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 アメリアの社交界デビューの宴には、結局あれ以降ニーナは戻らず、そのまま家へ送り届けられた。雨が降り始めてもレオンが離してくれず、ドレスがずぶ濡れになったからである。

 彼は王宮でニーナを着替えさせ、その後、自らも馬車に乗ってベルクマン侯爵邸へ送ってくれた。

 馬車の中、レオンはニーナを静かに眺め、彼女は物思いに沈んだ。

 レオンは、キスで物事を誤魔化す節がある。彼の口づけは巧みで、最初は平気だけれど、途中から思考が麻痺し、ニーナは腰砕けになってしまった。

 彼はそれを狙うかの如く、常以上に濃厚な口づけをして、ニーナをぐったりさせ、そのまま王宮内へ運んだのだ。

 横抱きにされ、客間へ運ばれる途中、ニーナはぼんやりした思考で、レオンと彼の側近の会話を耳にする。

『……おや殿下。宴に乗じて、姫をさらっていらっしゃるので? しかし慌てずとも、そのご令嬢は将来、殿下の奥さんになられますから、人さらいはお勧めしませんねえ……』

『――違う。少し動転していたようだから、その、落ち着かせただけだ』

『落ち着くというよりも、朦朧としていらっしゃるようですが』

『ちょっとやりすぎただけだ。いいから着替えを用意しろ』

『さようですか。いやはや、お若いですねえ……』

 それは、ニーナにも気さくに話しかけてくれる、カールという名の文官の声だった。呑気そうな会話は、辛い状況にあるニーナの気持ちを和らげ、おかげで、客室に案内された頃には、ざわついた心も落ち着きを取り戻していた。

 それから三日後、ニーナはもうすぐ到着するレオンを、ベルクマン侯爵邸の玄関前で待っていた。彼女の傍らには、ベルクマン侯爵とアメリア、そして侯爵邸の使用人も居並んでいる。

 体調が悪いと言って数週間会っていなかった時は、レオン側から出迎えはいらないと言われていたので部屋で待っていたが、事前に来訪する時間がわかっていれば、いつも出迎えはしていた。

 ニーナを端に追いやり、玄関真正面に陣取ったベルクマン親子は、朗らかに会話をしている。

「ねえ、似合う? ニーナに貸してもらったのよ。殿下のドレス!」

 アメリアがドレスを広げ、傍らにいる父に甘えた声で尋ねた。

 それは、つい数時間前にニーナの部屋から持ち出された衣装である。

 レオンが訪れると聞いたアメリアは、喜色を浮かべて部屋を訪れたと思ったら、勝手にニーナのドレッサーを漁り始め『ねえ、殿下はどんなドレスが好きなの?』と聞いてきたのだ。

 ニーナのドレッサーに並ぶ衣装は、ほとんどがレオンからの贈り物だった。

 レオンの好み――と答えを考えている間に、彼女は『あっ、この色好き!』と言って、桃色のドレスを選んだ。そして『これ貸してね!』と当然の顔で言って、ニーナの返事も待たず、持って行ったのである。

 ダンスを踊って以降、アメリアは以前よりずっと、レオンを異性として意識している様子だった。

 ニーナは、アメリアの着つけを遠目に確認する。肩回りが少し苦しそうだが、身長はほとんど同じなので、問題はなさそうだ。

 ベルクマン侯爵は、娘に言われてやっと、それが自分が買ってやったものではないと気づいたらしい。彼は少し目を瞠ったが、すぐに相好を崩した。

「ああ、とても似合っているよ、アメリア。まるで初めから、お前のために作られたドレスのようじゃないか」

「本当⁉ よかった!」

 アメリアは小さく跳ねて喜び、彼らの背後に控えている使用人らも、微笑ましそうに笑みを浮かべる。誰もがアメリアこそがレオンに相応しいと考えている空間で、ニーナは居心地悪く視線を逸らした。

「そのドレスに似合うネックレスを買ってやろう。どの店がいい?」

「えっとねー……」

 王家の紋章が輝く馬車が到着するまで、親子の会話は続いた。

 ――借したドレスは、永遠に戻ってきそうもなかった。



 馬車から降りて来たレオンは、真っ先に駆け寄ったアメリアを見下ろし、すぐにドレスに気づいた表情になった。ちらっと横目にニーナを見やり、その顔に何の感情も浮かんでいないのを確認すると、ベルクマン親子に笑みを浮かべる。

