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暴力資本=金毛獣と向き合う。

激動の今において、力たる金毛獣と戦う意志

作者: ガニミズム・わいばーん/牝牡蠣

世界観の拡張が目的のため、加筆されていきます。

この文章の読み方

【_a ○◇■♡〜●】


これは、【○◇■♡〜●】という言葉は、【_a 万人が示すべき公的想像力、世界観について】と内包もしくは発展、同義等の関係を示している。


____________________________



【_a 万人が示すべき公的想像力、世界観について】


 それには、平和という言葉について少し考えなければならない。平和、もしくは平和という状態は個人の主観によって大きく変わるものであり、ある階層の人々にとっての平和、経済的・精神的幸福であったとしても、他方では【_b 絶望である、現状でいえば貧富の格差】のようなものである。その場合に我々は、新たに求めうるべき平和とはどのような状態であるかという議論のもとに、【_a 一つの共通の概念】を導き出さねばならない。無論、それは議論による結論のもの、他に強要するものであってはならない。

 すべては、【_a 新しい概念】の提出に始まる。国際連合や世界保健機関、欧州連合といった概念は今やその力を揺らぎつつある。私が考えるのは、【_a_e 神の否定により証明された神による概念である。神を我々は認識できない、しかし、我々は神の愛を感じなければならない、その愛の中で我々は多様な他者を想像し、慈しみ、優しく、愛を持ってなお与える存在になる】ということである。これは、ひどく抽象的でドラマチック、悪く言えば戯画的に見えるかもしれない。それでも私がこれを示すのは、世界大戦後に示された新しい概念、国連やWHOやEUがその力を揺らぎ、次に我々が示す新しい概念を想像した時、まさにその【_c 想像力こそ、我々自身を救い導く力】であり、今本当に必要とされている力であると考えたからである。私は【_d 地球の生態系の所属者であり所有者である】という概念にこの思いを託す。

 まず、蝗害から考える。蝗害が起きた理由として挙げられる説は、紛争による政情不安で殺虫剤が散布出来なかった、というものである。ここに紛争というワード、アメリカとイランの緊張も同義とする。紛争という政策的か経済的かの選択によって地球の生態系の所属者であり所有者である人間に、広範囲に及ぶ大きな被害をもたらすのである。もしか、蝗害の主たるサバクトビバッタ地球の生態系の所属者であり所有者であると考えられるかもしれないが、ここでは割愛する。ここで重要なのは、一部の人間の政策的、経済的選択が、その他の地球の生態系の所属者であり所有者に被害を与えるということである。(主たるサバクトビバッタの死骸は、その土地を不毛の地にするという話もあり、けっして人間だけの話ではない)我々はその被害をうける、地球の生態系の所属者であり所有者である一員として、政治参加し、その政策的、経済的選択を吟味しなければならない。一個人でも、オフィスワーカーでも、俳優でも、多々ある職能の肩書きどれでもなく、である。おそらくこの多々ある職能の肩書きとは異なる、地球の生態系の所属者であり所有者であるという仮面を手に取り、皆が政治をせぬ限り、同じ事態がまた起こるであろう。

 新型コロナと気候危機である。しかし、新型コロナに関しては言及ができそうもない。現在進行で事態が進んでおり、結果いかなる傷跡を我々に残すかがわからないからだ。

では、気候危機を通して新しい概念を考えていく。私は馬鹿の一つ覚えのように映ってしまうかもしれないが、地球の生態系の所属者であり所有者である、という概念で、この問題をカバーできるのでは、と、考えている。気候危機の原因は先進国の富と資源の一極集中であるといえる。現今の世界は資本主義として、あらゆるものを大量に生産し消費し、強欲のままに成り立った、それを抑制する必要がある。なければ、それによるその他の地球の生態系の所属者であり所有者への被害、途上国・第三世界、そして富と資源の一極集中を起こしている先進国自身も、である。先進国の経済的繁栄のために起こるそれを、いかに抑制していくか、気候正義によって、地球の生態系の所属者であり所有者である先進国国民は、その上で自らの政治と経済を考えていかねばならないのだ。しかし、現今の世界はまさに強欲によって成り立った世界であり、それにより整備されたシステムがあり、抑制するのは並大抵の苦労ではない。だが、同じ地球の生態系の所属者であり所有者である森羅万象、そして、これからそれになろうという未来の者たちも含む、彼らへの被害、苦しみ、悲しみを想像し、本当に強力に動くことができるかに、かかっている。では行政、外交、経済、社会において、いかにそれを抑制していくのか、と問われれば、我々一人一人の人間が地球の生態系の所属者であり所有者である、という新しい概念を受け入れ、行政や経済にも気候正義を取り入れ、その上で整備され直した抑制されたシステムを笑顔で受け入れること、と、私は答える。とても業務的な回答と呼べる代物ではないが、世界そのものに変化を求める以上、システムそのもの以上にそこに生きる我々自身が変わらなければ本当の変化にはならぬと思い、このような形になった。我々はどこまでいってもやはり強欲な生き物であり、そのために必要なのが、想像力、新しい概念、地球の生態系の所属者であり所有者であるという概念なのではないかと、私は考える。


 参院選が終わった。そして私は沈鬱としている。この参院選以降三年間選挙が行われないということで、ここでいかに釘を刺せるか、と言われるほど重要な選挙だっただけに、与党が大勝してしまったのはする正直不安でしかない。無論、民主的に行われた選挙の結果であり、大きい国民として与党を信任しているというならば、もうそれ以上言うことはない、永田町に対しては。次に動くべきは我々国民の側である。国民投票か。

 とある著述家の方がこの参院選において様々なデータを見やすく整理、公開して、私達有権者に提供してくれていた。私がその中でも学び得たのは、


 ①維新は地方行政の地盤を得てそこで活動することにより、「力のある政党」というイメージをつけた。

 ②維新はマスメディアに多く取り上げられることで内容いかんに関わらず多くの発信ができ、それがイメージを強くさせた。

 ③野党共闘の重要性。


 氏もこの選挙の結果を受けて私と同じような心持ちかと推察され、立憲の比例票のマイナス100万票を「提案型野党で党のイメージが弱くなった」と見ているようである。そして、野党共闘をしなかったこと。確かにそれは重要であると思うが、ことここに至った限りは、私はもう一歩踏み出すしかないと考えている。それは、「国民が主体となった民主主義の組織化」である。立憲の提案型野党や野党共闘せず等でイメージが弱まり票が集まらなかった、地方行政とメディアの維新に票が移ったなら、しかし立憲の票が党の対策の不備で移ってしまう、あたかもスーパーの鮮魚売り場で魚の品定めしているかのような、それが果たして正しいのか。立憲がダメだから票を他へと移すのではなく、ダメなら立憲に声をかけ関与し党を成長させていく、そんな国民の姿、「国民が主体となった民主主義の組織化」が必要ではないか。

