女を連れてきてって言われていたのよ」
「えっ?」
「ゾフィー嬢、申し訳ない。それ以上は、私に説明させてほしい」
扉を叩く音とともに、顔を真っ赤にしたアルベルトが部屋に入ってきた。
ユリアーネは理解が追いつかず、涙を止めてまぶたをぱちぱちさせた。
「ええ、そのほうがよろしいですわね、アルベルト様。ですから、回りくどいことはおすすめしませんよ、と申し上げましたのに。ユリア、大丈夫だから。ちゃんとアルベルト様とお話しなさいね」
ゾフィーはユリアーネをそっと抱きしめると、扉を少し開けたままにして部屋を出ていった。
アルベルトとしばらく黙って見つめあっていたユリアーネは、涙が止まっていたことに気づくと、どうぞお掛けになって、と言った。
アルベルトはソファに腰をおろしたが、相変わらず顔を赤くしたまま、話の入り口を探している。
「あの、どうしてこちらへ……?」
少しずつ落ち着きを取り戻したユリアーネが、先に口を開いた。
「ああ、お父上から連絡があったと、ゾフィー嬢が知らせてくれまして。それで、きちんと説明しようと思ってうかがったのです」
「えっと、わたくしのほうこそ、やっぱり侯爵家に嫁ぐのは無理だと。それにアルベルト様がわたくしのことを、どうか、あの」
「待って、説明させて?」
アルベルトが手を上げて、ユリアーネの口を止める仕草をしたので、ユリアーネは口を閉じる。
しかし、アルベルトはやはりなにか迷っている様子で、口を開きかけては閉じることを二度三度繰り返した。が、意を決して話し出した。
「ゾフィー嬢の手紙には、貴女は私が『ユリアーネ嬢の加護の器とアルンシュタットのワイナリーを目的に婚約を持ち掛けた』と誤解して、婚約をやめようとしていると」
ユリアーネはまた泣きそうな顔をしてうなずく。
「わたくし、アルベルト様に好きになっていただけるなんて、やっぱり信じられなくて。そう思ったら、わたくしの器やお父様のワイナリーのほうが、アルベルト様にはよっぽどお役に立つのだわって気づいて。それならやっぱり悲しいから。それに、お父様がアルンシュタットを持参金にしていいって仰って、わたくしのわがままで子爵家がなくなるなんて、そんなこと……」
ユリアーネの目にまた涙が溜まってくるので、アルベルトは慌ててハンカチーフを持たせる。
「それが、全部誤解なんだ。逆なんだ」
「逆?」
アルベルトは耳まで真っ赤にして、しかしユリアーネを真っすぐに見つめて、はっきりと言った。
「私が、貴女に一目惚れしたんだ。それが最初だったんだ」
アルベルトが前年の秋に子爵領を訪れたのは、偶然であった。社交界で話題になっているワイナリーがあると聞き、見てみたいと思った。
ユリアーネに語った通り、後学のためにと行ってみることにしたのである。
そこでアルベルトが見たものは、楽しそうにワイン仕込みの葡萄踏みをする領民たち。そして、彼らに混じって真っ白なワンピースを葡萄色に染めながら、美しい紅玉の瞳を輝かせるユリアーネであった。
「とても美しかった。本当にいつまでも見ていたい、叶うことならこの光景を絵に描かせて飾っておきたいと思ったんだ」
「そんな、全身葡萄まみれで、ひどい有様でしたでしょう?」
「いや、美しかった。そして可愛らしいと思ったんだ」
アルベルトがさすがに視線を逸らすが、ユリアーネもまた瞳と同じ色に頰を染めて下を向く。
「作業をしていた領民が、『今年もお嬢様が来てくださってよかった、みんな喜んでる』と話しているのが聞こえて、それで、貴女が子爵家のご令嬢だと知ったんだ」
アルンシュタット子爵令嬢ユリアーネ・アントイネッテ、十七歳。調べるとすぐにわかった。二十三歳のアルベルトが交際を申し込んでも歳の頃はあう。
