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「姫様……っ」

「レオン殿下……!」

 ネーベル王国の者はニーナを救うべく魔法を行使し続け、一方、レーゲン王国の者は己の主の命を優先した。

「殿下をお守りしろ……‼」

 近衛兵たちは、レオンの身を守るため彼の元へ向かい、レオンの傍近くに控えていたハンネスは剣を抜く。

「やはり、彼女は凶兆でしかない……っ」

 レオンは怒声を上げる。

「やめろ、ハンネス……!」

「皆、剣を抜け! かの娘は、殿下に相応ふさわしからず! 魔力でもって殿下を攻撃している、これが証拠……‼」

 近衛副隊長である彼の声は、兵らの耳により鮮明に届き、彼らは剣を抜いた。

 砕け散った窓ガラスを浴び、血を流すレオンの姿が、忠誠心深い彼らの怒りに火をつけたのだ。

 そこへ、アメリアを探してきたのか、ベルクマン侯爵が顔を出す。

「……これは、何事だ」

「あ、お父様……!」

 傷は浅いが、ガラス片で軽く腕を切ったアメリアが、父の懐に飛び込んだ。

「アメリア……っ、これは、どうしたことか」

 吹き荒れる防風の中、ベルクマン侯爵は娘の傷を心配し、アメリアは背後を指さした。

「ニーナよ……! あの子、また髪が黒くなって、急に建物が壊れだしたの。きっと私を殺そうとしてるのよ……!」

 ベルクマン侯爵は聖堂の中央に目を向け、逆巻く風の中心にいるニーナに、憎悪の眼差しを向ける。

「なんと禍々しい黒髪だ……。やはりあれは魔物……っ。はようあれを斬り殺せ!」

「かの娘を討伐せよ――!」

 兵たちはベルクマン侯爵の部下ではなかったが、彼の声とハンネスの指揮は時を置かずして放たれ、一斉に動き出した。

 白いローブを身に纏った、レーゲン王国の人々は、その声にゆらりと振り向く。

「野蛮な……『神の愛し子』に剣を向けるか……」

 誰かがそう呟くと、彼らの手に禍々しい稲光が生まれ始めた。

「脅威を排除せよ!」

「殺せ! 一刻も早く、目障りなあの娘を殺すのだ……!」

 ハンネスの咆哮に、ベルクマン侯爵の我欲が滲む命令が混ざり、兵たちは走り出す。

 レオンは間髪入れず、風を切って駆け出した。

「――下がれ‼ 何人たりとも彼女に刃を向けるは、許さん‼」

 彼の命令と、ぎいんと刃が重なる音が上がったのは、同時だ。

 誰よりも早く走り出し、ニーナの首を跳ねんとしていたハンネスの剣を、レオンは間一髪で受けとめていた。

 ぎりぎりとハンネスの剣を押し返し、レオンは鋭く言い放つ。

「聞こえぬか、ハンネス。――下がれ!」

「……っ」

 ハンネスは顔を歪め、その周囲で火花と稲光、怒号が上がり始める。

「姫を守れ……!」

「魔物を殺せ!」

 魔法と剣が交錯し、ザシャもニーナに向かおうとする兵の相手で手一杯になっていた。

「皆、殺してはいけない……っ。我らは争いを望まない……!」

 ザシャの声すら、虚しく暴風と破壊音、そして罵声の間に呑まれていく。

「殿下……っどうぞご理解ください……!」

 ハンネスがそう叫び、レオンは眉間に皺を刻んだ。

「これが正しいと思っているのか、ハンネス……! 本当に、彼女が魔物に見えるか!」

 レオンの背後には、ニーナがいた。

 力が暴走した彼女は今、湖の中でうずくまり、震えている。

 鳴りやまぬ喧騒に怯え、逃げ場を失った小動物のように。

 そしてその口からは、微かな声が零れ続けていた。――『力を、抑えなくては』と。

 必死に己の力を抑制しようとしている彼女に気づき、ハンネスは目を見開く。剣に込められていた彼の力が、緩んだ。

 だが、レオンは視界の端で捕らえた光景に、呻いた。

 横合いから、別の兵がニーナに向かって剣を振り下ろそうとしていたのである。

 ――俺はまた、みすみす彼女の命を奪われるのか……っ。

 六度もニーナを失ってきたレオンの胸に、一気に怒りが込み上げる。

 何度繰り返しても、変わらない運命だった。どんなに策を巡らせても、レオンはニーナを失う。

 愛しても愛しても、決して結ばれない。

 まるで神が、それを望み、二人の死までの物語を楽しんでいるかのようだった。

 ――もう、沢山だ……!

