20話:米軍ジェット機墜落事故
すると、約1500人から応募があり、実際に42人から皮膚の移植を受けた。一時はリハビリを行なえるまでに肉体的には回復するものの、精神的なダメージは計り知れず、最終的には精神科単科病院に転院した。
防衛施設庁の申し入れにより、母子の葬儀・告別式の時間帯には厚木飛行場の飛行停止の措置が取られた。被害者女性の名をつけた「カズエ」というバラが、園芸品種名として登録されている。
この知らせを聞いて雨宮は、横浜の栗山と木村さんに連絡をとると、木村さんが、飛行機墜落地点から1500メートルの所に住んでいて、大きな墜落音を聞いたと電話で話した。2人の子供を失った不憫な女性は、見たことがあると言った。
全身火傷により3歳と1歳の男児2名の兄弟が、翌日の未明までに相次いで死亡した事を知り、胸が張り裂けそうな気がしたと涙ながらに語った。そして、その後、その女性の狂わされた人生を思うと涙がこみ上げると語った。
我が子に会いたい一心で懸命にリハビリに励む母親に2人の子供は、事故の翌日に死亡事ことは伝えられず、真実を知らされたのは、事故から4年4か月後の1982年1月26日、被害女性は、心因性の呼吸困難で死亡。NHKアナウンサーの加賀美幸子は、涙ながらにニュースを伝えた。
やがて、1978年が明けた。木村さんが、人生、いつ何時、何が、起こるか解らないと思うと、その後、数ヶ月は、以前のように気軽に、外に出かけられなくなったと語った。
1978年8月のお盆休み、雨宮ほたるは、昨年結婚した妻の朋子を連れて、雨宮の故郷、長野県上田大屋の実家へ出かけた。そして、雨宮ほたるを、小さい時から可愛がってくれた雨宮善蔵と、とめさんの住む離れに行った。
そして、離れに行き、お元気ですかと挨拶すると、雨宮善蔵と、とめさんが、まーあがれと言って、雨宮ほたると雨宮朋子を部屋に招き入れた。雨宮とめさんが、お茶を入れてくると言って台所へ向かった。
その後、雨宮善蔵が、トイレに出かけた。この時、部屋の奥の襖「ふすま」が、少し空いていて、何か妙な屏風のようなものが見えた。そこで、朋子さんが、好奇心に負け、もう少し襖を開くと不思議な模様の小さな屏風「びょうぶ」か、衝立「ついたて」が、見えた。
雨宮朋子さんは、大学で日本の考古学を勉強していたので興味を持って、それらを見つめた。これって、もしかしたら、陰陽師が、占いに使う道具みたいねと言うと、雨宮ほたるが、慌てて、襖を閉めた。
雨宮ほたるが、これは、一族以外に見せるなと言明されてると、注意した。しかし、朋子さんは、何か、わくわくするなと、笑いながら小声で話すと、門外不出の大事なものだと言われていると答えた。
そして、雨宮とめさんが、お茶が入ったわよと持ってきてくれた。雨宮善蔵さんも、トイレから帰って来て、一緒にお茶を飲んだ。雨宮善蔵さんが、あんなに小さかった、ほたるが、結婚か、我々も年をとるわけだと豪快に笑った。
また、夏の暑い時には、上田やここから山道を上がるとラグビーで有名な菅平高原があり、あそこは、標高2千メートルで、涼しいから、最高の日承知だと、語った。そんな話をして15分位して、どうも、ごちそう様でしたと言い失礼した。
帰る途中で、あの襖「ふすま」の奥、是非、一度見てみたいわと、朋子さんが、告げた。祖父母が、亡くなったら見せてあげられるが、生きてる間は、見せられないだろうなと語った。
その晩、雨宮家の母屋の10畳の和室に案内され、ここに布団を2組持ってくるから、寝室として使ってと言われ、了解した。その晩、信州そばを出してくれ、大根擦りのような薬味が、小皿に置いてあった。
面白そうなので、そばつゆに、たっぷり入れて、蕎麦を口に入れると、思わず、辛いと言った。すると、両親が、そりゃ入れ過ぎじゃと笑った。これは、辛み大根と言って、少し薬味としているんじゃと教えてくれた。
その後、地酒を出してくれ、冷で飲むと、美味しいと言った。やがて食事を終えて、風呂に入って、床に入り、離れの奥の間の話を朋子さんは、ほたるに質問した。それに対し、小さい頃は、入れさせてくれたが、不気味な古い書物ばかりで独特のにおいがした。




