3
ノックもなく部屋に入った少女は、ニーナの顎先と腰に触れていたレオンの手が離されていく様を目にし、ぱちっと瞬く。
「……あっ、お、お邪魔しちゃった……?」
初心な少女丸出しで、彼女は赤くした顔を両手で覆った。
愛らしい仕草に、レオンは苦笑する。
「他人の部屋に入る時は、ノックをしてから入るようにしなさい、アメリア」
しようのない奴だ、と呆れ交じりに、しかし優しい声で窘められると、彼女は両手を下ろし、赤い顔ではにかんで笑った。
「はあい! それより、お昼はもう食べた? 今日のお昼は、お父様が狩りで仕留めた鳥を使ったスープなの。一緒に食べましょう?」
レオンが立ち上がると、彼女はすかさず近づき、彼の腕に飛びつく。
「アメリア。男に抱き着くのははしたないと、何度も言っただろう」
レオンがその仕草を咎め、腕から彼女を引き剥がそうとするも、手つきは柔らかく、アメリアは嬉しそうだ。
彼女――アメリアは、ニーナの叔父・ベルクマン侯爵の長女である。今年十五歳になった彼女は、かつてのニーナのように明るく、邪気のない素直な女の子だった。
血縁上では、ニーナとアメリアはいとこにあたる。しかしニーナは五歳の折に両親を亡くして以降、ベルクマン侯爵家へ引き取られ、アメリアとは一応、姉妹のように育てられていた。
「だって、レオン殿下が来てくださって、とても嬉しいのだもの! ねえいいでしょう?」
アメリアが甘えた声で言うと、レオンは笑んだ。
「ああ、わかった。だが食事の後は、ニーナと二人で過ごしたいから、邪魔しないと約束しなさい。この間みたいに、ずっとゲームの相手をねだるのはナシだ」
レオンが、大人びた笑みと、柔らかな口調で要望を伝えると、アメリアはぷうっと頬を膨らませる。
「レオン殿下ったら、アミーを邪魔者みたいに言って、酷い! ねえニーナもそう思うでしょう?」
自らをその愛称で呼び、アメリアはニーナに同意を求めた。ニーナは、年下のいとこを常と変わらず甘やかそうとして、しかし上手く笑えなかった。頬が引きつり、心臓が速い鼓動を打って、全身が緊張する。体中から体温が引いていき、集中しないと震えてしまいそうだった。
ニーナの視線は、レオンの腕に絡みついた、アメリアの細腕に注がれる。
――やっぱり、貴女よね……。
何度も繰り返した前世の記憶を思い出し、ニーナはどうしようもない焦燥を覚えた。
――レオンはいつだって、彼に横恋慕している女性に心移りする。
ニーナはいつの人生も、彼に横恋慕している女性に気づいていた。そして絶対に、その女性がレオンを取っていくのだ。
今世では、それはきっとアメリアだ。
「ニーナ、どうかした?」
普段のように同意しないニーナを訝しみ、アメリアが首を傾げた。
その表情を見て、ニーナは曇りそうになる自分の表情を、なんとか平静に保つ。
アメリアは、可愛らしい女の子だ。屈託もなくレオンに触れ、甘え、懐く。レオンもそれを窘めながらも、きつく叱りはせず、受け入れていた。
――きっとアメリアこそが、レオンの心を射止めるのだ。
ずっとレオンに触れたままでいるアメリアは、時が過ぎる毎に頬を赤くしていく。無邪気を装っていても、好きな異性に触れているから、意識してしまうのだろう。
その些細な反応さえ、初心で可愛いと思う。
――そうよアメリア。貴女は可愛くて素直。だからこれは、神の定めた運命なの。
ニーナは、唇をゆっくりと動かし、淡く微笑んだ。
開け放たれた窓から風が入り込み、彼女の髪を艶やかに揺らした。
「……そうね、アミー。貴女は邪魔者なんかじゃないわ」
――いつだって、邪魔者は私なの。
青い髪が、眩く光を弾いて揺れる。光を弾く髪に、澄んだ青い瞳。淑やかな笑みを浮かべる彼女は、一幅の絵画に描かれた天女のように美しかった。
レオンとアメリアはその様に目を奪われたが、当人は悲しさで歪みそうな顔を隠すため、すぐさま俯く。視界の端に白い影が走り、彼女はほんの少しだけ、ほっとした。
艶やかな白色の毛並みを持つ愛猫が、窓辺から部屋に入り込み、足元にすり寄っていた。
「……シュネー」
ニーナは愛猫を抱き上げる。そしてそのまま、レオンとアメリアの脇を通り抜けた。腕を組んだ二人から、目を逸らすいい口実だと思った。だがレオンは、目ざとく彼女の手首を掴む。
「ニーナ、どこにいく?」
引き留められ、ニーナは彼を見返す。その顔に滲んだ嫌悪感に、彼は気づいただろうか。
――いずれ私を裏切る、移り気な恋人。
レオンは不思議そうにニーナを見つめ、アメリアはうっとりと彼の横顔を見上げていた。
恋する乙女の横顔を見て、ニーナは目尻に涙を滲ませる。
裏切られた挙句、お前などいらないと言われるのは、もうまっぴらだった。その上、十七歳になったら殺されるなんて、割に合わない。
アメリアとレオンの親密さから考えると、また妊娠したなんて聞かされる可能性だって高い。
ニーナはすうっと息を吸い込み、俯いた。目尻に滲んだ涙を、気づかれぬように拭い取り、優しい言葉を吐き出す。
「昼食を一緒に取るのでしょう? せっかくだから、どうぞアメリアをエスコートしてあげてください。彼女も来月には社交界デビューだから、男性のエスコートに慣れなくてはいけないもの」