「出迎えありがとう、アメリア、ベルクマン侯爵」

「お越しくださってありがとう、レオン殿下! 今日はお庭で一緒に宝探しをしない? お父様と一緒に、朝から準備したのよ!」

 ニーナは、そんな話は一切聞いていなかったが、何も言わず見守る。

 実に愛らしい振る舞いだった。レオンの来訪を聞いて喜び、彼の好みであろうドレスを身に着け、そして父と一緒に遊戯の下準備をする。

「……宝探し」

「そう、宝探し!」

 アメリアは嬉しそうに飛び跳ね、レオンの腕に抱き着いた。

 レオンは微笑みを湛えたまま、アメリアを見下ろす。あまり乗り気でない反応を見て、彼女は慌てた。

「あっニーナも一緒よ! 皆で一緒にしようと思って、準備したの!」

「それに隠した宝は、本物ですよ、殿下。指輪にネックレス、乗馬用ブーツに、金の飾り付きの鞭! 童心に返って、どうぞ私の娘とお過ごしください」

 ベルクマン侯爵からまで、子供の遊びを勧められ、レオンはニーナを見やる。ニーナは微笑みを浮かべた。――どうでもいいという感情が滲まぬよう、細心の注意を払いながら。

「どうぞ、ご一緒に興じられてはいかがですか、殿下」

 ――私は邪魔にならぬように、静かに過ごすから。

 冷えた心を隠して口添えると、彼は聞こえるか聞こえないかのため息を零し、馬車を振り返った。

「……では、そうしよう。シュネー、おいで」

 レオンが声をかけると、馬車の中から白猫が顔を覗かせ、ニーナは驚く。

「シュネー! ずっといないから、どうしたのかと思っていたのよ……っ」

 駆け寄って手を伸ばすと、白猫は彼女の腕に飛び込んだ。アメリアがレオンの腕に絡みついたまま、嫌そうに顔を顰めた。

「まあ、ヤダ。その猫、レオン殿下について行っていたの? 気持ち悪い」

 彼女は、ベルクマン侯爵と同じく、シュネーを不気味な猫と思っている。ニーナは返答をせず、シュネーを抱き締めた。

「……貴女がいなくて、とても寂しかったのよ、シュネー」

 レオンが少しすまなそうに言う。

「前回、ニーナを送った帰りに、いつの間にか馬車に乗っていたんだ」

 王宮での宴から帰ってきて以降、三日も姿が見えなくて、本当に心配だった。ベルクマン侯爵に殺されちゃっていたらどうしよう、とすら考えていただけに、喜びもひとしおである。

 ニーナから返事を貰えなかったアメリアは、明らかに機嫌を悪くした。むうっと口を尖らせ、レオンを甘えた表情で見上げる。

「気味の悪い猫だと思わない、殿下? 捨てても捨てても、ニーナの所に帰って来るの。猫なんて犬と違ってなんの役にも立たないんだから、いらないと思うのだけれど」

「……捨てても戻ってくるというのは、賢い猫の証だ。俺は、白雪のように美しい猫だと思っているが……。アメリア、手を離しなさい」

「あんっ」

 レオンは、微かに冷えた声でアメリアに応じ、彼女の手を自らの腕から引き剥がした。

 できるだけ二人を見ないようにしていたニーナは、レオンの態度には気づかぬまま、彼らから離れていく。アメリアとレオンが必要以上に触れ合い、微笑み合う姿を見たくはなかった。

 運命だとわかっていても、やっぱり苦しい。自分以外の女性に優しくする恋人には、失望とやるせなさを感じた。

 しかしこうして避け続ければきっと、いつか楽になるだろう。

 そうなってくれたらいい――。

 ニーナは曇る胸の内を少しでも晴らせないかと、愛猫の毛並みに鼻を押しつけ、瞳を閉じた。太陽の匂いがして、涙が滲んだ。

 ――シュネー……。レオンの所で、日向ぼっこをしてきたの……?

 ニーナは心の中で愛猫に問いかける。きっとこの三日間、彼女はレオンの部屋で、長閑に過ごしていたのだろう。彼女がレオンについて行ってしまうのは、珍しい出来事ではなかった。

 シュネーは、ニーナだけでなく、レオンも気に入っているのだ。

 昔から、お前は趣味がいいわね、なんて話しかけていた。レオンは優しい人。だからシュネーも、彼が大好き。――私と一緒ね、と。

 温かな思い出に、ニーナの瞳が潤み、そして刹那、前世の記憶がフラッシュバックした。

 ニーナを冷淡に見据え、『消えろ』と吐き捨てるレオンの眼差しが、鮮明に記憶の中で繰り返される。ニーナは目を見開き、ふっとその瞳から光を消した。

 レオンは、いつかまた、ニーナを裏切り、他の女性と浮気をする。

 ――レオンなんて、嫌い。

 瞬間的に胸がどす黒い感情で覆われ、ニーナは我知らず、心の中でレオンを厭うた。同時に、ニーナを見つめていたシュネーの瞳が大きく見開かれる。真っ黒になった愛猫の瞳を、ニーナは不思議に見下ろし、そしてびくっと足をとめた。突如、目の前にたん、と誰かの腕が伸びて、行く手を遮ったのだ。

