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第九-出会い-

「ではここに、記入お願いします。パートは、分かりますか?」

「はい。アルトです」

「アルトは、舞台に向かって、左側の方の椅子に座ってもらえますか」

 咲奈恵は、受け取った練習予定表と楽譜を手に、会場に足を踏み入れた。

 そこは区の体育館で、私鉄と地下鉄を使ってやって来た、初めての場所である。ざっと見渡すと、椅子が前から会場の中程まで並んでいる。バレーコート2面分は取れる体育館だから、その半分でもきっと軽く300程の席数があると思われた。

「こんなにいるんだ……」

 咲奈恵は小さく独りごちながら、指示された通り、舞台に向かって左側の女性の集まっている区域に足を進める。集まっている人々を見れば、それこそ、老若男女、中学生から80歳くらいの人までいる。誰に見られているわけでもないのに、小さな緊張感と共に、真ん中より少し前寄りの、1番端に座った。1つ開けた隣から、何人もの席が取ってある。きっと、どこかで誰かとダベッているのだろう。練習開始までには、まだあと30分程ある。


 今日、咲奈恵が来たのは、「第九」の練習会場だ。合唱連盟主催の、年末に2日間連続で行われる演奏会に向けての、練習の初日である。咲奈恵は、「第九」は7年振りだ。音大生だったころ、教授が合唱の指導者も兼ねていたため、いつも声楽科の在校生は駆り出されていた。それ以来である。


 しかも咲奈恵は今回、東京から地元名古屋まで通っての「個人参加」である。

 今や「第九」は、専門知識などない多くの一般の人々が歌える曲になった。12月にもなると、毎年日本全国で150回を超える演奏会が開かれている。今ですらそうなのだから、バブルの時代はきっと2倍ほどあったのではないかと思われる。「第九」合唱人口は、確実に増え続けている。

 ただし、やはりそこは素人の集まりになるため、音楽の質にバラツキが出てしまう。簡単に「第九」というが、れっきとしたベートーヴェン作曲の交響曲なのだ。技術的にも、実はとても難しい曲なのである。

 そこで、主催者によっては、合唱団員をオーディションで選出するというところも現れ始めた。ここの「第九」も、来年からはオーディション形式になるらしい。咲奈恵は「個人参加」できる最後の年に駆け込み参加をしたのだ。

 

 咲奈恵には6歳上の兄がいる。そして、今年小学校4年生になる女の子がいて、咲奈恵はずっと可愛がってきた。その姪が、ついこの間、咲奈恵が「歌」を歌っていたことを知り、是非聞きたいと言い出したのだ。綺麗なドレスを着た写真を見て、きっとお姫様の役か何かと勘違いしたに違いないのだが、関心を持ったのなら、せっかくだからと「生」の音に触れさせるべく、この「第九」を選んだ。

 咲奈恵は今、ソロでの音楽活動をしていない。歌っている姿は、もう合唱でしか見せてあげることはできなくなった。


 練習では、もはや音取りやドイツ語発音の説明などはしない。「個人参加」にしろ、合唱連盟に所属する合唱団の「団参加」にしろ、「第九」を歌ったことのない初心者は、参加できない。それは事前の参加要項によるもので、万が一偽って参加したとしたら、この練習にはついて来られないだろう。初めての練習にも関わらず、曲の1番難しい個所から始まった。合唱では唯一の「Adagio(アダージョ)=ゆっくり」の箇所である。

 合唱指揮者は60代の須高という男性で、名古屋の合唱界で彼を知らない者は、モグリと言われている。ちなみに咲奈恵は、高校まで名古屋にいて音大を目指していたので、もちろん彼のことは知っている。

 伴奏者は30代の華奢な女性で兼子さん。これが苗字で珍しい漢字だ。彼女はこの指揮者が指導する男声合唱団の伴奏も務めている。どちらも柔和な顔立ちで、その指導にしろ伴奏にしろ、荒立ったところは全くなかった。


 それが一変したのが、演奏会本番の指揮者、仲本の練習が初めて行われた時だ。

 「第九」はあくまでも交響曲だ。オーケストラ演奏のための曲である。そこに合唱が加わっているだけで、曲名にもわざわざ「合唱付き」と記されている。従って、合唱の指導をする合唱指揮者と、オーケストラの指揮をする2人の指揮者が存在する。日本では、オーケストラの指揮者をイタリア語でマエストロと呼ぶことも多い。もちろん、合唱指揮者は、このマエストロの指示の下、合唱を仕上げていくという立場になる。