 しかしこの国民が主体となった民主主義の組織化というものが、国民が我が物顔で政治にはびこるというものではないことを注意したい。それは、オルテガ・イ・ガゼットの「大衆の反逆」とハンナ・アレントの「人間の条件」に寄る。この両者ともその国民から支持されたナチスというものをスペインから、ユダヤ人としてドイツから目撃し、その警鐘を含めざるを得ない生い立ちである。私はその警鐘を、オルテガ・イ・ガゼットから「政治は貴族の生、常に自らを成長させ高い視座を持ち広く他者を見る生がすべきで、それの真逆の成長を怠り低い視座で自己中心的な大衆というものが政治をしてはならない、それすなわちナチス」と、ハンナ・アレントの「人間の要素として生命維持のための労働、世界の耐久性を作る仕事、そして政治的なる活動、のバランスが重要であり、国民国家というものは国家すべてが生命維持のための労働にまるで私的家庭でもあるかのように国家が為される」と読んだ。国家や政治において、私的な大衆、ただ生命維持の労働の点だけで政治にコミットするのは危険である、私はこれに大いにうなずく。ゆえに、私の望む国民が主体となった民主主義の組織化というものは、私的でもなければ大衆でもなければ生命維持でもなければ労働でもない。しかしその主体はこの国民であり人であり私である。そして、直接民主主義に限りなく近づけた自治意識である。それを成り立たせるのは、私という一個の、外界やそれらとの関係性取り囲むシステムにあらず、私という一個の内面の世界においてである。

 では、この国民が主体となった民主主義の組織化とは、一体どのようなものであるか。私はこれを、【_a_e 大衆の政治=祭儀と想像した。これは、我々の日常のシーンの中で、最も政治に近しいものを求めてである。祭儀における先祖、神体、霊のような肉体を超えた上位への想像力は、大衆=国民が持つ想像力では最も強く豊かなものである。そしてこの祭儀という広大な空間を異化できる認識と想像力と能力こそ、国民が主体となった民主主義の組織化を成立させる、根源であり人間らしい生き方を示す】と考えた。

 ただ、私は読者諸氏が、突如先祖、神体、霊、肉体を超えた上位への想像力と聞いて、どこかキナ臭くなってきたと感じた方がおられるかもしれないと心配する。半端者のそれなどペテン師の域を出ない、妄言であると。私に自己を省みるだけの知性があるかはさておき、それらの言葉を使ったのは、【_a_e 大衆の政治=祭儀】として、権力や力というものと対抗するためには、やはりこちらのベクトルではなかろうかと考えてのことである。昨今の強権の様を見ていると、それをどうして止められるか、そのために我々一人一人がどうつながっていくべきか、強権、権力に対して力だけを使っていくくとの限界もみえている。それを越えてなお、【_a_e 我々をつなぎ連帯するための力を、私は先祖、神体、霊、肉体を超えた上位への想像力】だと言おう。私は【_d 一個の肉体として、強権・権力彼らの運営に成り立たせる世界から、異なった位層、レイヤーのは世界、領土と財産を想像する。そこで行われる意思疎通、鍛錬=教育、議論、想像によって、私は私の目的と責任を明確にする。】しかし、では私の言う大衆の政治=祭儀の骨格たる先祖、神体、霊、肉体を超えた上位への想像力が既存の宗教とどの点が異するかと問われれば、それは孤立である。国民が主体となった民主主義の組織化とそれを支える大衆の政治=祭儀の空間とは、【_d_e_f 一個の肉体たる私の尊重と確立】から始まる。もし、それらが集団化した力となってしまえば、それは権力に他ならない。【_d_e_f 先祖、神体、霊、肉体を超えた上位への想像力へ孤立した状態で向き合うそれこそが、自治意識】である。この認識と想像力と能力の論理、世界観こそが、今永田町の権力と力に向き合うための豊穣な想像の海へと一人一人によって泳ぎ出すべきだと考える。

 果たして、自分が当選して政治家で在り続けんと票集めだけに勤しむ政治家像が正しいのか、国や行政の在り方に・やり方に不満や不安があるからこそ我こそはと出馬し、演説を行い、賛同した有権者が執政の一票を託す、それが民主主義ではないか。当然目的を成すために政界に赴くならば、賛同とする多くの票を集めなければならない。しかしこの二つの大きな違いは、あくまで民主主義たる国民=国民が主体となった民主主義の組織化からボトムアップであるか、永田町の天上に政治家がいて、選挙の時だけ演説カーに降りてきてそのセレブリティを振りかざし票集めに勤しむのか、国民の自治意識の有無である。自民党には経団連や日本会議、立憲には連合、公明には創価学会、共産には党員という、後援者はすでにいるが、それは政治家と国民が窓口業務よろしく応対するものであって、私が展望するのは、言うなれば選挙による間接民主主義を超えた、直接民主主義に限りなく近づけた政治、すなわち自治意識である。そしてそれには、有権者である国民として、想像と認識の十分な鍛錬=教育、議論、想像を必要とし、その場となるのが国民が主体となった民主主義の組織化である。永田町の政治を機械とするならば、その上位たる管理者、強い国民としての民主政治である。それによって国民は、民主政治の管理者としての、領土や財産と目的と責任つまり、政治の機械と両輪となる国民の管理者の勇気を、明確にさせる。おそらくこの先、憲法改正のための国民投票がある。もしやさらなる増税もあるやもしれぬ。その時、国民の、民主政治の管理者としての、認識と想像力と能力が試されるだろう。それすなわち、己の力と欲望の抑制といえるだろう。それを、10万円をくれたから、アベノミクスが娘の就職に有利に働いたから、国葬されるぐらい偉い人だから、という理由で永田町の機械の管理を甘くすることが、民主政治の管理者として正しいのか。

 ゆえに、我々国民や大衆は永田町や国際外交上の力の論理たることは不可能であろう。いやむしろ、なってはならないのかもしれない。しかしその力の論理は現状においては必要とされるからこそ、我々管理者たる国民はそれに注意を払わなければならないし、ひざを屈してはならない。もう一度言おう。我々国民と大衆の背後には肉体を超えた上位への想像力、祭儀すなわち肉体を超えて無限なる他者、真たる世界そのものを、階級、人種を、性別を、国籍を、種類を越えた、豊かな領土と財産たる地球そのものを司る認識と想像力と能力があることを自覚し、それが政治へと確立することによって、共に人間が国民が成長できると希望を持つ。我々国民の一個の身体の祭儀、そのものが政治であると希望を持つ、そこから政治を舞おう。