 馬車の前でニーナの足をとめたのは、いつの間にか、随分と身長差ができた婚約者・レオンだった。

 馬車に手をついて、ニーナを片腕の中に留めた彼の顔は、僅かに緊張しているようである。

「……レオン殿下……?」

 レオンは、ニーナを――正確にはその髪を見つめ、こめかみから垂れた一束に触れた。その髪先を見たニーナは、表情を変える。澄んだ青一色であるニーナの髪は、一部が漆黒に変色し、レオンはその変色した箇所を掴んでいたのだ。よく見たら、他もところどころ黒く染まっている。

 ――髪の色が……変わってる……?

 ニーナは咄嗟に、周囲を見渡した。本能的に、気づかれてはならないと感じたのだ。しかし、上手く馬車とレオンの体に挟まれて、他の人の目に彼女の姿は見えていない。

「……ニーナ。そういう言葉は、先に私に言いなさい」

「……え?」

 動揺していたニーナは、なんの話かわからず、レオンを見上げた。彼は髪色の変化に気づいていないのか、そこには言及せず、眉尻を下げて笑う。

「君に会えなくて寂しかったのは、私だけか?」

「……あ。えっと……だって、三日しか……」

 どうせ捨てられるとばかり考え、悲しみで心を満たしていた彼女は、会えたことを喜ぶ気持ちになっていなかった。取り繕う余裕もなく、素直な反応を返してしまった彼女に、レオンは息を吐く。

「……たった三日離れただけでは、寂しくないか。残念だな。私は毎日君の顔が見たいから、婚約を申し込んだというのに……」

 人前で、こんな気障な言葉を吐かれたのは初めてだった。髪色の変化に動揺していたニーナは、それも忘れ、かあっと頬を染める。レオンは慣れた仕草でニーナの腰に手を回し、そっと抱き寄せた。

 愛情深い、優しい仕草に、凍りつきかけていたニーナの胸が、ほっと温かくなる。思わず泣いてしまいそうになり、彼女は瞳を潤ませて、俯いた。

 自分を煩わしそうに見やり、『お前には飽いた。下がれ』と命じる、前世のレオンの映像が鮮明で、ニーナは怖くてたまらなかった。いつかまた、あんな冷たい顔で睨まれるのかと思うと、レオンに近づくのも恐ろしくなっていたのだ。

 でも今世の彼は、まだニーナに優しい。

「……好きよ……」

 ニーナは溢れかえる感情を、ぽろりと零した。レオンは頬を染めるニーナに瞳を細め、その目尻に口づける。部下の前では厳めしいばかりの彼が、ニーナだけに見せる、甘い態度だった。

「……ニーナ。俺が君を守るよ。……運命などには、決して奪わせない」

「運命……?」

 瞼を閉じて、口づけを受け入れたニーナは、自分にだけ聞こえる声で囁かれ、目を開く。

 運命なんて言葉、初めてレオンから聞いた気がした。ニーナ自身、運命などという言葉は、前世を思い出すまで使わなかった。

 どうしてそんな言葉を使うのかしら、と見ると、彼は苦しそうな表情でニーナを見返し、低く呟く。

「――神にも負けぬ」

「……神様……?」

 ニーナは、話がつかめず首を傾げた。レオンは説明する気はないらしく、何も言わずニーナの髪を梳く。つられて己の髪を見たニーナは、安堵した。どす黒く変色していた髪は、レオンが魔法をかけてくれたみたいに、元の澄んだ青色に戻っていた。

 レオンはニーナから身を離し、ベルクマン一家を振り返る。

「じゃあ、庭園にいこうか」

「ええ、ぜひとも! お楽しみいただけると思いますよ」

 ニーナに冷淡な眼差しを注いでいたベルクマン侯爵は、レオンと視線が合うと、ころっと表情を変え、笑顔で庭園へと誘った。レオンとベルクマン侯爵のあとについて行こうとしたニーナは、目の前を横切ったアメリアの視線に、身を強張らせる。

 アメリアは、嫉妬に染まる瞳でニーナを睨みつけてから、ベルクマン侯爵の元へ駆けて行った。

「……ニーナなんて、いなければよかったのに」

 背中越しに吐かれた彼女の小さな声は、なぜかはっきりと聞こえた。


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