しかし、アルベルトは侯爵家の嫡男であり、ユリアーネは子爵家とはいえ一人娘、しかも優良な領地を持つ家柄で、婿がねを必要としている令嬢であった。
悩むアルベルトに救いの手を差し伸べたのは、社交界で華やかな交友関係を築いていた母と妹であった。
いつもの一人旅から戻ったアルベルトの様子が、いつもとは違うことに気づいたふたりに、あっという間に洗いざらい吐かされたのである。
妹のエレオノーレ・ドロテアが、友人たちにユリアーネの評判を聞くと、本人はまだほとんど社交界に出ていないが、アルンシュタット子爵が慎重に婚約者候補を探していること、そしてシュトルベルク伯爵令嬢と親しいことがすぐに判明した。
シュトルベルク伯爵夫人は母の友人であり、令嬢も一緒に何度もお茶会に招待している。伯爵家の母娘を味方に引き入れ、伯爵夫人の代わりに令嬢のお友だちを招待する計画が立てられた。
「情けないけれど、私の力だけでは貴女と親しくなるのは無理だと思った。だから母と妹の案に乗ったんだ。貴女と話して、母と妹もとても好ましいご令嬢だと言ってくれたし、父も母たちがそう言うのならと賛成してくれた。それで、侯爵領へ招待してもらった、というわけなんだ。貴女が心配していた器とワイナリーのことも逆なんだ。家格の違いを気にされるお父上を説得するために、もっともらしい理由になると思って。もちろん、興味があるのは否定しないけれど」
ユリアーネは茫然としていた。アルベルトの言葉は耳に入っているのに、意味がよくわからない。
ただ、アルベルトの「私が、貴女に一目惚れした」という言葉が頭の中で繰り返し響いている。
「ええと、じゃあ、アルベルト様はわたくしより先に、一目惚れしてくださってたってこと?」
その言葉にアルベルトがユリアーネに向き直る。
「ユリアーネはいつ? いつ誰に一目惚れしたの?」
「……お茶会で、アルベルト様に」
消え入りそうに小さな声でこたえたユリアーネの手を、アルベルトはハンカチーフごと握りしめた。
「じゃあ、私たちは両思いで、これから婚約していずれは結婚するってことで問題ないよね!」
ユリアーネの華奢な手を、しっかりと握る大きな手。きっと今、全身が真っ赤になっているに違いないわ、と思ったユリアーネはさらに小さな声で言った。
「はい」
予定通りに婚約が調い、翌年には結婚式が行われた。ユリアーネは晴れてユリアーネ・アントイネッテ・クヴァンツとなった。
唯一残っていた懸念、子爵家の跡継ぎ問題については、アルベルトがさらりと言った。
「私たちに男の子がふたり生まれればそれでいいし、もしも生まれなかったときには、家名をクヴァンツ=アルンシュタットとしてもいいのではないか、と考えている」
「そんなことできるの?」
「アルンシュタットはそれくらい価値のある領地だと私は思っているよ」
「嬉しい! ありがとう!」
夫となったアルベルトにユリアーネは抱きつく。アルベルトも、もう照れることもなく、愛妻の背に腕を回して抱きしめる。
「まあ、でもそれも当分先の話だからね」
アルベルトは愛しい妻の頬に唇を落とした。
結局、「クヴァンツ=アルンシュタット侯爵家」は誕生しなかった。クヴァンツ侯爵家の若夫婦は、二男二女に恵まれたからである。
無事に次男がアルンシュタットを継ぐ頃には、葡萄栽培とワイナリーの成功が国に功績として認められ、アルンシュタット伯爵家となっていた。
ユリアーネは侯爵夫人となってからも、毎年ワイン仕込みには必ずアルンシュタット領を訪れ、侯爵家の子どもたちと一緒に葡萄まみれになった。
それを嬉しそうに眺めるアルベルトもあわせて、アルンシュタットの領民はお嬢様のご一家の訪問をとても楽しみにしていた、ということである。
葡萄踏み、楽しそうと思ってたのですが、検索して後悔。
侯爵令息のあれこれがまだでてきたので、別枠で投稿していきます。