 レオンはすうっと胸一杯に息を吸い、渾身の力でもって、ハンネスの剣を弾く。

「ぐ……っ」

 ぎいん、と火花を上げて、ハンネスの剣が宙へ舞い上がり、返す刀で横合いから走り寄った兵の剣も、力任せに撥ね上げた。そして彼は、叫ぶ。

「――下がれ‼ 我が命令を聞けぬ者は、我が兵にあらず‼ 貴様らの忠誠がどこにあるのか――今ここに示せ‼」

 空気が割れるほどの、怒りを孕んだ声だった。

 辺りはしんと静まり返り、兵たちは動きをとめる。

 レオンは全員の視線を一身に浴び、その眼を鋭く光らせた。

「我はここに、戦をしに参ったのではない。友好を結ぶために来たのだ。未知のものに触れ、恐れるなとは言わぬ。だが、恐怖に目をくらませ、力でもって己の安心を得ようとするのは違う。正しきを見極めよ!」

 場の空気から殺気が消え、レオンはニーナを振り返る。

 未だ雨風はやまず、彼女の髪は漆黒に染まり上がっていた。

 レオンは震える彼女の腕を取り、立ち上がらせる。

「……ニーナ。大丈夫だ」

 濡れた体を腕に抱くと、彼女は震える吐息を零し、レオンの体温に安堵したようだった。



 大丈夫だ、という声が聞こえ、ニーナは自分を包み込む体温に気づいた。

 湖の中に蹲り、震えていた彼女は、レオンの力強い腕が体に回されたのを感じ、ほっと息を吐く。

「……ごめんなさい……。神様に……連れて行かれると思って……力が……」

 凍える声で力の暴走を謝罪すると、レオンはそっと額に口づけた。

「君一人の責任じゃない。水が穢れ、神に返すはずの力が戻って、暴走したんだ。怖かったな……」

 ニーナはレオンを見上げる。

 漆黒の髪に、菫色の瞳を持つ恋人は、慈しみ深い眼差しでニーナを見返し、微笑んだ。

「俺がいるから、もう大丈夫だ。泣くな、ニーナ」

 目尻に口づけられ、ニーナは肩の力を抜いた。

 風が鳴りやみ、彼女の髪色が徐々に澄んだ青に戻っていく。

「……ああ、落ち着いて来たね。よかった」

 少し離れた、出入り口近くにいたザシャが、優しく目を細め、魔法で聖堂を修復し始めた。

 クレーメンスが、湖の向こう側から、静かに語りかける。

「皆、今宵の儀式は取りやめる。『神の愛し子』の儀式故、神が手を伸ばされ、混乱が生じた。我らは隣国と争ったのではなく、混沌の中、我を忘れただけだ。誤った記憶を残すでないぞ」

