第一章(2)
どこにでもいるある男の話。
電車が大学の最寄り駅に着いた。アナウンスが鳴り、ドア付近の乗客がホームに吐き出される。荷物棚から降ろしたリュックを背負い、人波に紛れて僕も改札を通る。外はぽつぽつと雨が降り出していた。リュックから折り畳み傘を取り出して開く。少し小さいが、体を濡らさないようにするには十分な大きさだ。ばらばらばら、と雨の音色が変わる。駅と大学を行き来するシャトルバスに向かう学生の群れから抜け出て、濡れたアスファルトを踏みしめて歩く。朝はバスが混むから、できるだけ歩くようにしている。やっとまともに息ができる。
雨で滑らないようにゆっくりと踏みしめながら傾斜の大きい坂道を登ると、子ども用の玩具のブロックを重ねたような形の校舎が顔を出す。いつもの癖で左腕を見るが何もない。普段着けている時計は部屋に忘れてしまった。仕方がないのでポケットからスマホを出し、時間を見る。8時55分。一限目の講義が始まるまであと15分。いつも通り、校舎の前にある自販機でブラックの缶コーヒーを買う。ぷしゅり、と蓋を開けて中身を飲む。冷たい苦みと香味が口の中に広がり、喉を伝って体の中に染み渡っていく。今日の一限目の講義は社会学だったな。
空になった缶を捨て、教室に入るとすでにたくさんの学生で座席が埋まっていた。空いている席を探す。前方三列、黒板が近い席しか空いていない。運が悪い。リュックを傍らに置き、空いている席に座る。ぎぃ、と鈍い音をさせて椅子が軋む。使い慣れたノートや筆記具を出していると、ドアが開き小柄な皺の多い教授が入ってきた。スーツからヒール、ストッキングまで同じ色の教授がコツコツと踵を鳴らして壇上に上がる。今日の色はショッキングピンクだ。講義で使う資料と出席表代わりの小さなコメント用紙が配られる。
チャイムが鳴り、講義が始まった。講義といっても、配られたプリントに書かれている内容を端から端まで時間が許す限り教授が読み上げるだけの、ただの朗読会だ。学生からの質問を受け付ける時間も、問題を解かせる時間も、近くの席に座っている人と意見交換をする時間もない。こんなやる気のない『先生』がいるということを、一年前大学に入学するまでは知らなかった。
活版印刷で作ったのかと思う程、細かい文字がぎゅうぎゅうに押し込められた、とにかく読みにくい紙を見る。毎週この日は目薬が欠かせない。A4サイズのプリントを読み、人の名前や数字、大事そうな箇所や重要そうなポイントに下線を引く。下線を引いた箇所を分かりやすいようにノートに書きだしていく。マイク越しでもぼそぼそと聞き取りにくい教授の声をBGMにしてノートの白紙を埋めていく。学期末にあるテストが終われば必要がなくなる知識でノートを埋めていく。ウェーバーやロックフェラーなど100年以上前の人や学説なんて、現代社会のどんな役に立つというのか。必修の科目でなければ、最初の講義説明の時点で履修登録をやり直していたのに。再び訪れた眠気を隅に追いやりつつ、シャーペンを走らせる。
突然、雨音の静けさが壊された。
ジーンズのポケットの中でスマホがビービーと耳障りな音が鳴る。教室のあちこちでも同じような警報音が鳴る。大雨や地震の際に各携帯会社が流す緊急速報のアラーム音だ。スマホを取り出してアラームを止める。どうやら県内で土砂災害が起きそうな場所があるらしい。教室の中にざわめきが広がる。後ろの方から「んだよ、びびったなぁ」なんて浮ついた笑い声の混ざった話し声が聞こえる。スピーカーからチッという音が響いた。一瞬、何の音かわからず、キョトンとして前方を見た。音は一度ではなく、チッ、チッと立て続けに音が鳴る。
「は?」
その時計の秒針のような音の正体が何か気づいたとき、思わず声が漏れた。教授が舌打ちをしていた。それから苛立ちの混ざった声でまたプリントが読まれる。いやいやいや。それはダメだろ。いくら煩いからって、教える立場にある人が学生に対して『舌打ち』なんてするなよ。キャリアも長いんだから、今までも似たような事があっただろうに。舌打ちに気づいた教室に再びざわめきが広がる。再び教室に舌打ちが響く。さらに、苛立ちを含んだ嫌味な声が聞こえる。言葉の内容は静かにするようにとの注意喚起だが、使われている言葉がよくない。「ペットの方があんた達より躾ができている」だとか、「バカじゃないんだから」だとか侮蔑の言葉が教授の口から吐き出される。言葉が耳に刺さるたび、不快な感情がふつふつと湧いてくる。確かに騒がしかったのはこちらだが、舌打ちも不要な罵声も『教員』としてはダメだろう。
しばらくその不快な言葉たちに苛立たしい思いをさせられていると、講義終了のチャイムが鳴った。チャイムに割り込まれ興が冷めたのか、罵声が止まる。しばらく互いをけん制するように学生も教授も黙りこくる。チッ、と吐き捨てるような舌打ちが一つ響く。「今日の講義は終わり。コメント用紙を提出しなさい」未だに苛立ちの混ざった口調で締めの挨拶がされる。
細い横罫線の入った葉書ほどの大きさの紙を引き寄せる。ここはこう思いました、この人の事は知りませんでした。当たり障りのない事を書く。名前を書く欄はないから特定されることはないが、下手に今日の事への不満や皮肉を書いて、来週機嫌が悪い状態で講義をされても面倒だ。
ある程度よりも少し多めに空白を埋め、席を立つ。紙を教卓の上に置かれたプラスチックのケースに入れて、足早に教室を出る。これ以上この場にいるのは、嫌だった。
教室から出たところでポケットから目薬を取り出し、ポトリと一滴ずつ注す。すぅー、と冷たさが視界を覆った。
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