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玄関前でアメリアの反応を見てから、ニーナは彼女の視線を意識せずにはいられなくなっていた。
彼女は、レオンとニーナが一緒にいる時、必ずどこかから様子を見ていた。
宝探しゲーム中も、レオンがニーナに近づくと、すぐに気がついて、目で追う。それが繰り返されていく毎に、彼女の顔が怒りに染まっていき、ニーナは恐怖を覚えた。
アメリアはこれまで、レオンに大胆に懐いていたが、ニーナに敵意を向けることはほとんどなかったのである。
機嫌が悪いと、食事中にわざとニーナにスープをかけたり、教師に課せられた課題を代わりにして、と命じて来たりしたが、ベルクマン侯爵の暴力に比べれば、可愛いものだ。
けれど、今日の彼女の表情は違った。
明らかにニーナを睨みつけ、嫌悪を示している。
レオンが帰ったあと、ベルクマン侯爵に何か言いつけ、折檻するよう促すのではと考えずにはおられず、ニーナは震えそうになるのを辛うじて堪えて過ごしていた。
そしてニーナは暴力を恐れ、次第にレオンから距離を置くようになっていった。
どうせ宝を見つけたところで、ニーナは貰えない。
宝探しは、見つけた人が宝を得られるゲームだが、このゲームで宝を本当に手にできるのは、アメリアとレオンだけだ。盛り上げるために使用人も数名参加しているけれど、彼らももっぱら、宝を見つけたアメリアを褒め称えるに徹していた。
「アメリアー、お前が欲しがっていた、花の髪飾りだぞー!」
ベルクマン侯爵が楽しそうに、庭園の中央付近にある岩の影から見つけた宝を掲げる。
「わあ、本当! ありがとうお父様!」
駆け寄ったアメリアは、ベルクマン侯爵が見つけた物だが、当然それは自分への贈り物として、髪につけて貰っていた。
ニーナは庭園の端に生えた木の根元に屈み込み、遠目にベルクマン親子を見つめる。
庭園の中央は花園になっており、笑いあう父子の姿は、実に温かみのある光景だった。
ニーナは自然、実の父と遊んだ記憶を思い出し、瞳を潤ませる。
――お父様とする遊びは、魔法を使ってばかりだったけれど。
魔法が強過ぎて、風船みたいにぽーんと上空に投げられた時は、泣いてしまった。
泣き声を聞きつけた母が庭園に出てきて、父を叱り、今度はしょんぼりした父をニーナが慰めるという、あべこべなやり取りをしていたものだ。
思い出はいつまでも鮮やかで、ニーナは寂しさを覚えて俯く。
ニーナと一緒に庭園に来ていたシュネーが、すり、と膝頭に体を擦りつけて、「なー」と鳴いた。
まるで慰めるような仕草に、ニーナはふっと笑う。
「慰めてくれてるの? ありがとう、シュネー」
ニーナは彼女の体を撫で、庭園の向こう――東の空に目を向ける。
父の故郷・ネーベル王国を覆いつくす深い霧は、王都にあるベルクマン侯爵邸からもはっきりと見えた。
シュネーは、ニーナの視線を追うが如く、一緒に霧向こうの国の方向に顔を向け、さあっと吹いた風の匂いに髭をそよがせる。
「……親子仲よくて、微笑ましいことだな」
低く抑えた声が頭上から聞こえ、ぼんやりネーベル王国を見つめていたニーナは、はっとする。
振り返ると、避け続けていたレオンが、ニーナの傍らに屈み込むところだった。愛猫は、ぱっと身を翻して、館へ帰っていく。
傍に片膝をついたレオンは、風で乱れていたニーナの髪に目をとめ、手を伸ばした。すぐにアメリアの視線を思い出し、避けようと思ったが、彼の動きはニーナよりも速く、前髪に触れられる。
出来るだけアメリアに見えないよう、ニーナは身を小さくした。
「……あのドレスは、気に入らなかったか?」
「え?」
唐突に質問され、ニーナはきょとんとレオンを見上げる。彼はやや機嫌の悪い表情で、庭園の中央を目で示した。
庭の中央には、ベルクマン親子がいる。ニーナはすぐに、アメリアが着ているドレスの話だとわかり、気まずく目を泳がせた。
「……それは……」
しかしレオンは返答を待たず、皮肉げに口角を上げる。
「まあ、どうせアメリアが欲しいと言ったのだろうが。使い古しのドレスくらいで目くじらを立てるつもりはないが、今後はやめてくれ。俺は君に贈っているのであって、アメリアに贈っているわけではない。ドレスも、宝飾品も、俺の妻の立場も、全て君に贈るものだ」
「――……」
いつかは――アメリアのものになるのに?