【_b 私的領域の暴走について】


 私がこの文章を書くのは怖れからである。なぜかといえば、私が彼らを確固として定義づける書物に未だ巡り会えていないからである。それは私がただ単に情報収集に怠慢であるからかもしれない。国際社会の彼らへの対応はまさに霞を掴むようである。けれども、私は現状の【_b_f テロリズム】とその【_a 国際社会】の対応を表面だけでも見る限り、各国とも彼らに手を焼いているように思える。それはGゼロ=リーダー不在の世界に突入したことで、彼らに対する対応の足並みがそろわないからかもしれない。Gゼロはアメリカが「我々は世界の警察ではない」に示させるように国際社会の主導力を失った状態である。だが私は、それ以上にテロリズム=形無き暴力を定義しきれず、未だ国際社会が前代的な対応しかとれないからだと思っている。

 国際社会はテロリズムとの戦いに勝てない。なぜなら、彼らが私的なるものだからである。私的なるものは、公的なるもの=国際社会や国家に対する個人のことである。彼らは曲がりなりにも国家を名乗っているが、彼らの国家の形はまさに古代そのものであり、現代社会において国家と認めるのは難しい。私的なる彼らは、公的なる国際社会の武力行使を受けたところで、一方的に虐殺と感じるだけである。歴史的に見ても、公的なる国家に虐げらる私的なる個人=大衆は活力を奪われてもその反感はさらに強くなる。このような公的なる国家が私的なる個人=大衆に行う恐怖政治=テロリズムは、私的なる彼らが強大なテロリズムを持つ今、その効果を相殺している。彼らは公的な意識を持たないため、国際社会の行為を認識できないのである。そして、彼らは公的な枠=国家を持たない。ゆえに、時間空間を飛び越えて現れる。

そこにはやはり公的な意識はない。それはアルカイダや他の原理主義団体とはことなる彼ら特有の恐ろしさである。そこにあるのは私的なる暴力の異議申し立てだけである。それに私は、彼らがグローバル資本主義の負の不満から生まれた18世紀の市民革命よろしい21世紀の革命なのではないかと思ってしまうのである。

 今やGゼロ=リーダー無き世界やEUの分裂、中国やロシアの台頭に表されるように、時代は大きな転換期を迎えている。私は彼らのテロリズムが歴史の本流に外れる存在だと思えないのである。これからの世界は公的なるものが分解し、私的なるものの集積したかたちになるのかもしれない。彼らはもしかしたらその先頭にいるのかもしれないと。

 だが、今現在の我々としては彼らに何が出来うるだろうか。国際社会のいかなる行為は、まず彼らを公的なる国家という枠に入れない限り意味をなさない。国際社会は彼らを国家と認めた上で、反人道的な行いを正してゆく他ない。


 私は今回【_b_f 〈mutekkorism:ムテコリズム〉という概念】を提出する。これは、現在置かれている日本の状態を、より鮮明に捉えられるのではないかと思ってである。

 発端は安倍晋三銃撃事件である。現在この事件は、政治との大規模な癒着という一大スキャンダルを起こしている。しかしそれに対しての私の明言は今回は無く、問題は容疑者をテロリストとしている点である。容疑者をテロリストと呼んでよいのか、今回の政治との大規模な癒着から端を発したこの事件の容疑者は、テロリストと呼べたのであろうか? だから私はムテコリズムを挙げるのだ。

 それは、今回の彼の襲撃がテロリズムであったなら、では彼に政治的目的があったか? ということである。もし政治家との大規模な癒着を止めさせたい、癒着の相手にダメージを与えたいなら、国会による反セクト法の成立、行政では文科省による宗教法人格の剥奪など、それらの手続の方がそれに与えるダメージは大きい。結局襲撃事件を起こしたとて、政府が何の即効的対応をとれないのが、何よりの証左である。すなわち、【_b_f 今回の襲撃事件は癒着対象へ行政に法的手続きをとらせるという政治的目的で無く、容疑者の弁を借りるなら、もう追い詰められてそうせざるを得なかったという、【_b_f 〈声無き・目的無き・意志無きテロリズム〉であったのではないか】、と、私は考えた。この【_b_f 〈声無き・目的無き・意志無きテロリズム〉を私は〈ムテコリズム〉】と名付け、そしてそれによって、今の日本のまた違った側面が見えてくる。すなわち、今の日本では政治的目的のテロリズムはほとんど無いかもしれないが、【_b_f 〈声無き・目的無き・意志無きテロリズム=ムテコリズム〉】は、溢れているのではないか。【_f いじめ、DV、虐待、ネグレクト、ハラスメント、そして、自殺】。もしそれらが国家行政のシステムの不備を起因にして生じたものだったなら、それが政治的目的に向かわず身の回りの親族や部下やクラスメイト、そして自身に向けられた【_b_f 〈声無き・目的無き・意志無きテロリズム〉であるならば、それはムテコリズム、テロリズムの一種】であると私は考えたのだ。このムテコリズムは、お気づきの読者諸氏もおられるかもしれないが、俗に言う「無敵の人」とテロリズムを合わせた造語である。しかしこのムテコリズムにおける無敵とは、敵がいないほど強く止められないでなく、敵を見定められない彷徨である。もしかしたらこのムテコリズムの一つ自殺は、ハンストにも通じるかもしれない。

 私はこのムテコリズムを使って、行政府に関する言いたいことはこうである。

「確かに今の日本では政治的目的を持った暴力、テロリズムはほとんどないかもしれない。しかし。それが政治的目的と政治へと向けられていない〈声無き・目的無き・意志無きテロリズム=ムテコリズム〉は、いじめ、DV、虐待、ネグレクト、ハラスメント、自殺として、日本に蔓延している。これは、テロリズムのように公に目に見える破壊は生まないかもしれないが、個人個人を確実に破壊し社会を壊死させていく。放っておけば壊死は確実に着実に進んでいき、取り返しのつかないことになる。目に見えなかった、見ようとしてこなかったテロリズム=ムテコリズムをしっかと認知し、貴方達行政はそのテロリズムを止めるために全力で動くべきだ」

 順番を間違えたが、ムテコリズムはセーフティーネットの拡充やシステムの不備の改善を真摯に行えば多くは止められるのではないかと。

 事態が大きく動きそうです。首相が文部大臣に「質問権」というものを使うように指示し、そこからの成り行きによっては解散命令から、宗教法人格剥奪にいくかもしれない、とのことです。そうなると、容疑者の襲撃事件は政治的な結果をもたらしたことになり、暴力による政治を成したことになります。もともとの団体にも問題があったので私情としてはあまり言えないのですが、「非暴力では今まで動かなかったが、暴力なら動く」そんな前例にならないことを願い、安倍元首相の命と容疑者の全人生を懸けなければ団体の変化はできなかったのか、他の手はなぜできなかったのか、を、故人への弔いとそれを見過ごしてきた我々国民の反省のために真摯に向き合うべきだと思っています。「平和ボケ」、はよく揶揄として使われますが「結局暴力が正義だった」は辛すぎます。これはその、一環なのかもしれません。


