1-1 不純喫茶ルカ いらっしゃいませ
茶色く汚れたユニフォームから聞こえる投げやりな声援、気怠げな掛け声と共にロードワークを行う群、まだまだ楽器を吹かせてもらえず不服さが滲み出るマウスピースの音達。雑音と代わり映えしない風景を眺めながら、白い肌には少々刺激の強い西日感じつつスポーツドリンクの追加を行うのが、昨今の僕の日常だ。
「あ?スポドリ切れてるんだけど?」
『ご、ごめん!今調整しているから、ちょっと待ってて!』
「はぁ?小山おっせーよ、無くなる前に追加しとくもんだろ、ふつー」
「こっちはインターハイ前の大事な調整中なの、わかる?番号貰えない都落ちのおチビちゃんとは緊張度が違うわけ」
——インターハイなんて君たちが出れるわけないだろ。弱小校なのに。インターハイ予選の間違いだ。
そんな小言を言えるはずもなく、10人分のスポーツドリンクをカゴいっぱいにしながら小走りに持っていく。
『お、お待たせしちゃったね。スポドリできたよーっ、った…………あいててて』
カゴで視界からは確認できなかったが、何かにつまずきカゴから数本のドリンクが床を転がった。
「あーちっさすぎて気づかなかったわー、俺の長い足が引っかかっちゃったかなー?」
「「「あっはははー」」」
『・・・・・・ははは、そうかもねー。あ、はい、これ!』
「んだよ、まともにおつかいもできないのかよ、都落ちのチビちゃんは」
「次!あっちに転がってるボール拾って拭いとけ!」
ーーなんだよ。そんなにチビチビって。好きで小さいわけないのに。
僕ー小山葵ーは元々運動神経がそこそこ良く、それこそどんなスポーツでもちょっとやってみただけで学年トップになっていた。友達に誘われて始めたクラブチームのバスケットボールは、加入後すぐに4番のユニフォームを身につけ、小学生4年生にして全国ベスト8、翌年にはベスト4、そして全国制覇まで達成した。そう、昔は良かったのだ。運動神経とセンスによって実力は保障され、女の子からは黄色い声援やラブレターを、男からは羨望の眼差しを受けた。全てが上手くいっている、自分中心に世界が回っている、僕の人生なんてイージーモードなんだろう、そう思っていた。
ただ、中学に上がると世界はやがてハードモードへ変貌を遂げる。華々しい成績を持ってバスケ強豪校に入学。バスケの練習試合を主に繰り返していた小学生時代とは打って変わり、基礎体力の強化や体作りがメインの練習メニュー。元々センス頼りの動きをして試合を楽しんでいた僕にとって地道な筋トレやロードワーク、反復練習は苦行でしかなかった。やりたいことだけして全国制覇できたんだ、やりたくないことをする理由がわからない、そう思い練習メニューの手を抜いた。それでも9番のユニフォームは貰えたし、全国大会出場はできた。
しかし、学年が上がったとき僕はそれに気がついた。一つ、ハーフタイムまでしか体力が持たないこと。一つ、周りより身長の伸びるスピードが遅くなっていること。前者は基礎練習を怠ったツケだ、まだこれからなんとかすれば良い。後者は僕の努力ではどうしようもないのではないか。僕に黄色い声援を送った女子から上から見下ろされる。体重差も広がったからディフェンスで体が吹っ飛ばされる。尻餅をつき、派手にこけた僕に差し出してくれた手を払い除けた。当たった手の痛さより、彼らの哀れんだ表情が何倍も痛かった。
中学最後の大会、全国大会ベスト16。背番号は19番で出場回数は0回だった。
それでも過去の栄光を諦め切れなかった僕は、最高成績が県大会ベスト8の高校で今もバスケを続けている。僕の身長は中学の156cmで止まったままだ。弱小校なら天下を取れると考えたのが間違いで、無情にも身長差20cm以上は運動センスではカバーし切れなかった。さらに、小学、中学の成績が知られてしまい都落ちと揶揄される始末。自信は既に喪失し、今となってはそこまでバスケにしがみ付いてしまっている理由を考える思考力さえもなくなっている。周りから見上げられていた幼少期、今では精神的にも物理的にも見下されている。落ちぶれっぷりに生きてく気力さえも奪われていく。
