10
「姫様……っ」
「レオン殿下……!」
ネーベル王国の者はニーナを救うべく魔法を行使し続け、一方、レーゲン王国の者は己の主の命を優先した。
「殿下をお守りしろ……‼」
近衛兵たちは、レオンの身を守るため彼の元へ向かい、レオンの傍近くに控えていたハンネスは剣を抜く。
「やはり、彼女は凶兆でしかない……っ」
レオンは怒声を上げる。
「やめろ、ハンネス……!」
「皆、剣を抜け! かの娘は、殿下に相応しからず! 魔力でもって殿下を攻撃している、これが証拠……‼」
近衛副隊長である彼の声は、兵らの耳により鮮明に届き、彼らは剣を抜いた。
砕け散った窓ガラスを浴び、血を流すレオンの姿が、忠誠心深い彼らの怒りに火をつけたのだ。
そこへ、アメリアを探してきたのか、ベルクマン侯爵が顔を出す。
「……これは、何事だ」
「あ、お父様……!」
傷は浅いが、ガラス片で軽く腕を切ったアメリアが、父の懐に飛び込んだ。
「アメリア……っ、これは、どうしたことか」
吹き荒れる防風の中、ベルクマン侯爵は娘の傷を心配し、アメリアは背後を指さした。
「ニーナよ……! あの子、また髪が黒くなって、急に建物が壊れだしたの。きっと私を殺そうとしてるのよ……!」
ベルクマン侯爵は聖堂の中央に目を向け、逆巻く風の中心にいるニーナに、憎悪の眼差しを向ける。
「なんと禍々しい黒髪だ……。やはりあれは魔物……っ。はようあれを斬り殺せ!」
「かの娘を討伐せよ――!」
兵たちはベルクマン侯爵の部下ではなかったが、彼の声とハンネスの指揮は時を置かずして放たれ、一斉に動き出した。
白いローブを身に纏った、レーゲン王国の人々は、その声にゆらりと振り向く。
「野蛮な……『神の愛し子』に剣を向けるか……」
誰かがそう呟くと、彼らの手に禍々しい稲光が生まれ始めた。
「脅威を排除せよ!」
「殺せ! 一刻も早く、目障りなあの娘を殺すのだ……!」
ハンネスの咆哮に、ベルクマン侯爵の我欲が滲む命令が混ざり、兵たちは走り出す。
レオンは間髪入れず、風を切って駆け出した。
「――下がれ‼ 何人たりとも彼女に刃を向けるは、許さん‼」
彼の命令と、ぎいんと刃が重なる音が上がったのは、同時だ。
誰よりも早く走り出し、ニーナの首を跳ねんとしていたハンネスの剣を、レオンは間一髪で受けとめていた。
ぎりぎりとハンネスの剣を押し返し、レオンは鋭く言い放つ。
「聞こえぬか、ハンネス。――下がれ!」
「……っ」
ハンネスは顔を歪め、その周囲で火花と稲光、怒号が上がり始める。
「姫を守れ……!」
「魔物を殺せ!」
魔法と剣が交錯し、ザシャもニーナに向かおうとする兵の相手で手一杯になっていた。
「皆、殺してはいけない……っ。我らは争いを望まない……!」
ザシャの声すら、虚しく暴風と破壊音、そして罵声の間に呑まれていく。
「殿下……っどうぞご理解ください……!」
ハンネスがそう叫び、レオンは眉間に皺を刻んだ。
「これが正しいと思っているのか、ハンネス……! 本当に、彼女が魔物に見えるか!」
レオンの背後には、ニーナがいた。
力が暴走した彼女は今、湖の中で蹲り、震えている。
鳴りやまぬ喧騒に怯え、逃げ場を失った小動物のように。
そしてその口からは、微かな声が零れ続けていた。――『力を、抑えなくては』と。
必死に己の力を抑制しようとしている彼女に気づき、ハンネスは目を見開く。剣に込められていた彼の力が、緩んだ。
だが、レオンは視界の端で捕らえた光景に、呻いた。
横合いから、別の兵がニーナに向かって剣を振り下ろそうとしていたのである。
――俺はまた、みすみす彼女の命を奪われるのか……っ。
六度もニーナを失ってきたレオンの胸に、一気に怒りが込み上げる。
何度繰り返しても、変わらない運命だった。どんなに策を巡らせても、レオンはニーナを失う。
愛しても愛しても、決して結ばれない。
まるで神が、それを望み、二人の死までの物語を楽しんでいるかのようだった。
――もう、沢山だ……!
