夜明けの襲撃者
――ずっと、ここに居てはいけないのかな?
常に誰かが傍に控え、動きや言葉にも気をつけなければいけないあの場所よりも今滞在している母の実家のほうがよほど居心地がいい。気兼ねすることなく外を出歩いたり、駆け回ったり、大声で笑いあったりして過ごせる。
課題として言付けられた『宿題』に文句を言って八つ当たりしてもいいし、多少のいたずらも黙認だ。
少しでも変わったことをすれば、すぐさま立場にあった振る舞いとは、と長いお説教が始まりできた兄と比べられるよりも、初めて顔を合わせた従兄弟たちの方が分け隔てなく気さくに話しかけてくれる。
何より、周りの目を気にしないで済むからとても楽だ。またなにかしら言われるかもしれない、と神経を張りつめたまま生活するのは窮屈すぎるし、周りが『あれ』を見たときの反応を思い出すと……。
戻りたくないなぁ、あそこは息をするのも苦しい。
そう思ったからか呼吸に息苦しさを感じて、眠りから浮上する意識の中うっすら目を開ける。
ぼんやりとした視界にここ数日で見慣れた天井が映り、息苦しさの正体を探るように目線をさ迷わせると原因が見下ろす位置に堂々と陣取っていた。現在自分にとって最大要因になっている『あれ』は目覚めたのを確かめるように、顔を近づけてくる。
「……重いからどいてくれないか。」
胸の上に重石を載せられている状態では起き上がることもできない。踏みしめて立つ2本の立派な足があるのだ、自発的に降りて欲しい。
そう願うと聞き分けよく、胸の上から移動していくのは、あまり見たことのない姿を持つ黒鳥であった。自分が四つ子でも並んで眠れる程の大きな寝台の端へと場所を移してもなお、長々と伸びる尾羽は雫を連ねたような形をしている。大きさは猛禽類程もあるが、鋭い爪も嘴も持っておらず、鳴き声も聞いたことはない。生肉にも興味を示さないし、食物を摂取している姿を見たこともない。はたしてこの不可思議な鳥は生物に分類してもいいものなのか。
「そういえば、いままでどこへ出かけていたんだ?」
夕食後に行った課題の時間には部屋にいた気がするが、寝台に潜りこむまで姿を見た覚えがない。普段は騒ぐこともなく、人の邪魔もせず、ただ眺めているだけのおとなしい鳥なので時々存在を忘れそうになることもある。
外の様子からすると、夜明けまであと数時間といったところか。もしや夜行性で餌でも探しに行ってきたのだろうか?
「食事?散歩?だとしても、一応ここを戻る場所だとは思っているのか……。」
周囲の人間からみれば、変わった鳥を手に入れたので手元に置いているように思われているが、厳密に言えば、ただ行動を共にしているだけであって飼っているわけではない。人に慣れているようだが、飼われていたわけではないと断言できる。なにせ出合いかたが……
――紙の上に突然現れました、と言っても信じてくれないだろうな。
その時のことを思い返し、自身の月色の髪をぐしゃぐしゃに掻き回す。癖のある柔らかい髪は混乱の度合いそのままに乱れぼさぼさだ。珍しさゆえに入手先を問われ、散歩中に懐かれたと平然と答えた自分を全力で褒めたい。
独りになりたくて、側仕えも遠ざけ訪れた書庫で気になった数冊を選び自室に戻ろうとしたとき、整理に従事していたらしき司書に読んだことが無いでしょう、とお薦めされた本。退屈はしないはずですよ、と太鼓判を押されたのもあり好奇心に負けて、その場で読もうと開いた本には、誰かが書いたメモらしきものが挟まっていた。本の題名から察すると魔法について記された教本のようで、恐らく勉学の一環としてこの本を読んだ人物が記した覚書なのだろう。中でも目を引いたのは複雑な文様とそれを囲うように描かれた円い図形で、確信はないが魔術紋の一種に見えた。紫の瞳を持つ者は総じて魔術に長けているという常識で照らし合わせれば、計ったことはないが蒼い色の瞳である自分の魔力量は恐らく人並みだと思われる。熱心に学ぶべき事柄は他にもあるので、魔術については基礎的な部分しか教わっていない上、積極的に関わることはなかった。
