5
――もしも魔力があったら、どんな目に遭うのだろう。
十六歳になったニーナは、あの日のベルクマン侯爵の言葉がただの脅しとは思えず、ぶるりと震える。
王都は最近、まるでニーナの塞いだ気持ちを代弁するかのように、曇天が続いていた。
気のせいだとも思うが、ニーナが泣きたい気持ちになったら雨が降り出すことも多く、彼女は不安で仕方ない。
幼い頃はないと思われていた魔力が、本当はこの身に宿っていて、それが天候に影響を与えているとしたら。
少なくともベルクマン侯爵は、ニーナを捕らえ、一生日の目を見せないようにするだろう。
「……怖い」
幼い頃から痛めつけられてきた彼女は、ベルクマン侯爵と出会った時を思い出して、思わず弱々しい声で呟いた。
「……大丈夫だよ、可愛い子。怖いことも起こるだろうけれど、きっと君は大丈夫だから」
温かな声が耳元で聞こえ、ニーナは顔を上げる。いつの間にかダンスの足をとめていたギードが、ニーナの頭をそっと抱き寄せ、優しくこめかみにキスをした。
「――」
――レオン以外の異性に、キスをされた。
ニーナが目を見開いた瞬間、背後から怒声が上がった。
「――ニーナ! こんな所で、何をしている!」
「ぴ……っ」
振り返ったニーナは、藤の塔の庭園から猛然と歩いてくるレオンを見つけ、身をすくませる。
彼は、今まで見たことのない、鋭い眼差しでニーナを見据えていた。
どうしてそんなに怒っているの、と思ったニーナは、本能的に彼から逃げようとして、行く手を遮るギードの体に触れる。そこで彼女は、自分がギードの温かな腕の中にいることを思い出した。
レオンから見れば、ギードにすり寄ったように見えただろう。
レオンは益々眉間に皺をよせ、腰に佩びていた剣を抜く。ダンスホールでは帯剣していなかったから、ここへやってくる際に手にしたのだろう。
全身にざわっと鳥肌が立ち、ニーナは涙ぐんだ。
――今日、殺されちゃうの……?
今までの人生では、レオンの敵として殺されていたが、手を下すのは彼ではなかった。しかし今世ではとうとう、レオン自身に殺されるのか、とニーナは震え始める。
「……あーあ、こんなに怖がらせて。いけない子だなあ」
レオンの剣幕とは正反対の、呑気な声が頭上からした。見上げると、ギードは焦り一つ感じていない余裕の顔で、ニーナの頭を優しく撫でる。
その仕草は、不思議とニーナの心を安堵させた。
だが、抑えきれない怒りを孕んだレオンの声が響き、ニーナは再び震えあがる。
「――私の婚約者に触れるな……! ――貴様、何者だ」
殺意たぎる声にも、ギードは邪気のない笑顔を返す。ニーナから手を離し、降参の意を示すためか、両手を上げてみせた。
「まあまあ、そうお怒りになられるな、レオン王子殿下。私はしがない未来見ですよ」
ニーナの目前までやって来たレオンは、彼女を強引に自分の胸に抱き寄せる。
レオンに肩を抱かれ、彼の体温に、ニーナはまた、ほっとした。
「未来見だと……?」
レオンが目を眇めて聞き返すと、ギードは肩をすくめる。
「世界を渡り歩いて、未来を教えてあげるお仕事ですよ、王子様。魔法を厭うこの国の王太子様は、ご存じない職業かな?」
小馬鹿にした調子の返答だった。しかしレオンは、彼の挑発には乗らず、平静に応じる。
「聞いたことはある。ネーベル王国でも未来を見る能力を持つ者が、修業を兼ねて諸国を回っていると。話を聞いたのは、ネーベル王国の者からではなく、北の隣国・ヴェレ王国の者からだが。――お前はネーベル王国の人間か」
「そうとも言えるし、そうでないとも言えるかな」
ギードの答えは、ニーナへの返事と変わらない、曖昧な内容だった。
レオンは眉を吊り上げ、冷え冷えとした眼差しを注ぐ。
「どちらにせよ、今宵の宴にネーベル王国の者を招いた覚えはない。許可なく王宮へ侵入したのならば、お前はこの場で捕らえる」