レオンはすうっと胸一杯に息を吸い、渾身の力でもって、ハンネスの剣を弾く。
「ぐ……っ」
ぎいん、と火花を上げて、ハンネスの剣が宙へ舞い上がり、返す刀で横合いから走り寄った兵の剣も、力任せに撥ね上げた。そして彼は、叫ぶ。
「――下がれ‼ 我が命令を聞けぬ者は、我が兵にあらず‼ 貴様らの忠誠がどこにあるのか――今ここに示せ‼」
空気が割れるほどの、怒りを孕んだ声だった。
辺りはしんと静まり返り、兵たちは動きをとめる。
レオンは全員の視線を一身に浴び、その眼を鋭く光らせた。
「我はここに、戦をしに参ったのではない。友好を結ぶために来たのだ。未知のものに触れ、恐れるなとは言わぬ。だが、恐怖に目をくらませ、力でもって己の安心を得ようとするのは違う。正しきを見極めよ!」
場の空気から殺気が消え、レオンはニーナを振り返る。
未だ雨風はやまず、彼女の髪は漆黒に染まり上がっていた。
レオンは震える彼女の腕を取り、立ち上がらせる。
「……ニーナ。大丈夫だ」
濡れた体を腕に抱くと、彼女は震える吐息を零し、レオンの体温に安堵したようだった。
大丈夫だ、という声が聞こえ、ニーナは自分を包み込む体温に気づいた。
湖の中に蹲り、震えていた彼女は、レオンの力強い腕が体に回されたのを感じ、ほっと息を吐く。
「……ごめんなさい……。神様に……連れて行かれると思って……力が……」
凍える声で力の暴走を謝罪すると、レオンはそっと額に口づけた。
「君一人の責任じゃない。水が穢れ、神に返すはずの力が戻って、暴走したんだ。怖かったな……」
ニーナはレオンを見上げる。
漆黒の髪に、菫色の瞳を持つ恋人は、慈しみ深い眼差しでニーナを見返し、微笑んだ。
「俺がいるから、もう大丈夫だ。泣くな、ニーナ」
目尻に口づけられ、ニーナは肩の力を抜いた。
風が鳴りやみ、彼女の髪色が徐々に澄んだ青に戻っていく。
「……ああ、落ち着いて来たね。よかった」
少し離れた、出入り口近くにいたザシャが、優しく目を細め、魔法で聖堂を修復し始めた。
クレーメンスが、湖の向こう側から、静かに語りかける。
「皆、今宵の儀式は取りやめる。『神の愛し子』の儀式故、神が手を伸ばされ、混乱が生じた。我らは隣国と争ったのではなく、混沌の中、我を忘れただけだ。誤った記憶を残すでないぞ」
白いローブに身を包んだ人々は、クレーメンスの言葉に、深く首を垂れた。
レーゲン王国の兵らは、剣を下ろし、未だ呆然としているようだ。
争いの中、人々が持ち寄った花が散り、湖の上をゆらゆらと揺れている。
ザシャがニーナを手招いた。
「おいで、ニーナ。体が冷えただろう。着替えないとね……」
「はい……」
ニーナは頷き、レオンが腕を離し、背を押す。
「ハンネス、負傷者の確認を……」
足をとめてハンネスに指示を出すレオンの声を聞きながら、ニーナは、水の中をゆっくりとザシャに向かって歩き始めた。そしてふと、彼の背後に、見知った顔を見つけた。
冷え冷えと自分を見据える、ベルクマン侯爵である。
彼は水に濡れたニーナの肢体を眺めまわし、ぼそりと呟く。
「……容貌だけは美しい、魔性の女が……。ようやく、お前の最後が見られると思ったのに……」
彼はぶつぶつと呟きながら、ザシャの脇を通り抜けた。
この場にいる誰もが、騒動が抜けた安心感に包まれ、肩の力を抜いていた。
ニーナもその一人であり、脇を通り抜けたベルクマン侯爵を見たザシャが、ぎくりと肩を震わせるまで、何が起こるのかわかっていなかった。
「……待って、駄目だ!」
ザシャが声を上げ、ニーナはきょとんとする。