――こんなに綺麗で精緻な魔術紋もあるのだな。
文様を辿るように滑らせた指が環を閉じたとき紋自体が淡く光りだし、爆発するように溢れ出した輝きが集束した後に残っていたのが、この鳥で……。
「動いて目の前にいるのに、あれは夢だった気がしてくる。」
考えれば考えるほど謎に捉われていくだけかもしれない。
がっくりと項垂れ、気落ちした肩を慰めるように羽根で叩かれる。気が付けば、いつの間にか真正面に陣取った鳥は現実を直視しろと訴えかけるようでもあった。
「?」
感じた違和感の正体を探るように目を細め黒い体の中に、真逆の色彩を発見する。伸ばした手に素直に預けられた脚に巻きついた白は布であるらしく、結び目を解いて鳥の脚から外してやった。花らしき刺繍があしらわれているハンカチの中心には折りたたまれた紙片が収めてある。
“私もそう。
すぐ戻れると思っていたのだけど、道を通せんぼされてお家に帰れません。
思ったとおりに行かない事ばかりなら、いやになってしまいますよね。”
広げていくとカードよりも大きめの紙に綴られていたのは誰かへ宛てた手紙だろうか? 同意を示す内容からみると返信のようだが……。
“でも、そのおかげですてきなお客様をおむかえできました。
がまんして待っている私への神様からのごほうびかもしれませんね。
とても堂々としたすてきな鳥さんですね。お名前はなんていうのかしら?
また遊びに来てくださるとうれしいです。”
伸びやかな文字で続けられた言葉によれば、どうやら『鳥さん』はどこかへお邪魔した先で丁重な客人のように扱われたらしい。自分が差し向けた訳ではないのだが、相手にとっては喜ばしい出来事だったようだ。
不可思議生物を嫌悪も無く迎え入れ、『堂々とした』見目に臆している風も無い。自分以外に黒鳥を恐れず接する人間がいるとは思いもしなかった。
文面から伝わってくるのは純粋な好意と友好の念で、お礼状のような手紙もお茶会の参加者へ宛てたものだと考えれば頷ける。
「名前か……。」
呼びかける者が自分しかいなかった為失念していたが、この鳥を介して他者と関わるのならば呼び名は必要だろう。今まで周囲の者たちは特異な姿故か、視界に入れぬよう目線をそらすか居ないものとして扱ってきた。
「……ドゥクス、というのはどうだろうか?」
何かの辞書か辞典で見た古い言語で、確か『公爵』の意を持つ単語だった筈である。
堂々とした態度も、立ち姿も公爵の風格充分だ。面前の鳥に問いかけると、ばっさばっさと何時に無く両翼を羽ばたかせ飛び立たんばかりの勢いである。気に入ってくれた、と判断していいのか名付けられたばかりの鳥の騒ぎように、滅多に動かぬ表情が緩く笑みを形作ったその時である。
『漸く、漸くだ……、人の子よ。』
自分以外の何者かの声?。
明るくなり始めた室内は見渡すも声の主は当然居るはずも無く、誰かが起こしに来た気配もない。本来ならば未だ夢の中の住人であっても良い時間である。元々眠りが浅い上に朝も間近な時間に起こされたのだ、気のせいかもしれない。
「寝不足か?声がきこ」
『寝不足でも、幻聴でもないぞ、人の子よ。』
漏れた独り言に間髪いれず反論も逃避も許さず的確に応える声は、追い討ちをかけるようにこう告げた。
『目の前の現実を直視すれば、正体も判るというもの。』
声に導かれるよう目を向けた正面では、鳥がその黒い両翼を自身の肩に載せたところで…。
『名をありがとう、人の子よ。そなたの名を述べよ』
あってほしくない現実から逃れるように意識は途切れ、そのまま夢の中の住人となるべく再び旅立ったのであった。