 私の中にある精神病院への憧れとは何か? それは【_e 絶望を機能的に粉飾させる巨大な極めて巨大なペルソナ】である。無論、これは精神病院の実際を知らない少し調べればその長期隔離入院がポジティブとはおよそ言い難いことを慮っていないと言われてしまうかもしれないし、真っ当な病院では極めて遺憾と怒られるかもしれないが、しかしそれでも私は精神病院という存在に憧れを持ってしまうのである。

 では先述の私の言葉を分解する。まず【_b 絶望】とは何か。それは【_b 他者という世界の不変性とそれに対して変身して欲しいという希望を捨て切れない結局のところの弱さであり愚かしさ】でもある。これを大業に例えるならば、為政者や大企業界隈や世間が人間一人の命の人生を蔑ろにすることに似ていると思う。だから、【_a 力を持たない弱者の最後の中動態】である。

 【_b 機能的に・巨大な極めて巨大な】、とは類似項があるので重ねる。それは、【_b 社会的に広く流通しひた隠しにされている巨大なオートマチックシステム】である。

 そしておそらく精神病院は、ある意味で絶望をまとう精神障がい者という弱者を主として構成されながらも社会に対しある一つの機構、機能を示している。それは粉飾である。つまりは、彼ら障がい者一人一人の絶望は、その一人一人の質度を持っているわけだが、それを精神病院というシステムの中に組み込み、そこに一つとしての機構、機能を与えているのだ。それはまさに精神障がい者を着飾らせている。

 こう書くと精神病院とは人を蔑ろにし、人をシステムの中に押し込み、没個性的に人間を粉飾させるあまり好しがらざるもののように私が思わせんと説くように見えるかもしれない。しかし。最後の分析、【_e ペルソナ】である。それは入れ子構造である。読者諸氏はなんとも共感してくれないかと期待するが、このこのましからざるものとは、精神病院に限らず、実は健常者の社会システムもその在り様なのではないか、さながら社会は巨大な精神病院とでもいったところか。【_a_e 健常者の社会システムという精神病院の中に、さらに精神障がい者という絶望の弱者が主となって構成されたシステム精神病院がある。そしてここからさらに入れ子構造がある。ある一人の精神障がい者の肉体の中にも精神病院が、精神障がい者自身を蔑ろにし、精神障がい者自身を精神病というシステムの中に押し込み、没個性的に精神障がい者を粉飾させる、機構と機能が宿っている。そして彼らの肉体の過去生にもまたまた、もう一つの精神病院があって……。といった具合】である。しかしこんな入れ子構造やらフラクタルやらと言われたところで、そんなものはどこの社会でも見つけられるだろうし、それこそ原っぱの植物を観察したら普通にあるだろうと私を嘲るだろう。しかしあえて強言すれば、【_e 精神障がい者の入れ子構造、フラクタル、ペルソナ】は、おそらく皆様の思うものとは異なる。それは、【_a_c_e もう一人の自身として取って代わるほどの質度を精神障がい者の精神病が持っている】ということだ。それによって破綻や阻害される自身の肉体と、精神病というもう一人の自身のこのペルソナの関係こそが、ある一つの先鋭的な哲学の様をする。自身の肉体の破綻や阻害を止め健やかな肉体で生きるでも、その破綻や阻害と精神病のバランスをとって上手に生きるでもなく、【_a_c_d_e 精神病というもう一人の自身、ペルソナそのものになる・変身化身するという、実験的先鋭哲学、その異化された空間】、それが精神病院である。しかし皆は言うだろう、それは健全ではない、生産性が皆無の破滅的で愚かであると。しかしそこに精神病院が、絶望がありオートマチックシステムがあり粉飾があるならば、ペルソナは常に我々の斜め後方にぬっくと立っている亡霊のようでもあるのだし、入れ子構造とフラクタルの精神障がい者のある一つのリアリティの質度でしかないのだ。



【_c 政治への国民個人民主主義の組織の立ち上がり】


 私が求める政治とは、世界の現象として個人から体外化されたものでなく【_c_e 個人の内面・内宇宙で認識と想像に由来する中動態と愛としての場】を創造することである。

 もうすぐ参院選の投票があるということで各陣アピール合戦を展開しているが、私は億劫としてしまう。それは安直に無投票棄権に乗じるということではなく、

『ただ選挙に行くだけが、もったいないからとこの時だけ政治家が流す聞こえのいいもので民主主義をやった気になっていいのか』

 ということである。無論、選挙に行くべきなのは疑う余地はない。

 しかし、今この目前で繰り広げられる政治というものが、本当に政治をし切れているのか? と感じてしまう。つまり、【_b 今我々の目前で政治だと思われているものが、実は一握りの人物の思惑や得のために行われる、政治ではないただの遊園地】ではないのかと思ってしまうのである。そうなれば結局、我々の投票という行為もその遊園地にフラッと遊びに行っただけに過ぎない。一握りの人物の思惑や得のために行われる政治といったが、それは独裁政治でありれっきとした政治体制の一つであるかもしれないが、それこそやはり国民と国家というものは強大な独裁者の下で玩具よろしく人権など無く遊ばれるしかない、血まみれの遊園地である。

 では、私の求める内面・内宇宙の中動態と愛の場という政治とは、自民、立憲、公明や共産、れいわ、維新、国民民主etc…、を内面・内宇宙の自己の裡で己自身が変化して演じることで実在の永田町の政界と自己の裡の政治の間で関係を立ち上げ、それらの【_c_e 背後の認識と想像を鍛えることによって、単純でありながら非常に巧緻な市街劇=我々の現実に演劇的感性の場を組み込む】、ということである。それすなわち、世界の多重性・多層性を認識・想像するための虚構と現実の見地である。自己の裡の内面・内宇宙で演じることによる世界の多重性・多層性の政治とは、すなわち個人がどれだけ他者と世界の体外化された諸要素と向き合い己が裡に取り込めるか、その方向へと示される。しかしそれだけでは実際の永田町の政治など動かせぬと思うかもしれないが、目指すべきは権力のともなった永田町の政治と共にもう一つの片輪として、国民そして個人個人に内面・内宇宙の中動態と愛の場=市街劇という政治である。それがまずしっかと確立しなければ、片輪だけの政治となり認識や想像の香りもなければ、世界の多重性・多層性も無い一握りの人物の思惑や得のために行われる血塗られた遊園地となる。だからそのために【_d 政治というものを両輪として機能させるための、民主主義の、中動態と愛の場=空間・ある種の機構やシステムの政治の建設】を目標しなければならないのではないか。

 しかし、何故私が政治において『愛、演じる、市街劇、内面・内宇宙』を重要視したかと問われれば、民主主義について、世界に在る形無き主体=中動態への想像力を組み込むことが喫緊の課題であると考えているからである。中動態については國分功一郎氏の著作が詳しいが、私の言葉で言うなら、何かをする「能動」でも、何かをされる「受動」でも、つまり明確に何かをする・されるという領域にない、「私の心の中では思っているが実際に行為にならない(=能動受動でない)」だそうである。

