第一曲 Part.10 目
ラグナがさっと振り向いた。
だが感じたものは、安心感以上の恐怖だった。
「ラグナ・・・?」
亜里沙は呆然とラグナを見つめた。振り返ったラグナの長い前髪は、今は耳の後ろに掛けられている。この時初めて亜里沙は、ラグナの顔の全面を見た。
驚きのあまり、背後の怨霊も忘れて息を呑む。
今までどうして彼がその目を隠していたのか、分かった気がした。
右目は亜里沙と同じ、白地に黒い瞳。だが左目は、黒地に赤い瞳だった。
充血だけでは済まされない。異常なそれが、そこにあった。
「うぅ・・・」
ラグナは苦しそうに顔を歪めた。それすらも今は辛苦より不穏さが伺えて、亜里沙は思わず身構えた。
「うあーっ!」
突如ラグナが大声で叫んだ。左目が赤い光を発する。次の瞬間、彼の目から先ほどと同じ赤い光線が放たれた。
何の心の準備もしていなかった亜里沙は、運良く動くことが出来なかった。お陰で光線は亜里沙の肌すれすれを横切り、背後の怨霊に命中した。少し遅れてやってきた風圧で、髪がふわりと逆立つ。
後ろの両側からぽう、と灯りを感じた亜里沙が振り向くと、怨霊の体中を赤い光が巡っていた。怨霊が不快な多重音の悲鳴を上げてのた打ち回る。亜里沙はそろそろと後ろに下がった。
一際大きく鳴いたと思うと、怨霊は黙り込んだ。ぎろりと亜里沙を睨みつける。亜里沙は驚いて足元がぐらつき、あやうく転ぶ所だった。
心臓が止まりそうだ。いや、逆に今度はばくばくと音を立てて騒ぎ始める。
見たくなかった事実が、あり得ないけど本当かもしれない真実を引きずり出す。
花火のような音を立て、2匹の怨霊は散った。残るのはさっきと同じ、黒い無数の塵。
亜里沙はほっと息をついた。今になって、緊張のあまり肩が上がっていたのに気づき、しっかりと下げて落ち着ける。心の中を整理しようと言い訳しつつ、振り返って顔を合わせるのが気まずいように本能的に感じた。・・・ラグナと。
「うっ・・・」
後ろで呻き声が聞こえた。亜里沙は素早く振り向いた。身を強張らせ、警戒態勢を全開にして。
視界に映ったラグナは、左目を抑えて全身を震わせていた。亜里沙は目を走らせる。大丈夫、もう前髪は元に戻っている。
もう一度その目を見てしまったら、きっと確信を持ってしまう。
うろたえてラグナを見ていると、ラグナの膝ががくんと折れた。力無く、乾いた地面に頭から倒れこむ。亜里沙は息を呑み、恐れを忘れて駆け寄った。
「大丈夫?!」
「・・・・・・っ」
彼は、まだ意識があるようだった。歯を食いしばり、おそらく身体に掛かっているだろう何らかの負担に堪えていた。かなり辛いらしく、前髪の掛かっていない彼の顔の右半分には汗がじっとりと湧いている。
「ラグナ・・・っ」
心配しながらも、先ほどの目を怖れて背筋に寒気を感じた。当たり前のように背をさすろうと伸ばした手を、戸惑いのまま空中に迷わせる。
どうしよう、と唇を噛んだ。これでは、また怨霊が来た時に二人とも難なく襲われてしまう。
「・・・すいませ、ん。大分・・・疲れてしまった、ようです・・・・・・」
ラグナが小さく言った。その声もとても辛そうで、亜里沙は本気で彼が心配になってきた。
「辛い?頭痛い?横になって、しばらく寝てて。朝まで私が起きて見張ってるから」
「はい・・・」
ラグナは身体を仰向けにして寝転がった。右目の黒が、空の漆黒と混ざり合って不思議なコントラストを描く。魅入っていると、その瞳は自然と閉じられた。苦しそうに、深く、長く息を吐く。
大分落ち着いた様子を見て、亜里沙も安堵した。ラグナの横に腰を落ち着け、体育座りで夜空を見上げる。闇は、まだ濃い。当分明けそうになかった。徹夜に近いが、ラグナがこんな状態では亜里沙が起きているしかないだろう。いや、ラグナが元気だったとしても、時間をきっちり配分して見張りをしようという心持はある。あるのだが、やっぱり何もせず起きているというのは手持ち無沙汰で、それに加えて今まで受験勉強で休む間もなかったからか、今の自分にものすごい違和感を感じる。
ちらりと横で眠るラグナを見る。どうしても視線が行ってしまうのは、彼の寝顔のような右半分ではなく、前髪で大部分が覆われた左半分。
(さっきのあの目・・・)
黒地に赤の、彼の左目。
(あれ、怨霊の目と同じだった・・・)
怨霊が散る直前、恨めしげに睨んだあの目と、寸分違わず。
ずっと眺めているのは、寝ている人であっても失礼に値するだろうと思い、亜里沙は再び夜空を見上げた。この空を見ていると、ゆっくりと考え事が出来るような気がする。
(どういうこと?)
「不思議、ですよね・・・?」
掠れた声が地面の方から聞こえた。亜里沙は心臓が止まるかと思った。びくっと身体を強張らせ、勢いよく顔を向けた。
「起きてたの?!」
「まだ目が痛くて・・・」
弱々しく笑う顔はどこか痛々しい。彼の右目は、聞かなくても亜里沙の考えていることを見抜いていることをありありと表していて、亜里沙は気まずさに目を逸らしたかったが、好奇心が勝って動けなかった。
「そうですね。亜里沙さんも、死神の実態くらい知っておかないと、死後の世界に行った時住民に蔑まされてしまいますね・・・」
一人で納得したラグナを、亜里沙は穴が開くくらいに見つめた。
ラグナは亜里沙と直接目を合わせようとはせず、夜空をぼんやりと眺めた。それとも、まだ首を廻す元気がなかったのかもしれない。亜里沙の射すような視線を分かっていながら、ラグナは今日で一番穏やかな笑みを浮かべた。
「お話しましょう。死神の話を」