 白いローブに身を包んだ人々は、クレーメンスの言葉に、深く首を垂れた。

 レーゲン王国の兵らは、剣を下ろし、未だ呆然としているようだ。

 争いの中、人々が持ち寄った花が散り、湖の上をゆらゆらと揺れている。

 ザシャがニーナを手招いた。

「おいで、ニーナ。体が冷えただろう。着替えないとね……」

「はい……」

 ニーナは頷き、レオンが腕を離し、背を押す。

「ハンネス、負傷者の確認を……」

 足をとめてハンネスに指示を出すレオンの声を聞きながら、ニーナは、水の中をゆっくりとザシャに向かって歩き始めた。そしてふと、彼の背後に、見知った顔を見つけた。

 冷え冷えと自分を見据える、ベルクマン侯爵である。

 彼は水に濡れたニーナの肢体を眺めまわし、ぼそりと呟く。

「……容貌だけは美しい、魔性の女が……。ようやく、お前の最後が見られると思ったのに……」

 彼はぶつぶつと呟きながら、ザシャの脇を通り抜けた。

 この場にいる誰もが、騒動が抜けた安心感に包まれ、肩の力を抜いていた。

 ニーナもその一人であり、脇を通り抜けたベルクマン侯爵を見たザシャが、ぎくりと肩を震わせるまで、何が起こるのかわかっていなかった。

「……待って、駄目だ!」

 ザシャが声を上げ、ニーナはきょとんとする。

 ベルクマン侯爵はザシャが伸ばした手を交わし、駆け出した。

 ニーナはその手を見て、理解する。

 ベルクマン侯爵は、近衛兵が落としたと見られる長剣を構えていた。

 彼の強行に気づいているのは、ザシャと、ニーナだけだ。

 ニーナは落胆の笑みを浮かべる。

 ――やっぱり、運命は変わらない……。

 ベルクマン侯爵との距離は短く、彼女に逃げる時間はなかった。

 鋭い光を放つ刃は、まっすぐにニーナの心臓目がけて、どん、と突き立てられた。

「お前のせいで、わしの権威も地に落ちた……っ。お前だけが幸福になるなど、許さぬ……!」

 ベルクマン侯爵の呪詛が響く。

 しかしニーナは、目の前の光景に、瞠目した。

 どんな余裕もなかった。

 ベルクマン侯爵との距離は極僅かで、彼の剣は確実にニーナの心臓に到達していた。

 誰かが間に入る間も、彼の剣を弾く隙もなかった。

 それなのに――。

「どうして……?」

 ニーナは震える声を零し、手を伸ばす。

 彼は眉尻を下げ、甘く微笑んだ。

「……すまない、ニーナ。君を守るには、もうこれしか……」

 レオンはニーナの目の前で、堪えきれず、膝を折る。

 ベルクマン侯爵の剣に胸を貫かれたのは、ニーナではなく、彼女の後方で指示を出していたはずの、レオンだった。

「――殿下――‼」

 ハンネスの叫び声が上がり、ニーナの髪から、髪飾りがぱりんと砕け落ちた。

「なっ、なんだこれは……! 違うぞ! 私は、殿下を殺そうとしたのではない! この娘を始末しようと……っ」

 ベルクマン侯爵が狼狽し、力任せに剣を抜く。

「ぐ……っ」

 レオンの口の端から血が零れ落ち、彼は石の床に倒れ込んだ。

 ニーナは全身を震わせ、彼の前にへたり込む。

「嘘……嘘よね……? だって死ぬのはいつも、私で……」

 胸から血を流すレオンは、腕を伸ばし、ニーナの頬を撫でた。

「愛してるよ……初めて君に出会った、あの日から、ずっと、永遠に――」

「……おめでとう、ニーナ。運命が変わった」

 ふわっと風が起きて、ニーナは顔を上げる。

 レオンの傍らに、黒いローブを着たギードが、笑顔で立っていた。

「運命が、変わった……?」

 ギードの肩にはシュネーが座っていたが、ニーナはそれよりも、彼の笑顔に眉根を寄せる。

 ギードはまるで、レオンが死ぬのを喜んでいるようだった。

「そう。君たちの運命は、いつもこうだ。ニーナが心臓を貫かれて死に、そしてその後にレオンも刺客により暗殺される。でも今世は、やっとその輪廻が壊された。彼は君と自分の運命を交換する魔道具を手に入れ、そして君に変わって死ぬ。これで君はやっと、生き延びられる」