 その喫緊の課題とは、「目に見える実体、物質代謝の世界では必然の歴史として人類の滅亡を受け入れるべきか」ということである。昨今の世界情勢を見て、気候変動や格差等を考えてみると、人類は滅びの道を着実に進んでいると笑っていられる状態にない。その上でも今、目に見える実体、物質代謝の能動受動にとらわれていては、その歴史の法則の下に人類は滅亡からおそらく逃れられないだろう。今の私の行動は意図に関係なくこの物質代謝の歴史の法則下にあり、そしてこのまま行けば盛者必衰は当然の成り行きといえる。もし少しでも延命をはかるという地球史上類を見ない一大事業を興すならば目に見える実体物質代謝の歴史を超える認識と想像、内面・内宇宙の中動態と愛の場=市街劇のような新しい領域の具現化が必要かと考える。

 しかし、目に見える実体物質代謝の歴史は、まさに今までの人類の歴史そのものでもあり、それすなわち過去から今現在までの人類の世界=国家と権力、と、最も可視しやすい形で存在している。その実体たる国家と権力を前に、一個の肉体個人というものは内面・内宇宙の認識と想像による中動態と愛の場=市街劇は敵わないどころか何にもならない。しかしそうだったとしても、それを、世界に在る形無き主体を、確立させ目に見える実体物質代謝の歴史=国家と権力と向き合って行けるか、その力が、想像力があるか。それが永田町の政治=権力と両輪となれるか、ということである。これは永田町の政治や国家や権力、そして物質代謝の歴史を打破せよ! というわけであろうはずはない。両輪として、それらを確立させることに注力する。それこそ世界の多重性と多層性を示すことである。




例)認識と想像、内面・内宇宙の中動態と愛の場=市街劇

  宣言のシーン________________________


「わいちゃん、今回のお話し合いには、きっと答えはでないと思うのね。でも、その答えに関わらず、僕達の行動は行われるのね。すなわち、今僕の行動が答えになるということなのねね。だから、今その瞬間に僕は君は何をしているか、するか、それが答えであり意思表示なのね。でもそこに決断はない。でも僕は、人間の行為の積み重ねである歴史というものが、すべて人間の明確な意思の下にその脳内のまま一言一句違わず表れるとは思わないのね。日々の生活という無形の思考の中で、もしくは今の僕達の入崎会議のように、意識下における有形の思考の中で、種子は錬成され、それが芽が出て育ち、行為と歴史になっていくと思うのね。種子はただ用意されるが、それが良い実になるか、不稔となるか、どうかはわからない。でも、僕達は常に沢山の種子を己の内に貯蔵しているのね。だからこの入崎会議も行動や意思表示や決断や宣言をするというよりかは、一つ一つ、また一つと、種子を錬成し蓄えておく、そうゆうものかもしれないのね。わいちゃんは力による一方的な現状変更は、今まで人々が一生懸命作って想像してきた世界を壊すものなのね。力による現状変更はあってはならない! 許さない! プーチンさんは軍を引き返させて、対等な立場でウクライナとお話し合いをするのね。それが一番です国家の代表者たるリーダーの、真っ当で真摯な在り方なのね。僕はどこかを攻撃して、自分のものにしてしまおう! ということは、結局選ばれた高貴な生のリーダーでなくとも、誰でもできるものだと思うのね。究極きっと、周りに偏った専門家を配置して、それから話を聞いた子供でも、その決断だけだったらできると思うのね。ではその、政治リーダーというものが一つの生き方として、プロフェッショナルかつ重要な活動として高い資格を必要とし選ばれた英雄にしかできないのはなぜかといえば、人智の及びえないような恒星の如き思考をその政治中枢の中で繰り返し、数え切れないほどの種子を錬成し、その中から最善解を示さなければならない生き方だからなのね。そんな宿命を背負うからこそ、政治家という生は高貴で優れた資質といわれるのね。その中で、もし侵略戦争を選ぶというなら、それはただ世界を自分の意のままにするという、極めて大衆娯楽的で極個人的な行為なのね。たしかに、戦争によって英雄というものは立ち上がってくるかもしれない。しかし今二十一世紀の世界が示した英雄像というのは、決して他国を武力により侵略するものではない、いかに広く高い視座で地球全体を見通しながら、人類の生存を保障していくか、そんな人権と気候危機という巨大な禍に対して現れるのであって、侵略戦争はまずもってその反対を行く、せまく低い視座で自分の立ち位置すら見失う行為なのね。そんな人は、これからの世界を、地球を背負うリーダーにはなりえないのね。それがわいちゃんの、日々の生活という無形の思考、そして今僕達の入崎会議のように意識下における有形の思考によって錬成された、行為と歴史の種子であり、わいちゃんの核なのね。

 わいちゃんの存在意義は神のレプリカ、トランキライザーであるならば、ニコニコ笑顔の公的想像力! ニコニコ笑顔のお尻フリフリ身体感覚!」


)会議のシーン________________________


「戦うことであるか、はたまは祭りをすることか、その選択は重く、どちらも理としては理解できないこともない。ここで重要なのは、主体たる私達がいかなる核を持つか、ということだ。もちろん、核武装のことではない」

「しかし、私はゼレンスキーを、自らが主演したドラマ『国民と僕』の普通の歴史教師がウクライナ大統領として汚職や大国と渡り合う、そんな活動と理想そのものとしての跡、すなわち仮面をつけ、それが実際の政治上で選ばれ、そしてこの非常時に大きく機能しているのだと見ていた。しかしその機能があまりに劇薬であるがゆえ、彼の人身掌握が巧みであればあるほど、世界のバランスは崩れかねないと、そういった見方もあるが?」

「まずその前に、この場でこういった形で『世界はこうではないか』と己で断じ表現することに対する、自己の蒙昧状態へと陥りはしないだろうか。おそらく今の出来事は、これから先何十年とそれぞれの時代それぞれの立場のインテリジェンスに歴史の流動状のものとして研究されるだろう。それによって今の出来事とは千変万化する。その膨大な積み重ねで初めて、今の出来事の真相に近しいものがおぼろげに見えてくる、その程度のものだ。しかしであるならば、『世界はこうではないか』と己で断じ表現することに、どれだけの意味があろうかだし、もし生半可なものを挙げてしまえば、それこそ熱狂に押し流されてしまうような蒙昧状態になってしまうのでは?」