ニーナは、喉元までせり上がったその声を留めるため、唇を引き結んだ。
レオンは、返事をしないニーナに片目を眇める。苛立ったようなため息を吐くと、彼は顔を近づけた。
ニーナは顎を引いて、その口づけを避ける。後頭部が木の幹に当たり、ニーナは視界の端に桃色のドレスを見た気がした。
――アメリア……?
ニーナは確認しようとしたが、レオンがその顎に手をかけ、視線を引き戻す。
「待って……っ」
アメリアが見ているかも知れないから、と言いたかったが、レオンは拒もうとするニーナの手首を掴み、木の幹に押しつけた。
「レオン……っ」
「……ニーナ」
レオンは少し切なそうに名を呼び、唇を重ねた。
「ん……っ」
彼は、先日よりもずっと丁寧に、ニーナの唇を塞いだ。
柔らかく触れるだけの口づけを繰り返し、それからそっとニーナを見やる。
唇を重ねたまま視線が合い、ニーナの心臓がドキッと跳ねた。
彼は促すように瞳を細め、軽く口を開く。
ニーナは、応じるか迷った。誰にも見られていないのを、確認してからにして欲しかったのである。
しかし彼はニーナの反応に軽く眉を上げ、強引に口内に舌をねじ込んだ。
「――や、んっ……」
口づけは濃厚で、時を置かずに思考を奪おうとした。
ニーナは身を捩り、レオンが与える快楽を逃そうとする。
それを察した彼は、より煽るように舌を絡め、彼女が抵抗しなくなるまでキスを続けた。
ようやく解放された頃、ニーナは息を乱し、涙目になっていた。
レオンはニーナの濡れた唇を、親指で拭う。存分にニーナを味わっただろうに、くたっとした彼女の頬に口づけた彼の表情は、不満そうだ。
レオンはニーナの耳元にまで口づけ、不機嫌に尋ねた。
「……ニーナ。俺のキスを拒むのは、あの男が原因か? 俺よりも、他の男がいいか」
ニーナは、ぱちっと目を見開く。まさか自分が浮気を疑われているとは考えてもおらず、驚きを露にレオンを見返した。
「……そんなこと……」
ニーナが好きなのは、レオンだけだ。今まで一度だって、ニーナはレオン以外に恋をした経験がない。
――何度も色々な女性に目移りしてきた、レオンと違って。
あの日の状況を思い出そうとしていた彼女は、するっと遠い過去の記憶の方を蘇らせてしまい、眉根を寄せた。
――レオンは、堂々と六度も不貞をしている。
自分の過去は棚に上げ、ニーナを責めるのかと、彼女は不機嫌になった。
彼女は、レオンの口添えで幼少期に家庭教師をつけられ、しっかり教養を身に着けた聡明な少女だ。
レオンの隣に立つに相応しい、落ち着きと知性を兼ね備えている。
レーゲン王国内に、彼女を上回るほど教養のある少女はおらず、だからこそ、レオンの婚約者にもなれた。
以前ならば、彼女はもっと冷静に対処していたはずである。
しかし前世の記憶を取り戻したことで、未だ混乱しており、気持ちは不安定なままだった。
故にニーナは、感情的に反発を覚える。
――浮気をしてきたのは、そっちじゃない。前回の人生では、他の女性と閨まで共にして……っ。
沸々と怒りがこみ上げ、ニーナはぷいっと顔を背けた。
「ギードさんとは、なんでもありません! あの夜、初めて会った人だもの」
「……キスを許したのは、酔っていたからか?」
「キス……?」
きちんとあの日を思い出していなかったニーナは、眉を顰める。キスなんてしてない、と思ってから、そう言えばこめかみにキスをされた、と思い出した。
けれど、ニーナは怪訝に首を傾げる。
あれはどちらかと言うと、異性としてされたのではなく、怯えたニーナをあやすためにされた雰囲気だった。――まるで家族のような、温かな仕草。
そう答えて大丈夫だろうか、と考えを巡らせていると、レオンは焦れたようなため息を吐き、顔を覗き込んできた。菫色の綺麗な瞳が、ニーナの青い瞳をまっすぐに射貫き、誰よりも愛し続けてきたその人の顔に、ニーナの胸が勝手に高鳴る。
「ニーナ。……君は、俺のものだ。君の唇に触れ、君を組み敷き、君の全てを我がものにするのは、この俺だ。誰にも譲る気はない。――他の男は諦めろ」
「――……」
結婚後の生活を彷彿とさせる、赤裸々な言葉の数々だった。
彼女は急いで顔を伏せ、手のひらで口元を押さえる。