 今回のマエストロ仲本は、東京から招聘(しょうへい)している。合唱だけの練習に彼が参加するのは、多分2回あればいい方だろう。それ以降は、オーケストラが入った練習になる。数少ない練習回数で、マエストロの意思を汲み取り、彼の望む「第九」に仕上げなくてはならない。だからこそ練習は、誰もが緊張する。それは、合唱団だけではない。


「もう一度「『E』から」

 ピリピリした空気の中、練習が始まってから20分くらい経った頃だろうか。マエストロの指示により、練習番号「E」の出だしであるバスの音を、伴奏の兼子がポンと弾いてくれた。それは、合唱の練習ではごく当たり前のことで、逆にこれをされないと、合唱の面々は音が取れず歌い出すことができない。ところが、これを聞いたマエストロが怒り出したのだ。

「そんな余分な音は、要らない!」

 突然なことで、皆がギョッとした。もちろん一番驚いたのは兼子で、思わず「すみません」と言ったが、彼女を無視するように仲本は練習を進めていく。合唱団の皆も訳が分からなかったが、マエストロが棒を上げている以上、歌わない訳にはいかず、そのまま歌い続けた。

 次にそれが起こったのが、休憩を挟んだ後半のできごとである。男性合唱の部分を練習していた時で、マエストロが「もう1度最初から」と言ったので、皆が構えたのだが、兼子は合唱団の音を、提示しなかった。もちろん、先程の(てつ)を踏まないためだったのだが、今度はそこを怒った。

「音! 合唱が入れないだろ!」

 兼子は慌てて、男声3声の音を弾く。彼女は明らかに動揺していた。見ていて、咲奈恵も可哀想に思っていた。「どうせいっ、ちゅうねん」と内心マエストロに悪態をつきながら、何とかこれ以上機嫌が悪くならない様にと、祈る思いだった。

 そして極め付きが、フーガ(輪唱)部でのことだ。

「遅い!」

 と怒鳴った。咲奈恵は楽譜に目を落とさず、マエストロをしっかり見ていたから分かるのだが、彼が手を上げたほんの一瞬、時間にして1/32拍にも満たない、要するに本当に一瞬、ピアノが入るのが遅れた。

 棒を下ろしてしまったので、全ての音が止まる。兼子もどうしたらいいか分からないだろう。小さくまた、「すみません」と謝った。そこで彼は、言い放つ。

「これだから、県芸は!」

 シーンという効果音があるかと思うほど、会場全体が凍り付いた。

 咲奈恵は「何!?」と、もう一度マエストロの言った意味を考えた程だ。「県芸」とは「愛知県立芸術大学」のことである。この地方では、1番トップの芸術大学で、音楽学部だけでも多くの有名音楽家を輩出している。咲奈恵も東京の大学がダメなら、入ろうと思っていた大学だ。それを名指しでけなすとは、一体何事なのだろう! 単なる「不機嫌」では済まされない暴挙である。と、きっとここにいる何人もが腹の中で思ったに違いない。

 しかし、そんな皆の思惑など、どこ吹く風のごとく、仲本はどんどん練習を進めていった。なんとか練習が終了した時の兼子の顔は、ゲッソリと憔悴しきっていた。


 練習後の帰り際、会場の後ろの方で男性が2人、立ち話をしていた声が咲奈恵の耳に届いた。

「出たよ、『これだから、県芸は!』」

「あれ、女性の県芸出身ピアニストには必ずやるよな」

「そうなんだよなぁ、訳わからん」

「ほんと、ほんと」

 咲奈恵はこのマエストロが、嫌いになった。


 今日もマエストロ練習は体育館だ。前回の練習から2週間経っている。その間に1度、マエストロの指示を復讐すべく、合唱団だけで練習をこなしている。もちろんその時は、合唱指揮者は須高で、伴奏は兼子が担った。


 ピアノに座った神崎は、仲本の棒を体全体で捉えながら、耳は合唱団の方に向いていた。

 指揮者とピアノは、体育館の舞台の上にいる。かなり高い位置なので、合唱の人々を見下ろす形になる。そしてそれは、良い声を聴き分けやすくなるという「おまけ」が付いてくる。

 いい声は、上に立つ。「匂い立つ」の、「立つ」である。響きがフワッと上に広がる。「声が浮いている」わけでも、「大きく張り上げたから」起こる現象でもなく、やはりそれは、「マスケラ」を通り、「プント」の響きになった声でしか成しえない現象である。つまり、訓練された良い声、ということだ。