「では君は今の出来事に対し、コミットすべきではないと?」

「徒に関わるというより、今の出来事は我々に逃れようも無く責めてくるだろう。その時、しっかりと耳を傾ける準備をしておかなければならない」

「だからこそ。我々は主体たる私達がいかなる核を持ち、その核によって判断していくか、が重要なのではないか」

「しかし。もしその核がおよそインテリジェンスとは呼べない陰謀論まがいのものだったら、私は確実に誤った判断を下すぞ」

「だから究極を言えば私は、あらゆる現実を前にして精神錯乱してまた別の意味で無知蒙昧を起こし、現実を前に何もできなくなるという自滅を選んだとしても、それはそれで個人のレベルとしては良いのではと、思ってもしまう」

「待って! そのあらゆる現実を前にして精神錯乱で、それで戦争加害を黙認してしまうようじゃあ、悪人の仲間入りだわ!」

「戦争は互いに正義を謳って戦われるとは言ったものだが、いざ現実として向き合ってみると、一体何が真理であるのか、わかりやすく極端な言い方をすれば、実は正義かと思っていた自分の行いが、実は悪だったのではないかと、もはや何がなんだかわからなくなるのよ」

「尊敬される戦死と、快楽としての勧善懲悪としての討伐、が、あるのか?」

「死者の学校が敗者であるというのなら、すなわち敗者を前提としてこの作品が構成されているなら、それがすなわちいかなる屈辱で苦しみで恐怖で死であるか、わかっていないのでは? 作品の主張として、そうなりなさい、ということを言えるだけの覚悟と強さをわ貴方は持っているか?」

「違う、今考えるのは現実で苦境におかれている人々に対しての、我々の立ち位置というもので……」

「できることなんて! 戦争反対! と意思表示することだよ! もしくは攻撃を仕掛けたリーダーに直談判でも何でも直接関与して、攻撃を止めさせるか? 究極的にはそれしかないぞ」

「今はきっと世界が作り変えらる瞬間を目の当たりにしている。しかしそれはポジティブなものではない」

「そしてその世界の変革を前にして、殺人的な暴力装置を前に、戦争を前にして、一体創作というものに何ができるというんだ。ジリジリと近寄ってくる危機に、創作なんてものに何ができるというんだ」

「きっと、できない。私が目標としていたのは、その戦火が起きる前に人々の心に関与し、未然に防ごう、というものだ。一度手が上がった事態に対し、じゃあ創作で解決しようといったところで、聖人ならいざ知らず、ただ死にに行くようなもんだ」

「今我々は、それを問われているんじゃないか? この状況下で、お前の創作とは何なのか」

「そうゆう意味では、今ゼレンスキーはコメディアンとしてまさに自身を、身体に芸を創作していたが、冒頭のゼレンスキーへの見方というのは、その延長線上か?」

「待て! 何故ゼレンスキーだけは表記して、もう片方は表記しない! 日和っているのか!」

「そうだ、それは認めざるをえない。私は彼が恐ろしい。経済や国際情勢や、そういった人の理解を超えて、一人の人間が国家と国家において争いを起こしたという、世界大戦後に人類が築き上げてきた世界観を何故内側から壊死させたのか、もはや彼の世界観で彼に話が通じなくなっているのか、そういった恐怖がある。そしてもしかした彼の世界観が、我々の世界観を押し潰し自身こそが世界だと声高らかに宣言するのではないかと……」

「だから創るべきではないか? 彼の示した世界観に、NO! を突きつける意味で、我々の世界観を、改めて強く示すために、創作すべきではなくて?」

「しかしその対極化した世界観の衝突の中にも、また強権の芽があるのでは。最初に述べたゼレンスキーとは。その技量で自身か、彼かに世界を二分させ、その中心に立ちつつある?」

「しかし、彼の攻撃に対してYESかNO、それは態度として示さなければならないのでは」

「そうだ! それはそうだ。いかなる理由があってもいいと侵攻を肯定しうるものなどあってはならない!」

「待て。これは君自身のものか? それとも創作に関してのものか?」

「両方だ。私にとって自身も創作もつながっている。それの良し悪しは分からないが、私にとってはそうゆうものだ」

「本当に、今私は何をすべきなのか、分からなくなることだ。もし、いま世界に再び大戦が起きようかとしているかもしれない、これはウクライナだけでなく、地球規模で戦火が交えるということ、のに、結局個人たる私は何もできずぼけっと日常生活をし、こんな書き物しかできないという自分、それならウクライナのことなどどうでもいいのかと詰問する自分、もしかしたら過去の大戦も今の我々が見て何故こんなことを止めなかったんだ! でなく、今の我々のようにぼけっと生活してこんな書き物しかできずにどうでもいいのかと詰問してあの大戦になったのなら、結局我々の学んできた戦後とは何だったのかと思うことがある。私は今何をすべきなのかと」

「それを、今ここに、示す必要が、あるか? 大した見識も無い私の意見が?」

「ここに意味は無くてもいい、必要も無くてもいい、むしろ、それを生み出さないように気を付けて、それが世界がわからないという畏敬の中で、自分が意味がわかった! 必要がある! といった奢った蒙昧とした状態に陥ることなく、粛々と種子を錬成し続けること、それが重要な気がするんだ」

「それは結局何もしないということじゃあないか? 現実を前に何もできなくなる自滅を、君は良いとおっしゃる?」

「そうそこなんだ。戦って勝ち取りに行かんとするか、はたまた祭りをして勝ち取ることができるのか。前者は必ず生き残れるかはわからないが、後者は運の要素しかなく結果は天任せだ。はたしてその運の天任せを、国家という機能が行なって良いのか。個人なら個人の意思で構わないだろうが、国家だと話が違ってくる」

「やはりその対極化した国家としては、祭りではなく戦うしかないと?」

「そうだ。だからこそ僕は彼に言いたい。彼がウクライナへ侵攻したのは、果たして彼君の意思であるのか? そこには、国家と自己を癒着させたことによって、意味と必要が己の身体を超えて立ち上がってしまう、自身の世界に対する、他者に対する畏敬を欠いた状態になっているのではないかと。国家の権力という力の作用を自身と癒着などさせてしまえば、それは人間の手にした負えるものではない。だから、世界への畏敬、無意味と無必要を恐れてはいけない。それが例え自身に向けられたとしても。それになった途端に後ろから刺される世界にしてもいけない。盛者必衰の理の中に。それは政治家という生の、活動の、高貴で優れた資質であり美徳であると考える。それはもちろん、彼にも言えることだし、この先ゼレンスキーにも言わなければならない可能性は無いわけではない」

「彼よ、貴方の行為は今世界への畏敬を恐れかき消さんとしている。しかし、今ゼレンスキーが得た意味と必要によって自身がどうなっているか、感じて欲しい。国家では無く、自身で」