ーーもういっそ死んでしまおうか。何ももう楽しくない、全ては身長のせいだ。この小さな体のせいで、バスケだけじゃなく人としても無価値のレッテルを貼られてしまっている。
転がったボールを拾い集めたところで僕のことは誰も見ていない。楽しそうな笑い声とボールの跳ねる音が遠くに聞こえる。素直にボール磨きをしようとしている自分に嫌気がさし、部活はまだ続いているが、体育館からそっと抜け出した。
ーーまだこんなにも日が明るいうちに帰路に着くなんていつぶりだろうか。せっかくだから寄り道でもしてみようか。寄る先の候補なんてないのだが。
いつもの帰路の商店街から少し外れて裏道を通ってみる。夜は街灯もなく暗くいため通らないのだが、今日はまだ明るい時間帯だ。まばらだが人も出ている。どこからかカレーの匂いがする、右手に見つけたネパール人が経営するインドカレー屋からかな。こっちからは生魚と酢飯の匂い、寿司屋の開店準備だろうか。ネオンな光が点滅している、休憩60分?・・・・・・あ、そういうホテルか。思春期には刺激が強く、顔を背けながら小走りに通り過ぎる。制服の女子高生が入り口にいた気がするが、きっと気のせいだ。
ふと気がつくと香ばしいコーヒーの香りが身を包み、思わず立ち止まった。
『不純喫茶ルカ』
かなりの築年数に見えるその小さな建物には、そのような看板がドアにかけられていた。今時あまり見ない赤いレンガとモルタルで作られた壁の半面にびっしりとツタが貼っている。入り口のドアにも壁の窓にも華美ではないものの淡い色の繊細なステンドグラスが施され、昔ながらの雰囲気を漂わせている。排気口が表通りに迫り出しているから、コーヒーの香りの正体はここからだろう。
店の入り口に置かれた黒板にはこのように書かれている。
『不純喫茶ルカ
営業中
あなたのお悩みに合わせたドリンクを調合します
ーどんなお困りごとでも一度相談してみては?ー』
怪しげMAXな謳い文句であるが、ほとほと疲れて判断力が鈍っていたこと、どうせ身長が伸びない悩みなんて解決しなかったとしてもサボタージュとしてクリームソーダを飲むのも悪くないと思い、僕はドアノブに手をかけた。カランカランと高めの軽い音を奏でて、扉は開かれた。
「やあ、いらっしゃい。よく来てくれた。初めてのお客さんだね?」
ああ、不純喫茶とはよく言ったものだ。蓄音器から聞こえてくるのはジャズでも歌謡曲でもなくボサノヴァ、ダークブラウンのアンティーク感満載のテーブルやカウンターに深紅のベロア生地を貼った椅子、小ぶりなランプが間接照明の役割をなし電球色で彩られた小さな空間、10人もお客は入れそうにない。ここまではよくある純喫茶の内装だ。しかし、この不純喫茶ルカのカウンターの後ろには所狭しとウイスキーの瓶が並べられ、中にはボトルキープもされている。カウンターの中にはコーヒーを入れるためだろうか、まるで化学の実験に使うような仰々しいガラスの機械が組まれていて中を黒い液体が流れている。何かいけないものを見てしまった、何か恐ろしいドリンクを飲まされるのではないか、一気に僕はドアを開けたことを後悔した。
さらに不純の極め付けは彼だ。出迎えてくれた店員らしき人物は、僕よりも小柄ーーというより幼い見た目であり、しかしとても10代とは思えない口振りと表情で話しかけてきた。大きな赤みがかった瞳、切れ長な目、少し長めの白髪ボブのこの人物は一見少女に見えるが、大きく手足を構える所作と口調から美少年なのであろう。
「どうしたんだい?そんなに緊張しなくてもいいじゃないか。何か悩みがあってこの扉を開いたんだろう?リラックスして話してみるといいさ」
下からずいっと美しい大きな瞳に眺められると、心の奥底まであけすけにされていそうで萎縮してしまう。何も言葉を発せずにおどおどしていると、美少年に手を引かれ、されるがままに店内に足を踏み入れてしまった。
カランカランカラン。ーーーバタン。高らかな音は重く軋むドアの閉まる音によって遮られた。