9
星湖を収めた聖堂に入ったニーナは、ずらりと並んだ白装束の面々に、目を丸くした。
湖の周囲を、フードを目深に被った人々が取り囲んでいる。
聖堂の出入り口から湖へ続く石の回廊の先を見ると、湖を挟んだ向こう側には、白の上下に外套、そして王冠を被ったネーベル国王・クレーメンスが佇んでいた。
彼はニーナと視線が合うと微笑み、頷いてみせる。
ニーナの後ろについていたレオンは、出入り口の脇によけ、これからの儀式を静観する構えを見せた。
聖堂の中を見渡すと、湖を取り囲む人々のその外側に、レオンが率いてきた近衛兵の面々もおり、彼らもレオン同様、腰に剣を佩びていた。
ネーベル王国の人間が柔らかな白のローブをまとっているのに対し、レーゲン王国の人々は物々しい黒の軍服だ。
魔法の国と軍事国家の違いが如実に表れた光景に、ニーナはこくりと喉を鳴らす。
十七歳になることは、ニーナにとって凶事の始まりでしかなかった。
いつの人生でも、彼女は十七歳で死ぬ。
その運命を知る彼女にとってこの光景は、あたかも、己の弔いの儀をするかのようにすら感じ、身がすくんだ。
ニーナの手を引くザシャが、彼女を見下ろし、瞳を細める。
「大丈夫だよ。難しいことはない。ここで靴を脱ぎ、この石の回廊をまっすぐ進んで、湖に入る。湖の中央で跪き、簪で指を突いて血を一滴水に落とすんだ。あまり多く落としてはいけない。血が多いと、魔力をより多く取り上げられてしまうと言われているから」
「はい」
「その後、皆が花を湖に浮かべ、祝福の灯を天井に放つと、それでお終い。途中、風が吹いたり、水が揺れたりしても、怯える必要はないよ。落ち着いて湖から出て来るんだ。これが一番大事。必ず、湖から出て来るんだよ、いいね……?」
事前に説明してくれていた内容を、もう一度簡潔に言って聞かせ、ザシャはニーナの背を押した。
聖堂の出入り口から湖までは、白の大理石で通路が設けられている。
一歩前に出たニーナは、靴を脱ぎ、裸足になる。
天井には満天の星。聖堂の周囲は灯火で照らし出され、ゆらゆらと揺れる灯りの元、人々は合図もないのに、その場に膝を折り始めた。ニーナが一歩進むごとに、彼女に近い者から膝を折り、床に額づいていく。
光沢のある、ニーナのドレスが灯火の灯りを反射し、その光に髪が煌めいた。
耳から下げたイヤリングが、歩くごとにシャラリと涼やかな音を立て、聖堂の中に響く。
ニーナは浅い呼吸を繰り返しながら、湖へ向かった。
時間としてはほんの数十秒だっただろう。
しかしニーナには数分にも感じられる歩みの後、ぴちゃり、と水音を立てて、彼女の足先が湖に届いた。
水に触れた箇所から、体温が奪われる錯覚を覚え、彼女はびくっと肩を揺らす。
肌はすぐに水の温度に慣れ、彼女はまた一歩水の中に足を進めた。
湖は浅く、奥に進むごとに深さは増すが、中央に立っても、その深さはふくらはぎ辺りに留まる。
星空が沈む水面を見下ろし、ニーナは膝を折る。ドレスの裾から沁み込んだ水が這い登り、布地が肌に張りつく。
腰に届く彼女の髪も水に濡れ、それは少女の沐浴とも取れる光景になった。
白磁の肌が布地越しに透け、ニーナは水に浸していた手を簪に伸ばす。
彼女の指先から、ぽちゃり、と水がしたたり落ち、腕を伝う水は肩を濡らした。
肩から胸にかけて水が沁み込んでいくのを感じながら、ニーナは簪を己の指先に宛がう。
自らを傷つける行為に、彼女の心臓が鼓動を速めた。
――大丈夫。軽く、刺すだけ。
ニーナは緊張し、唇を噛む。
その時、すうっと彼女の周囲に冷たい風が流れた。
濡れた衣に身を包んでいたニーナは、その風に肩を震わせ、しかし集中しなくては、と手に力を込めた。
と、静まり返った聖堂内に無遠慮な少女の声が響き渡った。
「――まあ、いやだ。なあにこれ。皆でニーナの水浴びを眺めているの? いやらしい」
「――っ」
アメリアの高い声に、ニーナはひゅっと息を呑み、力加減を誤る。
傷をつけるために、先端を尖らせていた簪は、指先を滑り、手のひらを縦に深く切り裂いたのだ。
ぱたた、と一滴どころではない血が湖に零れ落ち、ニーナは痛みに顔を顰めた。
ひゅうっと先程よりも強い風が吹き、背後でザシャの声が聞こえる。
「下がりなさい。君はここに招いていない……」
「貴方がこの変な行事の主催なの? この後何が始まるのかしら。ニーナは娼婦にでもなったの? これから皆さんのお相手をするとか?」
嘲笑を孕んだその質問は、ニーナを不快にさせた。
アメリアの目には、ニーナは娼婦へ身を落とそうとしているように見えるのだ。
そして彼女はそれを、喜んでいる。
ニーナは血がとまらない手を押さえ、乱れそうになる自分の感情を抑えた。
心が乱れれば、天候に影響を与える。あんな些細な揶揄に、傷ついてどうする。
ニーナは深く息を吸い、湖面を見つめた。
儀式はこのあと何をするのだったかしら、と考え、そうだ、と視線を上げる。
血を湖に落としたら、次は周囲にいる人々が花を湖に浮かべるのだ。
しかしニーナは、人々の姿がはっきりと見えず、目を瞬いた。
いつの間にか、辺りに白い靄が生まれ、視界を掻き消そうとしていた。
「待て、ザシャ殿。それよりも、これは正常なのか」
レオンの声が聞こえ、次いでクレーメンスの太い声が上がった。
「――いかん。霧を払え!」
姿は見えないが、周りで人が立ち上がる衣擦れの音が聞こえる。
呪文を呟く声が響き始め、ニーナは立ち上がろうとした。
しかし膝から下に力が入らず、湖の中にへたり込む。
ニーナは水音をたて、湖の底に手をついた。
――どういうこと……?