 今日はマエストロがいるので、出演者全員が参加しているはずだ。この練習に参加しなければ本番には乗れないと、主催者から聞いている。今回の合唱団はオーディションをしていないメンバーだと聞いていたのだが、テノールに1人、アルトに1人、良い声がいる。少しこの練習に飽きてきた(失礼)、慣れてきた神崎は、ピアノを弾きながら声の主を探していた。

 

 テノールはすぐに見つける。一番前にいる彼だ。テノールにしては背が高い。日本のテノールの場合、ほとんどは170cmに手が届かない。

 声帯は身長に比例するといわれる。声帯が薄くて短ければ、軽い響きの高音が出る。つまり、テノールは大概背が高くない。もちろん、身長が高くても声の響きがテノールな人も例外として存在するが、基本的には、身長の高い人は声帯も長くなるため、低く太い声のバリトンかバスになるのだ。

 昭和の後期に活躍した世界3大テノールを指して言うならば、パバロッティが例外で、カレーラスはそんなに背が高くなく、ドミンゴはもともとバリトンとして世に出ている。喉仏によって声帯は長さが変わるため、男性はこの例外も多い。

 

 そんな彼は、まだ大学生かと思われる年齢で、こちらも綺麗に「マスケラ」を掴んでいる。ちなみに「マスケラ」とは声の響く場所のことで、顔の前面の眉間の辺りのことをいう。抜けた響きなので、もし音大生でないとするならば、ちゃんと個人レッスンを受けているのだろう。テノールなので、エキストラかもしれない。なかなかいいテノールは少ないし、いいテノールが「第九」に、参加費用を出してまで歌おうとはしないので、大抵エキストラを呼んだりするのだ。

 あぁ、もしかしたら、マエストロから拾ってもらえるのを、待っている口かもしれない。気紛れな指揮者は、たまにこういう個人を引き抜いて、世に出させることがあるからだ。

 しかしこの彼の場合は、もう少し声が熟成することが必要だろう。というか、あのマエストロの「好み」ではない。だから残念ながら、今回、声は掛からないだろう。


 さて、もう1人はアルトだ。ゆっくりと、見渡す。ピアノは、舞台の下手に置かれているので、神崎はちょうどアルトの真正面の舞台の上にいる。だから、探そうと思うと顔を真横に向けなければならない。しかも、「第九」の演奏会ではままあることだが、アルトはこれでもかと言う程、参加者が多い。今日のこの段階で80人はいるだろうか。

 つまり、まぁ、探しづらい。けれど、さっきから時々覗くその声が、どうしてか気になって、探すことをやめられないでいた。

「この声、聴いたことがある気がする……」

 真ん中辺りだ。指揮を見ながら、ピアノを弾きながら辛抱強く待って、pp(ピアニッシモ)の高い長音符の場所に差し掛かったところで、それが顕著になった。E(ミ)の音に入った途端、響きが浮き立ってくる。彼女か!

 この声、聴いたのはいつだったか……。ふと、メロディが蘇る……。


 ――Voi che sapete che cosa e amor……


 モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」の中の、「恋とはどんなものかしら」だ。ケルビーノという青年の役を、アルトが歌う。いわゆる「ズボン役」である。ケルビーノは「女性を知らない青年」という役柄で、それを象徴するために、テノールより高いアルトの声域で作曲されており、現在では男性が歌うことはない。

 ちなみに、成人した男性と女性では、実は声が1オクターブ違う。だから人は、声だけ聴いて男女の区別がつく。意外と知られていない豆知識である。

 アルトのアリアの中では、1番有名な曲の1つといっていい。昔の「キューピー3分クッキング」の曲と言えば、分かる人には分かるだろうか。現在は、イェッセル作曲の「おもちゃの兵隊の行進」なので、知らない人は知らない曲である。

 

 あまりにじっと見つめすぎていた。彼女が指揮を見上げた時、目が合った。すぐに譜めくりが必要な場所になってしまったため、楽譜に視線を戻したが、確かに目が合った……。

 この時神崎は、とても不思議な感覚を味わった。


 彼女だけがぽっかりと、暗闇の中に浮かび上がっているかのように見えたのだ。

 

 マエストロが棒を下ろし、口頭での指導が始まったため、ピアノから完全に意識を離すことができて、しっかりもう1度見た。彼女は指揮者の言う事に耳を傾けていて、楽譜に書き込みなどをしている。けれどその姿は、やはり、ふわりと柔らかい光に包まれているかの様で、目が離せない。彼女の姿全体から意識が顔に戻った時には、こちらを怪訝そうに見ている彼女の目が、そこにあった。