ベルクマン侯爵はザシャが伸ばした手を交わし、駆け出した。
ニーナはその手を見て、理解する。
ベルクマン侯爵は、近衛兵が落としたと見られる長剣を構えていた。
彼の強行に気づいているのは、ザシャと、ニーナだけだ。
ニーナは落胆の笑みを浮かべる。
――やっぱり、運命は変わらない……。
ベルクマン侯爵との距離は短く、彼女に逃げる時間はなかった。
鋭い光を放つ刃は、まっすぐにニーナの心臓目がけて、どん、と突き立てられた。
「お前のせいで、わしの権威も地に落ちた……っ。お前だけが幸福になるなど、許さぬ……!」
ベルクマン侯爵の呪詛が響く。
しかしニーナは、目の前の光景に、瞠目した。
どんな余裕もなかった。
ベルクマン侯爵との距離は極僅かで、彼の剣は確実にニーナの心臓に到達していた。
誰かが間に入る間も、彼の剣を弾く隙もなかった。
それなのに――。
「どうして……?」
ニーナは震える声を零し、手を伸ばす。
彼は眉尻を下げ、甘く微笑んだ。
「……すまない、ニーナ。君を守るには、もうこれしか……」
レオンはニーナの目の前で、堪えきれず、膝を折る。
ベルクマン侯爵の剣に胸を貫かれたのは、ニーナではなく、彼女の後方で指示を出していたはずの、レオンだった。
「――殿下――‼」
ハンネスの叫び声が上がり、ニーナの髪から、髪飾りがぱりんと砕け落ちた。
「なっ、なんだこれは……! 違うぞ! 私は、殿下を殺そうとしたのではない! この娘を始末しようと……っ」
ベルクマン侯爵が狼狽し、力任せに剣を抜く。
「ぐ……っ」
レオンの口の端から血が零れ落ち、彼は石の床に倒れ込んだ。
ニーナは全身を震わせ、彼の前にへたり込む。
「嘘……嘘よね……? だって死ぬのはいつも、私で……」
胸から血を流すレオンは、腕を伸ばし、ニーナの頬を撫でた。
「愛してるよ……初めて君に出会った、あの日から、ずっと、永遠に――」
「……おめでとう、ニーナ。運命が変わった」
ふわっと風が起きて、ニーナは顔を上げる。
レオンの傍らに、黒いローブを着たギードが、笑顔で立っていた。
「運命が、変わった……?」
ギードの肩にはシュネーが座っていたが、ニーナはそれよりも、彼の笑顔に眉根を寄せる。
ギードはまるで、レオンが死ぬのを喜んでいるようだった。
「そう。君たちの運命は、いつもこうだ。ニーナが心臓を貫かれて死に、そしてその後にレオンも刺客により暗殺される。でも今世は、やっとその輪廻が壊された。彼は君と自分の運命を交換する魔道具を手に入れ、そして君に変わって死ぬ。これで君はやっと、生き延びられる」
瞳に涙が浮かび上がり、ニーナは首を振って叫んだ。
「そんなの、望んでいないわ……! 私は、レオンに死んでほしくなんてない……‼ レオンがいない人生なんて、いらない……‼」
「ニーナ……生きてくれ……」
掠れた声に、はっと見下ろす。
唇を青くし、血の気を失ったレオンは、目を細めた。
「それが、俺の望みだ……」
何度も繰り返しても、恋をせずにはいられなかった恋人は、残酷な願いを口にする。
甘く微笑み、睦言を吐くのと同じように、ニーナに一人で生きろと言うのだ。
彼女は瞳から涙を零し、彼を抱き締めた。
「……嘘つき……っ。家族になろうって、言ったくせに……!」
笑顔が、忘れられない。家族になろうと言ってくれて、本当に嬉しかった。
今世ではきっと、彼と幸せな家庭を持てると思っていたのに――。
「貴方がいないと、生きていけない……っ」
レオンの手が、愛おしむようにニーナの腕を撫で、そしてぱたりと床に落ちる。