星空が沈む底に手の傷が触れ、痛みが走る。同時に、ニーナの周囲の水が不自然に波打ち始め、ニーナはぞっとした。
『――時々、神は人の子を攫う』
『儀式の最中に深い霧が生まれ、人の目がその子を見失った瞬間に、忽然と消えてしまったらしい』
ザシャの言葉が耳に蘇り、恐怖が足元から這い上る。
――嫌。私は、レオンと一緒に生きたい……っ。
そう思った瞬間、突如周囲の水が天井へ向けて勢いよく逆流した。
「――いやぁ!」
ニーナは思わず悲鳴を上げ、周囲からどよめきと、驚愕の声が上がる。
「ニーナ! 無事か……⁉」
レオンが確認しようとするも、ザシャが制止した。
「待ちなさい、むやみに動くな! 儀式の最中に他者が湖に入っては、水が穢れる。神が取り上げるはずの魔力が残り、力が暴走してしまう……!」
「しかし……っ」
天井へ伸び上がった水は飛沫を広げ、あちこちの灯火を消していく。
どんどん闇に呑み込まれ、ニーナは震えた。
「……火を、消さないで……っ」
「――水飛沫はよい、霧を消し続けよ! 見失えば、奪われるぞ……っ」
クレーメンスの怒声に似た声が響き渡り、ニーナは身を強張らせる。
ぴちゃり、と手前で水滴が落ちる音が聞こえ、彼女は視線を下げた。
彼女の腹の前にある湖面に、漆黒の闇がぽっかりと口を開けていた。
ざあっと全身の血の気が下がり、ニーナは総毛立つ。
――呑み込まれたら、終わり。
本能的に、その闇に触れてはいけないと感じ、後退るも、恐怖心は押さえきれず、ニーナの髪が漆黒に染まり始めた。
ごう、と風が吹く音がした。
ざああ、と雨粒が屋根を打つ音も響き始め、しかし混乱した彼女は、まともに思考できない。
頭は真っ白で、ただ震え、神の手から逃れる術ばかりを探そうとした。
その時、ガシャン、と窓が割れる音が上がった。
窓は立て続けに割れ続け、聖堂の中に悲鳴が上がる。
「皆、取り乱すな……! 湖に足を踏み入れてはいけない……!」
ザシャの警告は、悲鳴に掻き消される。
あちこちで水音が跳ねる音がして、多くの人の足が湖に入った。
それを感じた刹那――ニーナは目を見開いた。
心臓が大きく跳ね上がり、血が逆流するような圧を感じる。
全身の血という血が逆流し、ニーナは仰け反った。
ザシャと共に練習していた時は、ほんの微かにしか感じていなかった身の内の魔力が、全身から放たれた。
「――いやああぁああ!」
ニーナの悲鳴に合わせるように、その場の空気が暴風となって渦巻き、触れるもの全てをなぎ倒していく。柱も、壁も、天井も――人さえも。
「――く……っ、ニーナ……!」
「ニーナ、落ち着いて……っ」
レオンとザシャの声は、彼女に届かなった。
胸が苦しく、体中が熱を帯び、まともに息ができない。
ニーナの魔力が生んだ風に、霧がかき消され、彼女の姿が浮かび上がった。
魔力を暴走させ、目を見開いて悲鳴を上げ続ける彼女の姿は、まるで忌まわしい力を放って人々を攻撃する、凶悪な存在に見えた。
平静を失った思考の片隅で、ニーナは思う。
――力を抑えなくては、いけないのに。