レオンは衛兵を呼ぶため、一瞬ギードから視線を逸らした。その時、突如強風が二人に襲いかかり、レオンはニーナの頭を抱え込んだ。
「それは困る。と言っても、誰も僕を捕らえることなどできないけれど」
「――待て!」
レオンが叫び、ニーナは固く閉じた瞼を開く。先程までいた場所を見るもギードはおらず、ニーナは視線を彷徨わせた。
「また会おう、幼い王子と可愛い僕のお姫様。――そうそう、そのニーナに贈ったドレスだけは、趣味がいいね。褒めてあげるよ、レオン王子」
声は頭上から聞こえ、視線を上げたニーナは、口を開ける。黒いローブを身にまとった青年は、夜空に浮かび上がり、二人を見下ろしていた。
「……なんだと?」
「じゃあね!」
レオンの不快げな声を無視し、ギードはニーナにウインクをして、忽然と消えた。元からそこには何もなかったかのように、彼の姿は跡形も消失したのだ。
「……」
レオンとニーナは、初めて目の当たりにした魔法に、しばらく呆然と夜空を見上げていた。
ギードが消えて数十秒後、レオンは無言で剣を鞘に納める。その音で、ニーナは我に返った。
「あ、あの……レオン様……」
しかし声をかけた彼は、酷く機嫌の悪い顔でニーナを見下ろした。
「……なぜ誰にも言わず、外へ行った」
未だ怒りを滲ませているその声に、心臓がヒヤッと冷える。ニーナは青ざめ、レオンの腕から身を離した。
「なぜ、俺から離れる」
重ねて問われ、ニーナはまごつく。
「あの、ごめんなさい。その……アメリアの大事なファーストダンス中だったから、誰の邪魔もしたくなくて……」
ここに一人で来るに至った理由を思い出し、ニーナは惨めな気分に陥った。恋人といとこの睦まじい姿を見たくなかったから、会場から逃げたなんて本心は、口が裂けても言いたくない。
ニーナはため息を吐き、消えたギードに思いを馳せた。
――いっそ、私も連れ去ってくれたらよかったのに。
レオンとの婚約がなくなったら、もうこの国に居場所はない。
ニーナに残された場所は、もはやネーベル王国しかないと思われた。
「……ああ……」
レオンは、納得したとも、していないとも取れる、短い返答をして、視線を逸らす。
その態度に、ざわっと鳥肌が立ち、嫉妬の炎が灯った。
――俺とアメリアとのダンスを邪魔しないためだったなら、仕方ないな。
そんな風に考えているように見え、ニーナはその美しい顔に、嫌悪感を滲ませる。
「……アメリアは、可愛かった?」
ダンスをしている最中、彼はアメリアしか見ていなかった。ニーナになど目もくれず、緊張しておぼつかない足取りのアメリアを、慈しみ深く見つめていた。
――貴方の心がもうアメリアに傾いているなら、一刻も早く、こんな立場は捨ててしまいたい。
ニーナは、レオンの気持ちをはっきり聞きたかった。
婚約して僅か二か月弱。短すぎる婚約期間であったが、他に好きな女性がいると気づいたのに、レオンをこのまま縛りつけるのは酷だ。
どこか冷えた眼差しで尋ねたニーナに、レオンは少し戸惑った表情になる。
「……どういう意味だ」
ニーナは視線を逸らす。その横顔は、今までになく凍りついていた。
「……そのままの意味です。アメリアがよいのなら、そうおっしゃってくださって構いません」
「……なんの話だ」
レオンが手を伸ばし、腕を掴もうとしたのを、ニーナは反射的に払い退ける。
パシッと音を立てて手のひらを退けられたレオンは、目を瞠った。
ニーナは瞳に涙を滲ませ、レオンを睨んだ。
「もういいの。同情なんていらないのよ、レオン。結婚って、そんな気持ちでするものじゃない」
「ニーナ。何を言っている?」
彼は再び、ニーナの腕を掴もうとした。しかしニーナはさっと後退り、視線を逸らす。零れ落ちそうな涙を堪えながら、震える声で言った。
「私、もうやめる」
「……何を?」
「――貴方を好きでいることを、やめるの……っ」
「――」
ニーナはぎゅっと目を閉じ、勇気を振り絞って決意を口にした。
「私、貴方との婚約は、解消する……!」