アメリアが「きゃあ!」と嬉しそうに声を上げ、レオンを見上げた。
「そうよ、私あと一か月もしたら、社交界デビューなの。ねえ、レオン殿下。アミーのファーストダンスのお相手をしてくださる?」
アメリアは、一国の王太子にファーストダンスを申し込むことがいかに重大なことか、知らない。
やんごとない身分の人間は、特定の人間を特別扱いしていると思わせないよう、周到に計算して行動するものだった。デビュタントのファーストダンスの相手など、そんな特別対応ができるはずもない。
レオンは平静に応じた。
「いや、それは難しい――」
「――お父様からも、お願いしていたわよね!」
否定しようとしたレオンに、アメリアは重ねて声をかける。それを見たニーナは、彼女の表情に違和感を覚えた。純真無垢な顔をしていた彼女の瞳が、ぎらっと鋭く光った気がしたのだ。
レオンはアメリアを見下ろし、やや躊躇ったあと、ため息交じりに頷く。
「……そうだったな。時間があえば、対応しよう」
ニーナは驚きを隠せず、レオンを見返した。彼は何も言わず、視線を逸らす。
その気まずい横顔に、ニーナもまた、視線を逸らした。震えそうになる体をなんとかいなし、踵を返す。
六度も繰り替えした運命の再来を、感じずにはいられなかった。
――……もう、運命が動き出そうとしている。
これから始まる、恋人の裏切りと、迫りくる自らの死を意識し、ニーナは目の前が真っ暗になる思いだった。
部屋の扉に手をかけ、絶望に呑み込まれかけた彼女は、自分を落ち着かせようと、心の中で自らに話しかける。
――大丈夫よ、ニーナ。私はまだ、生きてるじゃない。
込み上げかけた涙をぐっと呑み込み、音にならぬよう、震える息を吐きだした。
――この運命の連鎖は、きっと変えられないだろうけれど。
六度も続けは、わかる。レオンは必ず、ニーナ以外の女性に恋をするのだ。
でも、それなら、変えるべきは何――?
ニーナはドアノブを見つめ、こくりと唾を飲み下した。
――変えるべきは、自分だろう。
決して叶わなかった、恋。
――この恋は、もう諦めるべきなのよ。
流れに抗わず、アメリアを選ぶと言われたら、素直に聞き入れよう。そうすればきっと、死は免れる――。
そう考え、彼女は扉を開けた。そして再び、内心で首を振る。
――違う。そうじゃない。それは前回の人生でやったじゃない。それでも私は、殺された。
ニーナの腕の中で、白猫が身じろぐ。頭が真っ白になった彼女は、シュネーを見下ろし、唐突に頭をよぎった考えを、吟味もせず呟いた。
「……そうだ。私から、婚約破棄を申し入れたら……」
ニーナを見返していたシュネーの瞳孔が、驚いたように真っ黒に染まる。
思いついた言葉は、突拍子もなく、しかしすとんと腑に落ちる答えだった。
これまでは、レオンの真意を問い、諦めず縋り続けた。前回は、レオンを諦め、身を引いた。それでも駄目だったのだから、今世では、これまでしなかった、自ら婚約を辞退してみるという選択をしたら――?
背後から、アメリアとレオンが朗らかに話す声が聞こえた。
「アミーね、この間刺繍をしたのよ。あとで見てくださる、レオン殿下?」
「そうか。以前の芋虫よりマシになっているといいがな」
「もう! あれは芋虫じゃなくて葉っぱだって言ったでしょ、意地悪……!」
レオンの優しい笑い声が聞こえ、ニーナはキュッと唇を引き結んだ。ニーナの、一世一代の妙案は、彼らには聞こえていなかったらしい。
彼女は目を閉じ、ツンと鼻を高く上げる。そうしないと、涙が零れてしまいそうだった。
何度捨てられた記憶があろうと、今世の恋は今世のものである。
ニーナは今も、レオンが大好きだった。婚約者にと言われた日は嬉しかったし、未だに彼が好きなのだ。だって彼はまだ、ニーナを裏切ってはいない。
ニーナにとってレオンは、唯一無二の、愛しい青年のままだった。
本当は、婚約破棄なんてしたくない。別れを想像するだけで、両手で顔を覆って、泣いてしまいたくなる。けれど、同じ悲しみを味わうのは嫌だった。
ニーナは二度と、彼の浮気を見たくないのだ。
彼女は自分を奮い立たせるため、心の中で、負けん気強く言い放つ。
――いいの。私は、新しい人生を選択するの。もう、浮気者なんて追いかけない! 今世は、私から婚約破棄を言い渡すのよ!
その時、春風に揺れる、青く澄んだ彼女の髪先が一瞬、どす黒く変色した。彼女の愛猫が、金色の瞳を細め、背を伸ばす。シュネーはニーナを慰めるかのように細く甘い声で鳴き、彼女の頬に額を擦りつけた。彼女の髪色は、何事もなかったように元の澄んだ青色に戻り、レオンがふと視線を上げる。
湿気を含む風が、開け放たれた窓から入り込んでいた。
「……雨か」
彼が目を向けた窓の向こう――薄曇りだった空には、湿気を多く含んだ厚い雲が広がり、ぽつりぽつりと雨が降り始めていた。
拙作をお読みくださり、ありがとうございます。
重ねて、ブックマーク、評価、ありがとうございます。
今後も頑張りますので、ぜひお読みいただけますと幸いです。
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鬼頭twitter→@kito_kozuki




