第一章(1)
どこにでもいる男の話。
あぁ、嫌だ。
がたんがたんと電車が揺れる。隣に立っている女性の生ぬるい熱が厚さ数センチの空気の壁越しに伝わる。能面かと思う程白く塗られた化粧品の粉っぽい匂いと強すぎる香水の匂い、細いとは言えない体から漂う、使い古した揚げ油のような臭いが使い捨てマスク越しに鼻につく。辛うじて体こそ当たらないが、朝の満員電車に詰め込められ、服に臭いが染みつきそうなほどの近さに女性がいる。
あぁ、嫌だ。
ぼんやりと車窓を流れていく薄暗い海を眺めていると、突然体ががくんと揺れ右肩に何かがぶつかった衝撃と右足に痛みが走った。いぃ、と音にならない呻き声が喉から漏れる。異臭が数秒前よりも強くなる。電車がカーブに差し掛かり、がたりと車体が大きく揺れたのだ。ぶつかった方を見ると、能面が見えた。どうやら電車の揺れでバランスを崩した彼女にぶつかられたようだ。まだ新しい黒のスニーカーには踵の高いヒールによって泥のスタンプが付けられている。
じろりと抗議の視線を向けると、能面もこちらを睨みつけていた。何見ている、そこにいる方が悪いと言わんばかりにこちらを見ている。思わず眉が寄る。別に謝罪が欲しいわけではなかったが、そんな顔をされるとは思わなかった。ぐう、という音にならない抗議の唸り声が喉の中で鳴った。
視線を窓の外に戻す。どんよりと暗く灰色の雲が空を支えている。今朝は昨晩から続く雨の影響で、普段乗っている電車が20分以上遅れいつも以上に人が詰め込まれた箱に乗ることになったのだ。運行休止にならなかったのは不幸中の幸いだが、おかげで今はこの悪臭に耐えるはめになっている。窓の外が暗転し、半透明の男と目が合う。アイロンのかかった薄手のシャツ、寝不足で瞼の開いていない目、整髪料で整え損ねたのか右耳の上側の髪が少しはねている。ガラスに映る自分と目を合わせ、左手で髪型を整える。先ほどよりは多少整った髪になった。
あぁ、眠い。ぎりぎりと締め付けられるような頭痛がする。あの夢のせいで、きちんと眠れなかった。悪夢で削られた睡眠時間に関わらず、ジリリリリとけたたましい音を鳴らすアラームに普段通りの時間に起こされた。ただでさえ朝は時間が少ないのに、いつもよりも重たい頭のせいで部屋を出るのがいつもよりギリギリになってしまった。
窓の外に灰色の光が戻る。薄汚れた窓の外を見る。大きな鳥が翼を広げ、薄汚れた海と今にも泣きだしそうな雲の間を滑っている。あれは、なんという鳥だろうか。雀や鳩などではない、もっと大きな荒々しい何かだ。僕はその野生から目が離せなかった。風に乗り、この空は私のものだ、と言わんばかりに羽ばたくその姿が輝いて見えたのだ。その輝きを目で追っていると再び窓の外が暗転し、マネキンの姿が映った。車内放送が、もう少しで乗り換えの駅に到着することを告げる。社会の歯車たちが出荷されるまで、あと数分。持たれていた壁から背を離して右を向く。ぼんやりとアナウンスを聞き流しながら、そんなことを思った。
電車がホームに滑り込み、白や赤、黒、金、様々な色が速度を落としながら窓の外を流れる。目がちかちかする。ぷしゅぅと空気の抜ける音をさせながらドアが開く。人の群れに押し流され、ホームに吐き出される。車内に充満していた臭気に満ちた空気が、雨の湿気で冷えた空気に洗い流される。駅の階段を上り、乗り換え電車が待つ路線へ向かう。地方の田舎臭い街とは言え、県内すべての路線のターミナルになっているこの駅には様々な人がいる。べっとりと皮脂で汚れた清潔感のない髪をしたスーツ姿の男性、じゃらじゃらと中身の容量よりもたくさんのストラップをバッグに付けた品のあるとは言えない女性、この時世に何しているのかと言いたくなる観光用パンフレットとビールの缶を持った無精ひげの男性、大きく膨らんだスポーツバッグを足元に投げ散らかしてスマホでゲームをしている学生服の集団。ここは日本中の不快な人間を集めた蚤の市のようだ。
乗り換えの黄色い電車はもうホームに着いていた。座席はほぼ全て埋まり、ドア付近ではよれた服を着た清潔感のない男がスマホを眺めて笑っている。男が笑うたびに、ぽっこりと肉で膨らんだ腹がひくひくと揺れる。男の横をすり抜けるようにして乗車する。車内に視線を走らせて座れそうな席を探すが、見つからない。心の中で溜息をつき、アナウンスに従って中ほどまで進む。できるだけ不快でない人の前に立ち、吊革を握る。目の前に座っているスーツ姿の女性は仕事の疲れが溜まっているのか、真新しいビジネスバッグを抱き枕にして眠っている。大学入学当初から使っているリュックを荷物棚に置く。スマホをポケットから取り出して指を走らせる。今週の天気予報、人気のカフェチェーン店の季節限定商品の広告、不倫が発覚した芸能人の記者会見、武装勢力と政府との闘い巻き込まれた海外の街並み、流行りのコンビニ菓子のアレンジレシピ。どうでもいいか、どうしようもない内容の記事しか流れてこない。ぷるるるる、とかん高い音をさせながらドアが閉まり、電車が動き出す。僕は先ほどとは違うが見慣れた景色をぼんやりと眺め、目的地まで運ばれていく。眠気はもうすっかりなくなっていたが、頭の中はすっかり憂鬱さに支配されていた。とりあえず、これ以上憂鬱なニュースを見ないですむようにスマホをポケットの奥底に突っ込む。ふぅ、重量を持っているのではないかと錯覚するほど、重たい、重たい溜息がマスクを揺らした。
誤字・脱字などの間違い、感想などがございましたら教えていただけると幸いです。