「しかし結局もこれは、行動や意思表示や決断や宣言の無い、種子の錬成でいいの?」

「世界への畏敬を持ち、無意味無必要を耐久する意思のために」



【_d 民主主義の組織、その構成たる管理者国民について】


 新型コロナ以後の世界は中国的な強権な政治形態が流行し(中国の新型コロナの対応)、民主主義が危うくなる(人権の立場からの新型コロナの対応)そうである。この部分について考えた。【_b 強権な政治形態】か、【_d 民主主義】か。この二択を迫ることを、私は間違いだと考える。

強権な政治形態を悪しきものとするのではなく、我々【_d 民主主義は強権な政治形態という金毛獣を飼いならす術を得るべき】だ、というのが私の考えである。現実として、中国的な強権な政治形態によって新型コロナの封じ込め成功という成果があり、これを無視することは出来ない。災害やパンデミック等の有事において、こうした力が有効であり、必要なものなのではないか。では、強権な政治形態がいいのかと問われれば、そうではない。私は、【_c_d 政府を機械、国民を管理者】と考える。管理者たる国民は仕事として政府という機械の管理・修理をする責任を持ち、もし機械による何らかの損失が起きれば、その責任は管理者たる国民が負う。その中で災害やパンデミック等の有事が起き、力が必要となった時、管理者たる国民の管理下において、政府という機械は力を扱う、強権な政治形態がへと運転を移行するのである。そして有事が過ぎれば管理者はまた機械を通常の運転へと戻す、これが、我々民主主義は強権な政治形態という金毛獣を飼いならす、ということである。そのためには政府という機械と国民という管理者の状態が重要である。国民の半数が選挙にいかない、政治家が国民に説明責任を果たさない、まずもってこの状態はよろしくない。選挙によって有能な人物を政界に送り込むのと同時に、我々も【_d 政府に強力に作用=管理・修理することのできる民主主義の組織】というものを、【_a_c_e_f 権力とは異なる想像力】でもって作らなければならない。私はこの、想像力にこれから生きる我々の可能性を託す。民主主義の組織の骨格を、先に記した「ポストCOVID-19の世界をポジティブに考える」の中の『地球という生態系の所属者であり所有者』を使えないかと考えている。その管理・修理の判断材料たる情報の隠蔽や操作など、一部の人間の益のために動く政府があるならば、それは明らかな機械の故障であると、国民という管理者は判断せねばならない。

 これからの世界は米中かそれ以外か、というより、強権=金毛獣になるか、ならないか、の二択ではないかと思う。その選択の時、決して想像力を欠落させてはならない。想像力を欠いた人間は、本当にただの獣になるだろう。私は金毛獣を飼いならす、後者になりたいと思う。


【_f 社会集団における公的・私的な死について】

 自死について考えてみたいと思う。結論を言うと自死とは、人と人との間でつくり出される【_a_c_d_f 公的な想像・世界観】をともなわない、【_b 至極単一で個人的・私的=孤独】という認知、な死である。自死を防ぐためには、その単一で個人的・私的=孤独という認知、な状態にある自死念慮者を人と人との間でつくり出される公的な想像・世界観へと導く、ということである。

 まず、私は、命そのものに対して絶対の普遍的な価値があり生きていることが無条件で素晴らしい、とは捉えられない、ということだ。悲しいかな、同じはずの命であったとしても、人間の命と、食用の家畜の命、同じ命なのに差がある。人間と家畜を同等に並べるなという意見もあるかもしれないが、私はどうも、それを区別してなお、自死を考えることが、どうしてもできなかった。そんな現実を前にして「命は大切だ、生きているだけで素晴らしい」ととても言う気にはなれない。むしろ、命そのものに価値があるならば、もしかしたらそれは思っているよりもおざなりなものかもしれない。

 だからこそ、我々人間はそのおざなりな命の価値を変えることができるのではないか。それが、人と人との間でつくり出される公的な想像・世界観である。誰かが自死して周囲の人々が悲しむ時、その悲しみは命そのものの消失による悲しみではない(命そのものの価値はおざなり)。自死者とその周囲の人間との間でつくり出される公的な想像・世界観が損傷を受けたから悲しむのである。よって、人と人との間でつくり出される公的な想像・世界観においての死というものは、儀式的な要素を必要とする。死期を悟る、終活、そして死後の葬式。それを経て初めて人は穏やかに損傷をゆっくりと受け入れるのだ。しかし。自死とは単一で個人的・私的=孤独という認知、なアクシデントである。そこには人と人との間でつくり出される公的な想像・世界観に沿う死の儀式的な要素を欠いているがゆえ、周囲の人間に著しい損傷を与えるのである。もし、自死にそれが含まれていたならば、自死ではなく、尊厳死や安楽死といったものになるだろう。人の本質は個人的・私的=孤独という認知、な命ではなく、人と人との間でつくり出される公的な想像・世界観なのかもしれない、今のところは。

 自死念慮者は単一で個人的・私的=孤独という認知、な状態を抜け出せぬがための自死念慮者であり、人と人との間でつくり出される公的な想像・世界観へと開かれていくのは難しい。我々ができることといえば、自死念慮者に、貴方の本質は単一でない、貴方の苦しみは個人的なものでも、私的なものでもないと語りかけ、貴方の生きられる世界は一つではない、一つの命に対してこの世界は不定形でたくさんの想像と世界観があり、そのどれかできっと生きることができる、その姿をみせ、ゆっくりと導くことである。命そのものの価値はおざなりだが、貴方の命が尊い人と人との間でつくり出される公的な想像・世界観、貴方が貴方たるところの世界がある。そちらに賭けてみて欲しい。なぜなら、誰かにとって、共につくってきた想像・世界観の大切な柱を失うことは、とても辛く寂しいものだからだ。人は誰しも誰かと意識せずとも人と人との間でつくり出される公的な想像・世界観がある。喪失によって苦しみ、涙を流す人がきっといる。もし可能ならば、生きてみて欲しい。私の前に自死念慮者がいたら、私はこう語りかけてみる、私は今貴方と、会話したという関係性=私と貴方の間でつくり出される公的な想像・世界観があるから、生きてみて欲しい、と。



【_e 公的領域=民主主義の組織たれるか幽霊Vtuber】


 Ⅴtuberの存在が初音ミクの、【_a_e 目に見えない、非人・幽霊的なる想像力】に対する著しい劣化によって成り立っているからだ。

 まず、初音ミクの目に見えない、非人・幽霊的な想像力について述べる。周知のことと思うが、初音ミクはⅤОCALОIDというパソコンの打ち込みによって、少女の声で打ち込んだ曲を歌ってくれるという音楽制作ソフトである。そこには可愛らしい容姿の少女のキャラクターの図像が付随している。ここで私が述べる目に見えない、非人・幽霊的な想像力がどこで働いているかといわれれば「音楽制作ソフトという人非ざるものが、歌うというもっとも人間らしいこと、この非人と人間らしさの両極を軽々と、シームレスに飛び交いながら破綻せず存在している点」である。音楽制作ソフト、少女のキャラクターの図像を現実に存在する人間そのものであると認知する者はまずいないだろう。少女のキャラクターの図像に関していえば人間として認知する領域もあるやもしれぬが、これから後述するがやはり目に見えない、非人・幽霊的な想像力が働いている。哲学者の東浩紀氏は「動物化するポストモダン」の中でゼロ年代の少女のキャラクターとは、複数のテンプレート(ex 「新世紀エヴァンゲリオン」の綾波レイなら。クール、ミステリアス、文化系、ダウナー、メガネ、etc……)と組み合わせて成り立っており、その背後にはテンプレートを集積しているデータベースが大きな意味を持っている、と述べている。このデータベースこそが、少女のキャラクターの図像を人間らしいもの捉えるならば、まさに非人・幽霊的であるといえる。その両極を持ち存在している少女のキャラクターの図像も目に見えない非人・幽霊的な想像力であると考える。

