第一曲 Part.9 怨霊と死神
ゆっくりと、ラグナは左目に当てていた手を離した。もう痛みは引いたのだろうか。
「亜里沙さん」
突然ラグナが決然とした口調で言った。さっきまで穏やかだった彼しか見ていない分、亜里沙は反射的に緊張を覚えた。
「何?」
「しばらく、そのコートを着てここにいて下さい。危なくなったらすぐに逃げて下さい。出来るだけ大声を出して。助けに行きますから」
「ちょっとラグナ、何する気?」
「怨霊が僕達に気づきました。もうじき襲ってきます」
「えぇっ?!」
亜里沙は恐怖のあまり心臓が大きく鼓動を鳴らすのを聞いた。ラグナが亜里沙に踵を返して背中を向けた、その時だった。
それは、出た。人の悲鳴が何重にも重なったような不快な鳴き声を発しながら。月光に照らされた大地よりも純粋に闇に染まった体は、2本の腕と2本の脚を持ち、人に近い姿をしていた。だが人よりも2回りほど大きい背中は曲げられ、頭と思われるところからはサメに近い、キバが並んだ口が大きく開けられていた。眼球は飛び出すかのようだ。苦しみのた打ち回るような動作を繰り返しながらラグナに踊りかかる。いちいち聞かなくても分かった。これが怨霊だ。
亜里沙は声も出なかった。震える足で、立っているだけで精一杯だった。心臓が波打つ。息が苦しい。このままラグナが死んでしまうのではないだろうか。そうしたら次は亜里沙だ。そう思うと更に恐怖が募る。
ラグナは、亜里沙に背を向けた状態で左腕を上げた。そして、左目に掛かっていた長い前髪を後ろに払った。
それから後に起こったことは、なんとも説明しがたい不思議なものだった。後姿からだったので何とも言えないが、彼の左目と思われるあたりが妖しげな赤い光を発した。と思うと突然同じ場所から赤い光線が放たれ、今にも飛び掛らんとしていた怨霊の身体を貫いた。
だが光は所詮光、何の意味も持たない。人間的な思考に駆られて心なしか落胆していると、怨霊の体の内部が突如ぼうっと光った。それは、先ほどラグナが発した赤い光線と同じ色だったので、亜里沙はまさかと息を呑んだ。
そのまさかだった。次の瞬間、怨霊の体中に赤い光が火花のように現れ、そして消えた。怨霊の体の至るところを駆け巡り、内部に潜り込んで消えたと思えば別の場所から現れる。怨霊は再び、聞くに堪えない悲鳴のハーモニーを発した。それが一秒間続いた後、全ての光が怨霊の体内に収まった。怨霊も痛みが引いたのか黙り込む。だが反撃する暇も無く、怨霊は花火のように音を立てて飛び散った。
「・・・え?何?何が起きたの?!」
当然動揺するのは亜里沙である。飛び散ったそれらは既に塵となり、もはや怨霊の面影など欠片もなかった。手をかざすと、掌に塵が落ちてくる。それはまるで、雪のように。一体何なのだろうとまじまじと眺めていると、背後で悲鳴の共鳴が聞こえた。
恐る恐る振り向くと、そこに別の怨霊がいた。それも2匹。悲鳴のような声なのに、舌なめずりをして獲物の寸評をしているように思えるのは何故だろう。
亜里沙は本気で死の恐怖を感じた。横を向けば車が勢いよくこちらにに向かっていた、あの時と同じように。あの時は、悲鳴を上げることすら出来なかった。転んだ膝が痛くて、立つこともままならなかった。だが今は、守ってくれる存在がいる。反射的に亜里沙は叫んだ。
「ラグナ!」