 何? 私……? 咲奈恵はじっと自分を見つめている伴奏者を見つめ返していた。最初は自分ではないと思った。しかし、明らかに視線が交わっている。私、何かした? いかにも不服そうな、1人だけ間違っている時などに向けられる非難の目を、今じっくりと、あの伴奏者から向けられている。


 今日から伴奏者が変わった。30代後半くらいの、優しそうな顔立ちの男性である。先週までの「県芸の彼女」から、マエストロ指名による彼になったと、今日受付で役員たちが話していた。やはり前回のあの発言では、あのマエストロなら外すだろうと思っていた。

 別に下手なわけでもなく、間違えたわけでもなく、ただほんの一瞬、マエストロの棒に遅れて入っただけで、この仕打ちだ。しかも、あの時の音の始め方には、そうなるだろう悪意さえ感じられ、咲奈恵は本当にあのマエストロが嫌いになった。

「兼子さん可哀想に……」

 1人文句を言ったところで、この決定は覆らないだろう。あぁ、やだやだ。と思っていたのだが、確かに今日の彼の伴奏は上手いと言わざるを得ない。よくありがちな、テンポとタッチが正確なだけの、ロボットの様な伴奏になるわけでもなく、色があって、音楽がある。伴奏などではなく、彼が弾くピアノ曲を聴いてみたいと思わせる程で、なのにそんな実力が垣間見えても、マエストロの棒には決して逆らわない。

 ところがどっこい良く聞いていれば、実は彼が合唱を引っ張っている時が何度となくあることに気づく。彼は単なる伴奏者ではなく、コレペティなのではないだろうかと感じていたのだが……。

 何、一体! 私、間違った音でも出した!? 目で訴えれば、知らぬ存ぜぬと、彼は元の姿勢に戻っていた。


 休憩時間になり、隣の席の女性が話しかけてきた。50代位の、黒髪さらさらショートヘア、少しぽっちゃりした体形の女性である。前回の練習の際、たまたま隣り合わせ言葉を交わした。

「学校の音楽の先生か何か、やってらっしゃる?」

 という会話から始まり、彼女の話し方があまりに知的で、咲奈恵も興味を持った。

「いいえ。でも、歌は大学で……」

「あら、音大出身ですか。私、宮瀬といいます。よろしくね」

「真野です。宮瀬さんこそ、何か教えていらっしゃいますか?」

 そう、教育者の匂いがプンプンしているのだ。もしくは、大学の教授かもしれない。

「あら、とんでもない。私、給食のおばさんですよ」

「……」

 後で分かるが、給食センターで栄養士として働いているとのことだった。しかし、それは現在のことで、若い頃は、きっと違う職業についていたと思っている。はっきり教えてくれないところが、逆に物語っていた。

 そして今日、彼女はわざわざ私を探して隣に座った。そんな彼女とお話しようかと声を掛けたら、応えようとした彼女が、私の後ろの誰かに視線を釘付にしている。気のせいか、その目がワクワクしている様にも見える。彼女の知り合いでも来たのかと思い、咲奈恵は振り向こうとしたところで、後ろからグッと肘を掴まれて、振り向かされた。


「君、何でこんなところで歌ってるの?」

 神崎が冷ややかな目をして、そこに立っていた。掴まれた腕はすぐに放してくれたが、不愉快そうな顔は、見るからにこちらを見下している目である。

「何、でしょうか……?」

「君、国立(くにたち)のメゾでしょ?」

「……えっ」

「どうしてあの時、あの音、8分音符にしたの? あれは、良くないと思う」

「……」

 咲奈恵は、全てをすっ飛ばして質問してくる神崎の顔を見たまま、言葉が止まってしまった。「良くない」と言ったその言葉通りに、少し歪められたその顔は、近くで見てもやはり、繊細そうで優しそうな造形をしている。

 しかし、全体的なバランスからいうと、少し大きいと思われる鼻が、実はかなり自己顕示欲が強いのではないかと想像させた。咲奈恵は割と「人相」にも詳しい。

 ……あれっ? どこかで、見たことがあるような……。


「……あの時、とは?」

 (いぶか)しそうな目でこちらを眺める彼女から視線を外せずに、神崎は立ち尽くす。さっきの柔らかな光の中の彼女を見た時の驚きが、まだ心を支配していた。が、咲奈恵から返ってきた言葉に、神崎は我に返った。