「…………」
返答がなく、ニーナはそっとレオンを窺う。そして、瞳を丸くした。
いつものように、落ち着いた表情で対応するものと思っていた彼は、ショックを受けたような、青白い顔をしていたのだ。
彼を傷つけた気がして、ニーナの心が痛む。しかしこれが、最善の方法だった。
レオンには、本当に好きな人と結ばれて欲しい。彼はいつの人生でも、ニーナに飽いたと言って、婚約を破棄したがるのだ。今世でも同じ結果になるなら、早いうちにニーナなど、いなくなった方がいいと思った。
レオンは無言で、ニーナを見つめる。しばし黙り込んでいた彼は、こくっと喉を鳴らし、ゆっくり口を開いた
「……落ち着きなさい、ニーナ」
「私は、落ち着いています……っ」
そう言いながら、彼との別離を受け入れ切れていないニーナは、瞳一杯に涙を溜め、声は震えっぱなしである。
別れたくない。でも別れないと、また同じ未来を見せつけられる。
――あんな、別人みたいに冷たくなる貴方を、私はもう見たくない……っ。
ニーナは拳を握り、一生懸命、別れの理由を口にした。
「ぜ、全部、わかっているの……っ。貴方は両親を失って、可哀想に見える私に同情しただけで……っ、だからいつか、私以外の女の子を好きに――」
ニーナが話している途中で、レオンはがっと彼女の腕を掴んだ。強く捕まれた腕に痛みが走り、ニーナは短く悲鳴を上げる。
「い……っ」
しかしその声を無視し、レオンはニーナを引きずり寄せた。もう一方の手で、彼女の顎を掴む。
外灯に照らし出された彼の顔は、血の気を失い、しかしその瞳は怒りに染まっていた。
「――何を言っている。……世迷言を吐くな、ニーナ。俺は、君を手放さない。ネーベル王国が恋しいというなら、いずれ行かせてやる。君と結婚したのち、我が国はかの国と国交締結の交渉に入る予定だ」
「――……」
ニーナはすうっと息を吸う。
――国交締結……?
恋の話をしていたはずなのに、政治的な話を持ち出され、ニーナは咄嗟に理解できなかった。けれど数秒もすれば、理解できる。
つまり、この婚約は、色恋など関係ないのだ。
彼にとってニーナは、政治政策に必要なコマ。
彼は、今まで国交が開かれなかった隣国との交渉材料にするために、青い髪の娘を選んだに過ぎなかったのだ。
――最初から、恋をしたのは、私だけだったのね……。
ニーナの瞳から、静かに涙が零れ落ちた。
「……ニーナ、泣くな」
彼は親指の腹でニーナの涙を拭うと、愛の言葉も吐かず、ニーナの唇を塞ごうとする。
「や……っ」
自分を好きでもない人に、キスなんてされたくない。
ニーナは彼の胸を押し返して拒もうとしたが、彼は大きな手のひらで後頭部を掴むと、荒々しく唇を重ねた。
「ん……っ、んぅ――」
これ以上、余計な言葉を聞きたくないと言わんばかりの、乱暴な口づけだった。
深く口内を犯されながら、ニーナはまた、涙を零す。
――一度だって、好きだと言われたことがなかったわ……。
キスはしても、彼は今まで、一言もニーナに明確な気持ちを示してこなかった。いつだって想いを告げるのはニーナからで、彼からの返答はない。
気づかないようにしていたが、それは事実、彼には愛などなかったからなのだ――。
そう理解すると、ニーナの胸はどす黒い絶望に染まり、やがて、ぽつり、と頬に冷たい滴が落ちた。ギードの出現と同時に晴れ渡った空は、再び厚い雲に覆われ、王都中に雨を降らせ始めていた。
降りしきる雨の中、ニーナは次第に、何も考えられなくなっていく。
彼の手管に、抵抗の力も失くし、唯一許される合間の吐息すら食らいつくされ、深く口づけを施され続けたのだった。
華奢な彼女の肢体を包む、清楚な、しかしながら緻密な刺繍を全面に施された、白と青のドレスが濡れていく。
それは、今宵の宴に合わせてレオンから贈られた、王太子が婚約者を大切にしていると見せかけるには十分な、贅を凝らした品だった。