3
その夜――ニーナの眠りは浅かった。
レオンの態度が悲しく、アメリアの変化が気になり、胸が落ち着かなかったのだ。
少し寝ては目を覚ますを繰り返し、月も頂点に上ろうという頃、彼女は寝るのを諦め、起き上がる。枕元で寝ているはずの愛猫に目を向け、あれ、と部屋を見渡した。
「シュネー……?」
一緒に床についた愛猫が、いつの間にかいなくなっていたのである。
シュネーを探したニーナは、窓辺に彼女を見つけ、首を傾げた。シュネーは、窓辺に座り、外を眺めていた。月の光を受けて、毛先が明るく輝いている。
さあ、と風が通り抜け、カーテンが揺れた。
ニーナは、寝ぼけ眼に、窓は閉めて寝たはずなのに、と思う。
「……そう……。君は頑固だなあ……」
どこかで聞いた覚えのある声が響き、ニーナは瞬いた。窓辺に座るシュネーは、外にいる誰かを見るかのように、一点を見つめている。と、突然にゅうっと人の腕が窓の外から現れ、シュネーの頭を撫でていった。
ニーナは背筋をピンと伸ばし、目を擦る。もう一度見た窓辺には、愛猫が一匹いるだけで、カーテンの布がふわふわと揺れていた。
――カーテンを見間違えたのかな……? 黒い袖の腕がにゅっと現れたように見たけれど……。
ニーナは、そろっと立ち上がる。窓の外に誰かいるのか確認するため、愛猫の元へ歩み寄った。
愛猫の背後に立ったニーナは、ほっとする。開け放たれた窓の向こうには、紺色の星空と、遠くにわだかまる霧の山があるだけだ。
すうっと風の匂いを嗅いで、ニーナは肩を落とした。
「……何を見ていたの、シュネー? ……ネーベル王国は、ずっと霧の中ね」
ぽつりと零したニーナは、東にある、父の故郷に思いを馳せる。かの国は常に霧に覆われ、人の出入りを拒み続けていた。国境にある出入り口の前には常に門番がおり、不用意に近づけば不思議な力であっという間に命を取られるとか。
ニーナはとろりとした眼差しで『霧向こうの国』を見つめ、呟いた。
「どうやったら、ネーベル王国に行けるのかな……?」
シュネーがびくっとニーナを振り返り、瞳孔を真っ黒にする。何気なく呟いただけだったニーナは、愛猫の反応を不思議な気持ちで見下ろした。その刹那、びゅうっと強い風が彼女たちを襲った。
「わ……っ」
春なのに、凍りつきそうに冷たい風で、ニーナは身をすくめる。ネグリジェ姿だった彼女は、自分の体を軽く抱きしめ、再び窓の外に目を向けた。
「――誠に、お望みだろうか」
不意に聞こえた中性的な声に、ニーナは硬直する。
彼女は一歩後退り、目の前の光景に、ひゅっと細く息を吸った。
窓の向こうは、足場も何もない。そこに、忽然と人が現れていた。
この国では見覚えのないデザインの、白い絹の貫頭衣に身を包んだ、細面の青年だ。緋色の長髪に、黒い瞳。先程、窓の外から聞こえた誰かの声とは全く違う声だった。
彼は、感情の見えない眼差しをニーナに注ぎ、首を傾げる。
「――お連れ致しましょうか?」
「……だ、誰……?」
レーゲン王国では、人間は地を歩くもので、宙には浮かなかった。つい先日、未来見とかいう青年が宙に浮いていたのを初めて見たばかりの彼女は、この状況について行けず、何者かを問う。
彼は、見えているのかどうかも怪しい位に瞳を細め、衣擦れの音と共に頭を下げた。
「――私はデニス。貴女が望むのであれば、国へお招きするようにと、主より命を受け、参りました」
「……参りました……?」
それは、意味のないオウム返しだった。
心臓が壊れそうに速い鼓動を打ち、ニーナの頭は真っ白だ。青年の返答は、彼が違う言語を操っているかのように、何一つ理解できない。
青年は細めた瞳を元の大きさに戻し、ニーナを見返す。呆然としている彼女を数秒見つめた彼は、ちらっと窓辺の端に視線を向ける。彼の視線の先にいた白猫は、たらりと尻尾を垂らし、ただ彼を見つめ返した。身動き一つしないシュネーを見た彼は、「こちらも反応がない」とぼやく。
彼はため息を吐き、また静かに頭を下げた。
「……お心が決まれば、お呼びください」
静かな声で呟くや、現れた時と同じように、彼はまた、忽然と消えた。
ニーナは立ち尽くし、浅い呼吸を繰り返す。
――国ってどこの国……? 主って、誰……?
疑問だけが頭の中を駆け巡り、その夜、ニーナは一睡もできなかった。