そうしないと、瞬時に火照ってしまった顔を、レオンに晒す羽目になる。
喜んでいると悟られるのは、悔しかった。
だがニーナは、獰猛な肉食獣の眼差しで釘を刺され、嬉しいと感じていた。独占欲を見せつけられたようで、鼓動の乱れが収まらない。
たとえそれが、政略的な観点から吐かれた言葉であろうと、少しでも自分に想いがあるのでは、と期待してしまうのが、恋する乙女の性だった。
俯いていた彼女は、自分の足元に影が差し、視線を上げる。そして赤く染めていた頬を、一瞬で青ざめさせた。
二人の傍らに、ベルクマン親子が立っていたのだ。
アメリアは自らの父親に腕を絡ませ、拗ねた表情で身を摺り寄せる。
「せっかくゲームをしていたのに、ニーナったら参加もしないなんて、酷い」
それはレオンも同じだったが、当然彼は非難の対象にならなかった。
ベルクマン侯爵は今にも殺したそうな、冷酷極まりない視線をニーナに注ぐ。
「辺境で育ったから、ニーナは宝探しゲームの仕方を知らなかったのだろう。あとでよく教えてやらなくてはな」
その言葉に、ぞっと寒気が走り、ニーナの全身から血の気が引いた。ルールを教えてやるという名目で、地下に連れて行かれ、打たれるのは想像に容易い。
ニーナは震えだしそうに怯え、身動きができなくなった。どんな対応をしたらいいのかもわからなくなった彼女は、やにわに手を引かれ、驚く。
「あ……っ」
へたり込んだ彼女を軽々と立たせたのは、レオンだ。彼はニーナを抱き寄せ、ベルクマン侯爵に向かって笑みを浮かべた。
「大丈夫だ。今、私が教えたところだから、次からは彼女もアメリアのように、積極的にゲームに参加するだろう。宝探しは、宝を見つけた者がそれを手に入れられるというルールで、相違ないだろう?」
「……それは、お手間をおかけしました」
レオンには強く言えないベルクマン侯爵は、物足りなさそうな表情で礼を言い、アメリアは明るい笑顔を浮かべ、自分の髪飾りを指し示す。
「あ、これ見て、レオン殿下! お父様が見つけてくださったの。ずっと欲しかった髪飾り!」
ルールについて語ったレオンの話を一切聞いていない、無邪気なアメリアに、彼はにこっと微笑んだ。
「ああ。可愛い髪飾りだな、アメリア」
アメリアは「きゃっ」と声を上げ、己の父からレオンの腕へと飛びついた。レオンはニーナを背に回し、ベルクマン親子と談笑を始める。棘のあるアメリアの視線と、ベルクマン侯爵の獲物を狙う猛禽類のような瞳から隠され、ニーナはほっとした。
「これは、製造数に限りがある、とっても高価な髪飾りなの!」
「アメリアはアードラーの商品が好きでしてな」
「そうか。では私がニーナにルールを教えている間、退屈させた詫びに、今度何か贈ろうか」
「――本当⁉」
贈り物と聞いた途端、アメリアは頬を紅潮させ、ベルクマン侯爵は満足そうに笑った。
「よかったな、アメリア。この間欲しいと言っていた、リボンなど頂いてはどうだ」
レオンは顎を撫で、首を傾げる。
「リボンか。最近はストライプ柄が人気だと聞いたが……」
「そうなの! とっても可愛い、ピンク色のリボンがあってね……っ。あ、赤もいいのだけど」
レオンが話すごとに、ベルクマン親子はニーナなど忘れていくようだった。彼らがニーナに向けて発していた苛立ちもいつの間にか消え失せ、上機嫌とすら言える表情に変わっている。
ぽつんと会話の輪から外されたニーナは、震える息を吐いた。
レオンのおかげで、今夜の折檻は免れそうだと安堵すると同時に、その言動に打ちのめされてもいたのである。
口説いているとさえ取れる言葉を吐きながら、アメリアに目を向けるレオンの横顔はまた、甘く優しかった。
束の間の喜びで満たされていたニーナの胸は、冷水を浴びたかのように凍え、彼女は眉尻を下げる。
――やっぱり、レオンが選ぶのは、アメリアなのね……。
空に雨雲が広がり、ぽつりと雨が降り出すまで、時間はかからなかった。
「雨か。館へ帰ろうか」
レオンが促すと、ベルクマン親子は機嫌よく彼と一緒に歩き出す。
滲んだ涙を拭うニーナに気づかぬまま、レオンは彼女に背を向けて、彼らと館へ向かって行ったのだった。