「あぁ、ごめん……。君の声聞いたら急に思い出して、理由、聞いてみたくなった」

「……」

 だから、あの時とは!? あれとは? 言葉が足りない。やはり人相通り、この人は自己チューか? それとも音楽家によくある、思い込みが強すぎるタイプなのだろうか。

「真野さんったら、神崎先生とお知り合い?」

 隣から宮瀬が楽しそうに声を掛けてきた。

 えっ、「神崎」って、もしかして、あのコレペティの神崎貴雄? あぁ、そうか。だから、どこかで見たことがある気がしたのか……。と、感心している場合ではない。宮瀬が見るからに、興味津々の顔をしている。

 宮瀬の言葉に、神崎が瞬きをする。咲奈恵は改めて神崎の顔を見た。

「いや」「いえ」

 2人同時に声が出た。それを聞いた宮瀬が、ぷっと笑う。

「先生〜、知り合いじゃないなら、ナンパかしら?」

 ニコニコしながら言う宮瀬の、からかう言葉を理解した途端、神崎は少し顔が赤くなった。

「いや、えっと……、そうではなくて……」

 咲奈恵は、さっきまでの尊大とも思える音楽家の顔から、急に素に戻ってしまった神崎を見て、宮瀬と一緒に笑ってしまった。笑いながら、質問を投げかけた。

「先生、私をご存じなんですか?」

「ああ。前に君の演奏、聞いたことがあったんだ……」

「えっ、いつですか?」

「少し前だよ。君、モーツァルトの「Voi che sapete」歌ったでしょ?」

「……どこででしょうか? ケルビーノは、結構あちこちで歌ったものですから……」

国立(くにたち)の定期演奏会で」

「……」

 少し前って……、もう7年も前のことだ。音大の3年の時の、定期演奏会だ。

「君みたいな声の人が、どうしてこの演奏会に出るのかと思って……」

「……」

 咲奈恵は「この演奏会」という意味を正しく理解し、これ以上、皆の耳があるところで話を続けてはいけないと感じて、神崎を外に連れ出すことにした。

「先生、私、喉が渇いて……。休憩、ご一緒しませんか?」

「え……、ああ」

 成り行きを楽しそうに見ていた宮瀬に「ちょっと行ってきます」と言って席を立った。神崎は言われるままに、横に並んで歩き出す。しかし行き先が、彼にとっては自然な行動なのだが、関係者用の休憩室に向かおうとするので、咲奈恵は声を掛けた。

「先生、私はそのお部屋には入れないので……」

「あっ、そっか。ちょっと、待ってて」

 関係者用というのは、指揮者や合唱指導者、伴奏者に、運営スタッフのためのもので、一般の参加者は当然含まれない。中ではきっと、彼らのために用意されたお茶やジュースがあると思われた。少し待っていたら、神崎は両手に紙コップを持って出てきた。

「はい、どうぞ」

 当たり前のように1つ差し出され、咲奈恵は恐縮する。お礼を言い受け取って、2人でロビーの片隅に移動した。

「先生、私の声、そんなに目立ちますか? 皆と一緒に歌っていては、マズいんでしょうか……」

「ん? いや、マズくないよ。何で?」

 目が、泳いでしまった。何でって……。

「あの……、いくら先生の耳がいいからって、これだけ多くの人の中で、私の声が分かったんですよね……。やはりそれは、よくないんじゃないかって……。だから先程の練習の時も、先生こちらを睨んでらっしゃったのかと思って……」

「いやいや、そうじゃないよ。すまなかったね。睨んだつもりはなかったんだが……」

「そうではないですか!? じゃ、歌ってても大丈夫ですか?」

「大丈夫だけど……」

「……だけど?」

 真剣な目で聞いてくる咲奈恵の目を見て、やっと神崎は冷静な自分が戻ってきた。衝動に任せて、休憩になった途端、彼女に話し掛けてしまったが、確かに彼女は何も悪いことはしていない。ただ……。そうだ、ただ、

「もったいない、……と思っただけだ」

「……」


 咲奈恵の胸が、トクンと打った。何度か瞬きをして、静かに息を整える。息は整ったが、鼓動は整ってくれない。

「あの……」

「君の声は、きちんと「プント」の響きだから、遠くまで届くんだ。だから、見つけることもできた。なのに、どうして合唱なんてやってるのかと。しかも、こんな素人の集まりに……」