 ここで私が幽霊という言葉を使ったのは、音楽制作ソフトと歌う、非人と人間らしさ、データベースと少女のキャラクターの図像、ただこの両者を連関させるだけの線ではなく、アメーバ状に両極へと飛び交い広がる気体のようなイメージを伝えたいために使った。私はそれに一種の抽象性、哲学性、政治性を見る。20c初頭の哲学者、オルテガ・イ・ガセットは人間を貴族と大衆に分けた。貴族とは、常に学びを怠らず、新陳代謝し成長する、私利私欲以上のものを志向する政治観として必要不可欠な高貴な生といった。一方大衆は、学ばず、成長せず、私利私欲で動く政治とは相容れない生だと。そして、目に見えない、非人・幽霊的な想像力がおおまかどちらに近しいかと考えると、おそらく貴族の方であろう。それは大衆=私的な認知領域の外側に存在する私=個と対立する公=全だからである。私の持つアメーバ状に広がる気体のようなイメージとは、目に見えない、非人・幽霊的な想像力の持つ公的であり全であるという特徴を捉えんとしたからである。

 では最後に、なぜⅤtuberが政治哲学を持てないかということである。それは、【_b_f 目に見える、人間らしい、生者的な想像力、具象性、反哲学性、反政治性、大衆な、私=個の領域】のものだからである。これを著しい劣化と捉えるのは異議が起こるかもしれないが、初音ミクが示した可能性から退行したという点から、私は劣化と考えている。

 そして、個人的に「百年後のVtuberって、いったいどうなっているのか」ということだ。僕はVtuber及びVRを「公的・貴族的でない、私的・大衆的なものであって、初音ミクの神聖さには及ばない(拙作、『Vtuber、あんまりすきくないので考えてみた』に記載)」と、思っている。しかし、【_a_e Vtuberの二次元キャラクターの図像に宗教的な想像力を見てしまうため、できればVtuberに百年後も二百年後も輝き】続けて欲しいと思ってしまう。Vtuberはいつか、日本特有のアニメ文化や二次創作文化が絡んで生まれた、ハンドメイド感のあるSNSの一種として、歴史の中に分類されるのかな、と、考えている。「では、百年後のVtuberって、いったいどうなっているのか?」僕はVtuberには【_a_c_d 公的・貴族的想像力】の核がその鍵になるのではと思っているが、改めて僕自身に問いかけ、百年後の未来を想像してみたいと思う。一つ目はVtuberを屋号のように代々継いでいくというもの、二つ目はVtuber同士が連結しネットワークのように世界観を構築し、VR内に新しい国家のようにものをつくること、である。

 まず、一つ目。Vtuberを屋号のように代々継いでいく、である。届木ウカさんを例に挙げるなら、今の初代届木ウカを「届木・千慈(仮)・ウカ」とし、何らかの形で意識が変わった時(中身が変わる……?)、それは「二代目、届木・千慈(仮)・ウカ」となる。百年続けば十八代ぐらいまではいくだろうか。そのほかにも、ゲーム実況に特化した「届木・電慈(仮)・ウカ」や美容に特化した「届木・美ノ慈(仮)・ウカ」がいるかもしれない。そして、その各キャラクターすべてに共通するのが、「届木ウカ」という巨大で幽霊的な屋号なのである。この「巨大で幽霊的な」という部分に、僕はVtuberにないと考える「公的・貴族的想像力」を見る。そしてこの「届木ウカ」という屋号は新たなドラマを生む。「初代、届木・千慈(仮)・ウカ」は含蓄のある慎み深かったが、「二代目、届木・千慈(仮)・ウカ」はハツラツとしているが学者肌のようなところがある。初代の「届木ウカ」の芸を二代目の「届木ウカ」はどう継承していくのか。そして、周りの「届木・電慈(仮)・ウカ」や「届木・美ノ慈(仮)・ウカ」とどうコミュニケーションをとっていくのか、という、ドラマである。これは、代を経るごとに物語消費のデータベースとしてのおもしろさもでてくる。

二つ目。【_c_d Vtuber同士が連結しネットワークのようなものを構築し、一つの新しい国家】とする、というもの。僕はVtuberの特性を「私的・大衆的なもの」と見た。それに、国家のような、ネットワークのような連結=公的・貴族的想像力を持たせるというものだ。昨今では、芸能人や著名人といった一定の経歴=物語=スター性を持った人々がYoutubeに参入している。アニメキャラの図像と個々人の技能だけでは、元々物語をつくってきた芸能人や著名人に追いやられ、「アニメ図像Youtuberとそれを見る人々」とだけされてしまうのではないか、そんな気がする。もし、Vtuberの百年後を考えるなら、Vtuber同士で連結し、村や町や州のようなコミュニティをつくり、その中で独自の価値観=貨幣のようなものをつくり新しい経済ともいえるものを動かしているのである。そこには、芸能人や著名人とは異なる【_c_d 独自の価値観、新しい経済、物語=公的・貴族的想像力があるのではないか。貨幣の価値についてもまったく新しい通念】があるやもしれぬ。貨幣価値の混雑化があるやもしれぬ。流通している日本銀行券千円がVtuberの新しい国家でもまったく同じ価値であるのか。その価値基準こそが、VtuberがVtuberたる公的・貴族的想像力となっていくのだ。現今で一番近しいモデルの形をとっているのは、同人ゲーム「東方project」の二次創作界隈かもしれない。その世界は、【_a_c 現実の我々とは異なる価値基準の下に、「神話的呪術的思考」であるかのような独自の世界観】を構築している。

 ここまでもし読んだ方がいるなら、「百年後のことなんてわからないだろ勉強しろ、偉そうなことをいうな」と思うかもしれない。今の世界を構成しているのは意識を持っている我々であり、決して未来という歴史に屈服させられているんじゃない、と、思う。世界に対して想像力を働かせ、未来と向き合うこともでき、その積み重ねは未来をきっとニコニコ楽しい方向に導いてくれる、僕はそう思います。


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