 瞳に涙が浮かび上がり、ニーナは首を振って叫んだ。

「そんなの、望んでいないわ……! 私は、レオンに死んでほしくなんてない……‼ レオンがいない人生なんて、いらない……‼」

「ニーナ……生きてくれ……」

 掠れた声に、はっと見下ろす。

 唇を青くし、血の気を失ったレオンは、目を細めた。

「それが、俺の望みだ……」

 何度も繰り返しても、恋をせずにはいられなかった恋人は、残酷な願いを口にする。

 甘く微笑み、睦言を吐くのと同じように、ニーナに一人で生きろと言うのだ。

 彼女は瞳から涙を零し、彼を抱き締めた。

「……嘘つき……っ。家族になろうって、言ったくせに……!」

 笑顔が、忘れられない。家族になろうと言ってくれて、本当に嬉しかった。

 今世ではきっと、彼と幸せな家庭を持てると思っていたのに――。

「貴方がいないと、生きていけない……っ」

 レオンの手が、愛おしむようにニーナの腕を撫で、そしてぱたりと床に落ちる。

 ニーナはぎくっと身を起こす。

 彼の顔は白くなり、唇は青紫色に変色していた。

 ――本当に、死んでしまう。

 心臓が凍りついたように冷え、ニーナはザシャを振り返る。

「ザシャ……何か、助ける方法はない……⁉ このままじゃ、レオンが死んじゃう……!」

 愕然と事の成り行きを見守っていたザシャは、顔を歪めた。

「治癒魔法はあるけど……命そのものを救うのは、難しい。膨大な魔力が必要で……治癒魔法だけは、複合的に力を合わせることもできないから……」

 この場に魔法使いは何人もいるが、治癒魔法だけは複数人で一つの処置を施せず、対処は難しい。そう言われ、ニーナは周囲を見渡した。

「なんでもいいの! お願い、レオンを助けて……!」

 だが、誰もが視線を逸らし、諦めた表情をしていた。

 笑顔で彼女を見ていたギードが、軽く言う。

「では君が、助けるといい」

「え……?」

 ニーナは、彼の言っている意味がわからなかった。

 ギードは教え子に教える教師のように、ゆっくりと話す。

「レオンを助けたいのだろう? 助けるといい。君の、魔法で」

「……私、魔法はまだ、使えない……っ」

 弱々しく応じると、彼はにこっと笑みを深める。

「それなら、諦めなさい。君が助けられないと思うなら、そうなのだろう。レオンはここで死に、救われた君は、新しい人生を得るだけだ」

「――」

 冷酷に現実を突きつけられ、ニーナは青ざめた。

 ギードは優しい笑顔で、重ねて問う。

「ニーナ。――君は、レオンを助けたいの? それとも、諦めたいのかな? ……神がかどわかしたくなるほどの魔力を持つ君は、どちらを選ぶのだろう?」

「……っ」

 ニーナは震える吐息を吐き出し、涙に濡れる視界で、レオンを見下ろした。

 救いたいに決まっている。愛しているのだから。

 魔法の使い方も知らないニーナは、自分にできる唯一の方法で、彼に魔法をかける。

 震えて、上手くできなかったらと恐怖に鼓動を乱しながら、ニーナはそっと、レオンの唇に己のそれを重ねた。

 ――生きて。お願いよ。ねえ神様、一度だけでいいの。レオンと、家族になりたい……!

 嗚咽を堪え、唇から魔力を吹き込む。

 身に宿る全ての魔力を差し出したっていい。そう強く願い、永遠とも感じられる長い間、彼女はレオンに口づけ続けた。

 人々は身動き一つせず、ニーナを見守る。血だまりの中、人形のように床に転がっていたレオンの指先が、ぴくりと動き、ギードがふっと笑った。

「……うん。十分だよ」

「…………」

 ニーナは唇を離し、レオンを見つめる。瞼が揺れ、その肌には僅かだが、血色が戻ったようだった。

 ギードはニーナの頭を、優しく撫でる。

「すぐには無理だろうけれど、数日もすれば、きっと目を覚ますよ。魔力をたくさん使って、君も苦しいだろう?」

 ニーナの体は、血の気を失い、冷え切っていた。視界は朦朧とし、今にも意識を手放しそうだ。

 ギードはそんな彼女の顔を覗き込み、涙で濡れた目尻にキスをする。

「幸せにおなり。お父様は、お前の幸福だけを願っているから」

「……お父様……?」

 昔、母に聞いた。

 赤子の頃、泣くニーナを慰めるために、父はよく目尻にキスをしていたそうだ。

 大きくなっても、父はそれをやめず、ニーナはすっかり当たり前にキスを受けるようになっていた。

 ギードのキスは、父のキスを思い起こさせて、懐かしい。

 顔や声は違うのに、どうしてかしら――。

 ニーナは不思議な気持ちで、彼の顔を見上げた。

 ギードは温かな笑顔を浮かべ、そして彼女は、間もなく意識を手放したのだった。



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