プロローグ
ここはどこだ。
僕は、暗闇の中に立っていた。自分の手足すらろくに見えないほどの濃い影の中に僕はいた。ふらふらと辺りを見回しても何もない。生き物の気配どころか、石や水の存在すら感じ取れない。ただ墨汁をこぼしたような黒い空間が広がっている。
何かが奥底から体を蝕んでいる。何か良くないものが全身を染めていくのがわかる。規則的に鼓動する心臓が血管を通して、何かを隅々まで送り込んでいる。手も足も震えている。ぐらぐらと視界が揺れる。息が苦しい。きちんと呼吸をしているはずなのに、胸が締め付けられる。ここはだめだ。ここから逃げ出したい。でも、どこへ。
こつり、と音がした。後ろを振り向くと暗闇の中に男が見えた。濃い黒のスーツに赤いネクタイの男。てらてらと光る革靴を履いた男がゆっくりとこちらに進んでくる。顔はまだ見えない。暗闇の中にいるはずなのに、まるで暗闇でさえその男を避けているかのように、はっきりとその姿が見えた。
全身から熱が引いていく。やばい、やばい、やばい。あれはだめだ。逃げないと。恐怖で上手く働かない頭で、それだけがはっきりとわかった。男から背を向けて駆け出す。足が動かない。視線を下に向けると、影が足を飲み込んでいた。ずぶりずぶりと泥の中に足を入れているような感覚がする。こつり、こつりと靴を鳴らし、ゆっくりと男が近づいてくる。
足を引き抜こうともがいたが、足だけが動かない。引きはがそうと影に手を伸ばすが、ずるりと足ごと指がすり抜ける。足があるという感覚はあるのに、実体がなかった。叫んだ。助けてくれと、誰か来てくれと、これまで出したことがないほど大きな声で叫んだ。でも、声は聞こえなかった。声を出している感覚はあるのに、喉が震えている感覚はあるのに、声がなくなってしまった。声ですらない荒い呼吸音も聞こえなくなっていた。
足音が止まった。はっと顔を上げると目の前に男の顔があった。正確には顔ですらなかった。そこにあったのはニヤニヤとおどけた笑顔を貼り付けたピエロの仮面だった。黄ばんだ白い肌に、口紅で端が吊り上がるように赤く塗られた唇。青く塗られた目元はわずかに隙間が空いている。目が合った。隙間からわずかに覗く黒い瞳がじっとりと僕を見ている。目が笑っていた。人を嘲笑う嫌な目つきだ。
どすっ、と胸の中心に重い衝撃が走った。ゆっくりと頭を下に向けると、男が胸に何かを刺していた。ずるり、とそれが引き抜かれる。ナイフだった。映画やドラマで軍隊が使っているような大振りの鋭い刃が、どす黒い血で濡れている。なんだ、これ。熱い、熱い、痛い、痛い、痛い。男を押し返そうと手を伸ばすが、力が入らない。ずぶり。またナイフが突き立てられる。ずぶり、ぶじゅ、ずぶっ。男は何度もナイフを僕の胸に突き刺した。男がナイフを突き立てる度に、どろりと血が流れ出て、体から力が抜けていく。朦朧とする意識の中で男がケタケタと笑っている声が聞こえた。聞きなれた声だった。
ピシャ、ドゴォーン。
空を割るような轟音で目が覚めた。病気ではないかと疑うほど、心臓がドクリドクリと嫌な鼓動を鳴らす。薄い綿の寝巻が、冷たい汗でぐっしょりと濡れていた。嫌な夢を見た。普段は寝起きの悪い頭の中が、急速に晴れていく。ギシリと固いばねの音をさせるベッドから体を起こして、腰掛ける。ゆっくりと深呼吸をして、息を整える。微かに開いたカーテンの隙間から、稲光が差し込む。ビチャビチャと大粒の雨が薄い窓ガラスに叩きつけられる。そういえば夜中に台風が通過するとニュースでいっていたな。
立ち上がり、窓際まで歩く。バリバリバリ、と雷が空を引き裂く音がした。今のはかなり近かったな……。カーテンの隙間から外を見る。弱々しい街灯の光が窓に付いた雨粒に反射して、万華鏡のようになっている。また雷が鳴る。
カーテンを閉め、ベッドに戻る。ぼんやりと薄暗闇に包まれた天井を眺め、眠気が訪れるのを待つ。けれど、窓を叩く雨音と先ほどの悪夢のせいでなかなか寝付けない。明日も朝から講義があるのに、参ったな。ベッドの脇にある小さな机の上の時計を見る。2時15分。草木も眠る丑三つ時だが、僕は例外のようだ。
のそりとベッドから出て、立ち上がる。薄暗闇の中、手を伸ばして天井から垂れた紐をカチリと引く。一人暮らしの大学生らしい殺風景な部屋が柔らかい橙色の光に照らされる。ぎしりと床を軋ませながら、狭い台所に向かう。蛇口をひねり、傍らの水切り籠から出したコップで冷たい水を受ける。こくり、と飲む。程よい冷たさが喉を伝って胃の腑に広がっていく。少し落ち着いた。
空になったグラスを流しに置き、ベッドに戻る。薄暗い天井を眺め、先日ネットでみた寝付きが良くなるという呼吸をする。はぁー……、すぅー……、はぁー……。鼻で吸い、口から吐く。数分、ゆっくりと呼吸をする。頭の中がぼんやりとしてくる。瞼が重たい。あぁ、よかった。今度はちゃんと眠れそうだ。体に染み渡る睡魔に身を任せて目を閉じ、眠りにつく。二度目の夢は訪れなかった。