ニーナはぎくっと身を起こす。
彼の顔は白くなり、唇は青紫色に変色していた。
――本当に、死んでしまう。
心臓が凍りついたように冷え、ニーナはザシャを振り返る。
「ザシャ……何か、助ける方法はない……⁉ このままじゃ、レオンが死んじゃう……!」
愕然と事の成り行きを見守っていたザシャは、顔を歪めた。
「治癒魔法はあるけど……命そのものを救うのは、難しい。膨大な魔力が必要で……治癒魔法だけは、複合的に力を合わせることもできないから……」
この場に魔法使いは何人もいるが、治癒魔法だけは複数人で一つの処置を施せず、対処は難しい。そう言われ、ニーナは周囲を見渡した。
「なんでもいいの! お願い、レオンを助けて……!」
だが、誰もが視線を逸らし、諦めた表情をしていた。
笑顔で彼女を見ていたギードが、軽く言う。
「では君が、助けるといい」
「え……?」
ニーナは、彼の言っている意味がわからなかった。
ギードは教え子に教える教師のように、ゆっくりと話す。
「レオンを助けたいのだろう? 助けるといい。君の、魔法で」
「……私、魔法はまだ、使えない……っ」
弱々しく応じると、彼はにこっと笑みを深める。
「それなら、諦めなさい。君が助けられないと思うなら、そうなのだろう。レオンはここで死に、救われた君は、新しい人生を得るだけだ」
「――」
冷酷に現実を突きつけられ、ニーナは青ざめた。
ギードは優しい笑顔で、重ねて問う。
「ニーナ。――君は、レオンを助けたいの? それとも、諦めたいのかな? ……神がかどわかしたくなるほどの魔力を持つ君は、どちらを選ぶのだろう?」
「……っ」
ニーナは震える吐息を吐き出し、涙に濡れる視界で、レオンを見下ろした。
救いたいに決まっている。愛しているのだから。
魔法の使い方も知らないニーナは、自分にできる唯一の方法で、彼に魔法をかける。
震えて、上手くできなかったらと恐怖に鼓動を乱しながら、ニーナはそっと、レオンの唇に己のそれを重ねた。
――生きて。お願いよ。ねえ神様、一度だけでいいの。レオンと、家族になりたい……!
嗚咽を堪え、唇から魔力を吹き込む。
身に宿る全ての魔力を差し出したっていい。そう強く願い、永遠とも感じられる長い間、彼女はレオンに口づけ続けた。
人々は身動き一つせず、ニーナを見守る。血だまりの中、人形のように床に転がっていたレオンの指先が、ぴくりと動き、ギードがふっと笑った。
「……うん。十分だよ」
「…………」
ニーナは唇を離し、レオンを見つめる。瞼が揺れ、その肌には僅かだが、血色が戻ったようだった。
ギードはニーナの頭を、優しく撫でる。
「すぐには無理だろうけれど、数日もすれば、きっと目を覚ますよ。魔力をたくさん使って、君も苦しいだろう?」
ニーナの体は、血の気を失い、冷え切っていた。視界は朦朧とし、今にも意識を手放しそうだ。
ギードはそんな彼女の顔を覗き込み、涙で濡れた目尻にキスをする。
「幸せにおなり。お父様は、お前の幸福だけを願っているから」
「……お父様……?」
昔、母に聞いた。
赤子の頃、泣くニーナを慰めるために、父はよく目尻にキスをしていたそうだ。
大きくなっても、父はそれをやめず、ニーナはすっかり当たり前にキスを受けるようになっていた。
ギードのキスは、父のキスを思い起こさせて、懐かしい。
顔や声は違うのに、どうしてかしら――。
ニーナは不思議な気持ちで、彼の顔を見上げた。
ギードは温かな笑顔を浮かべ、そして彼女は、間もなく意識を手放したのだった。