「暮れの『第九』に出たいなって思いまして。姪が見てみたいって言うものですから……」

「……あぁ、そういう理由」

 納得するように頷く神崎は、今は優しく微笑んでいる。やはり、きっと素の彼は、とてもやさしい性格だと思われた。ただ、やはり「こんな素人の集まり」と言い切ってしまうところに、音楽家としての傲慢さを垣間見せている。

「先生、凄い記憶力ですね。7年前ですよ、ケルビーノ」

「声や音は忘れないよ。顔は忘れてもね」

「顔は、忘れてましたか……」

「うん」

 素直に答えたつもりが、なぜだか咲奈恵が少し俯いて苦笑した気がしたので、神崎は不思議な衝動に駆られる。慌てて言葉を繋いだ。

「……でも、あの時の歌の印象と共に徐々に思い出したよ。ドレス、水色だったよね」

「あ〜、はい。そうでした! 懐かしい〜」

 嬉しそうな顔に戻ったのを確認して、神崎はホッとする。あの時、思ったこと……。

「よく似合ってた」

「……ありがとうございます」

 そう、よく似合っていて……、綺麗だった。

 

 音楽家に、「綺麗だった」という感想は、実はとても嫌われる。何故なら、彼らは決して容姿で才能を評価されるつもりはないからだ。それなのに、「綺麗」という言葉が最初に来るということは、「音」や「声」や「表現」は、つまり、音楽そのものは大したことがなかったと言われているようなものである。褒めたつもりが、傷つける。

 神崎もそこのところは良く分かっているので、決して口には出さなかった。が、抱いた印象をなかったことにはできないのが、男としての性であろうか。

 実際、世に出る声楽家は、男女問わず、大抵見た目も美しい。逆にそうでなければ、コンクールなどでどんなに優秀な成績を残そうが、レコード会社から声が掛かることはない。オペラのソリストである以上、そこは重要な要素である事は、誰もが認めている事実である。

 

 咲奈恵が、「似合っていた」という言葉に、少し恥ずかしそうな反応をするので、さっき感じた衝動が、更に増した。

「で、どうして、あの8分音符?」

「……e in un momento torno a gelar?」

 咲奈恵は小さな声で歌って確認する。神崎は頷いた。

「気持ちが勝ってしまって、理性を欠きました」

「凍っちゃった?」

「そうです。ふふっ、ダメですね。楽譜、変えちゃ」


 この曲は、恋を初めて体験したケルビーノ青年が、貴婦人達の前で「今、私の心にあるものは、恋というものなのでしょうか?」と問いかける歌である。そして、自分の心に起こる様々な躍動を、言葉にして説明するのだ。神崎が問うた場所は、そんな中の一節で


 ――私の身体は凍り、それから魂に火が付くのです

 ――そして再び、身体は凍り付くのです


 と歌う場面である。あの時咲奈恵は、「凍り付くのです」の最後の4分音符を、半拍短く終わってしまったのだ。「凍り付く」という感情を体現してしまい、音が疎かになった。

「そうだね。4分音符じゃなきゃ、音楽が止まってしまう」

「はい。反省してます」

 そう朗らかに笑う咲奈恵を見て、神崎は思わず念を押す。本当に反省しているのか?

「ダメだよ。分かってると思うが、全ての音には意味がある。次は、しないように」

「はい、先生。でも、大丈夫です。もう、歌うこともありませんから」

「どうして? ソプラノに転向した?」

「まさかぁ。もう、ソロ活動はしてないんです」

「……」

 また朗らかに笑って紙コップに口をつける。何でもない言葉のように君は言い放ったが、それはとてつもない威力を持っている。

「どうして!? いい歌手になるだろうって、あの時も思ったのに」

 更に笑いながら、「いやいや」と手を振って否定している。笑い事なのか? 君にとっては……。

 先程からずっと神崎の心を占領していた「この子には嫌われたくない」という衝動が、あっという間に次のステージに入る。

 

 君のことを、知りたい。

 

「君、名前は?」

「あっ、申し遅れました。真野咲奈恵です」

「僕の……」

「神崎先生、そろそろ休憩が終わります」

 スタッフルームから、関係者一同がぞろぞろ出てきて、体育館に移動し始めた。先頭にいるのは、もちろん仲本だ。その中の1人に声を掛けられ、神崎は慌てる。

「あっ、はい。……じゃ、真野さん、また」

「はい。お話、ありがとうございました」

 小さく頭を下げる咲奈恵に心が残ったまま、とにかく伴奏に戻った。

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